第72話
ピンク色の旅行から帰宅して一月が経った。恭弥の思惑通り清明と小春は英一郎の弟子になり、順調に修行を積んでいるらしい。薫も無事意識を取り戻し、最近ではお務めにも顔を出していた。
その間恭弥はほどほどにお務めをこなし、周囲の女性達とのちょうどよい距離感というものを模索していた。誰か一人に傾ききらずに、皆にいい顔をする。八方美人のやり方を模索していたとも言える。
とはいえ、そのかいあって周囲の女性陣に目立ったいさかいはなく、穏やかな日々を送っていた。
「夜に哭く」本編開始五ヶ月前である現在はつかの間の安息とも言えた。「赤い月」の前後は目まぐるしく事態が変移していた事を思うと、本当に心穏やかだった。
「そういえば、そろそろ清明君と小春が転学してくるらしいです」
居間の座椅子に座り、お茶をすすっていた恭弥が話題の一つとして話し始める。
「清明君と小春さん、というと恭弥が推薦したお二人ですか?」
「ですです。英一郎さんのところでビシバシ鍛えられてるらしいんで、あの二人の才能だったらそろそろ英一郎さん同伴でお務めに行くんじゃないかなあ」
「随分と早いですね。まだ師事して一ヶ月程度でしたよね」
通常優秀とされる退魔師であっても、よい師、よい環境にあっても半年程度みっちり修行を積んで初めて経験者同伴でお務めに出るのが一般的である。しかし、清明と小春はそんじょそこらの退魔師とは比べ物にならないほどの才能がある。
なにせ「夜に哭く」本編開始時点で誰にも師事していなかったというのに経験者同伴でお務めに出る事が出来たほどだ。そこに、恭弥の計らいで指導力に優れた英一郎に師事しているのだ。一ヶ月程度とはいえそれなりに戦えるようになっているだろう。
そもそも「夜に哭く」の主要人物達はどんどんインフレしていく妖の強さに対抗する関係上とんでもないスピードで強くなっていく。本編が始まった際に少しでも楽が出来るように一刻も早く強くなってもらわなければ困る。
「それに比べて我が弟子は……」
千鶴はハアとため息をついた。
「……なんです? なんか言いたい事でも」
「やる気を出したのはいいですが結果がなかなかついてこないですね」
「すいませんね、出来の悪い弟子で」
「本当です。修行の方針を変えて攻撃的な術を学ぶようになったのはいいですが、急に覚えが悪くなるのですもの。どうしてですかね」
「性格ですかねえ」
「恭弥は追い詰められないと攻撃性が出ないのをなんとかしなければいけませんね。今のままでは不意打ちされた際の対処法が限られてしまいます」
「うーん。攻撃性ねえ……鬼を身に宿してるからあるはずなんですけど」
「鬼の力など使わずともよいように修行あるのみです」
「頑張ります」
「夕食が出来ました」
「あ、はーい。恭弥、並べるのを手伝いますよ」
言うが早いか千鶴は先程までののんびりとした態度はどこに行ったのか素早い動きで台所まで行っておかずを取りに行った。
こうして狭間家が穏やかな夜を過ごしている頃、清明と小春は緊張の真っ只中にいた。
二人は今夜初めて英一郎同伴でお務めを行う。相手は餓鬼。定期的に湧く妖の中でも下から数えた方が早い各の低い妖だ。お務めの空気感を学ぶにはちょうどよい相手である。
「そんなに緊張しなくてもいつも通りやれば大丈夫だ」
緊張のあまり口数の少なくなっている二人に向かって英一郎が言った。
「そうですか」
「ったく。男だろう、芦屋。覚悟決めろ。土御門も下ばっか向いてるんじゃない」
「そうは言ってもやっぱり緊張しちゃいます」
二人は送迎車に乗ったその瞬間からずっとこの調子だ。英一郎が気を使って声をかけても生返事をするばかりだ。
(マズイな。こんな調子じゃどこでポカやらかすかわかったもんじゃない。しょうがないな……一計を案じるか)
清明と小春からしてみれば、妖は両親を殺した憎き相手であると同時に恐怖の対象でもある。人智の及ばぬ力を持った相手に、いくら修行を積んだといっても気持ちで負けてしまうのはしょうがない事だった。
「もう少々で着きます。ご準備をお願いします」
協会付きの運転手が言った。いよいよその時が来たのか、と清明と小春は思った。
それから三分ほど経って目的地に着いた車は停止した。
都市部から離れた公営の大型公園で、餓鬼達は星空を眺めに訪れただろうカップル達に寄ってたかってその肉を貪っていた。腕をもぎ、前腕に付いた肉を前歯でこそぎ落とすようにして食している。一人の死体に五体は群がっている。全体で見れば二十体くらいだろうか。
餓鬼は骨髄のスープを楽しむために犬歯を突き立てていた。ゴリゴリと骨を噛み砕く音が響いていて、その音がどうしようもないリアルを突きつけていた。
「よーし。ひよっこ共、まずは俺が手本を見せる。お前らは俺の後に続け」
英一郎は拳を硬化させた。煙草を口の端に咥えながら散歩でもしに行くかのような気軽さで餓鬼に近づいていくと、その頭を文字通り殴り飛ばした。背骨ごと抜けた頭が宙を跨いで地面にボトリと落ちた。
「次はお前達の番だぞ、ボサッとするな」
英一郎は棒立ちになっている芦屋に発破をかける。小春は恐怖心を抱きながらも、しっかりと刀を握る事は出来ている。ここでやる気が見せられないようでは先が思いやられる。
「そ、そんな事言ったって」
「大丈夫だ。普段の修行を思い出せばお前ならやれる」
英一郎に何か返そうとしたその口はしかし、声を発する事はなかった。始まってしまったのだ。敵の訪れを察した餓鬼は一斉にその赤い目をこちらに向けてきていた。腰を低くして、今にもこちらに飛びかかってきそうだった。
「クソ!」
両親を奪った吸血鬼と同じ色をした目。否が応でもあの日の記憶がフラッシュバックする。
手は汗でしっとりと滲み、心臓は早鐘を打っている。刀を握る手が震えていた。だが、このまま何もしなければ自分の地面に横たわるカップル達と同じ未来を辿ってしまう。清明は鞘に収められたままの正宗を正眼に構えた。しかし、手と足の震えが止まらなかった。
そうこうしている内に、小春は一足早く駆け出して餓鬼に斬りかかっていた。
「やあ!」
英一郎が切れ過ぎると評しただけある。型も何もかく無茶苦茶の破れかぶれに振り下ろされた人斬り包丁は、餓鬼の頭蓋を大した抵抗もなく真っ二つに切り裂いた。
脳漿と熱い血液が吹き出る。びゅうびゅうと噴水のように跳ね上がった内蔵物が小春の頬を汚した。
「きゃ!」
反射的に目を閉じてしまった。その隙に三体の餓鬼が小春へと飛びかかる。
人にはない暴力性を持った長く鋭利な爪があわや乙女の柔肌を傷つけようとしたその瞬間、英一郎の硬化した拳が通過した。
瞬く間に三体の餓鬼の頭を潰した英一郎は、自身の手に付着した血をパッパッと払った。
蹂躙劇の間近にいた小春はすっかり血と脳漿で濡れ鼠になってしまった。自らの惨状に小春は呆然する。しかし、それを許さないのが餓鬼だった。眼前に立つ英一郎がこの場における最大の脅威と理解した餓鬼が向かってくる。英一郎の背後にいる小春はあまりの迫力に声が出せなかった。
「あークソ。おい芦屋、いつまで突っ立ってるつもりだ。気合入れて土御門守れ!」
迫りくる餓鬼を次々と殴り殺しながら英一郎は言った。
「す、すいません!」
弾かれたように清明は駆け出した。緊張で口がカラカラだった。だが、小春を守るためにがむしゃらに正宗を振るう。
腰の入っていない、ただの振り回しに過ぎないが、正宗が宿した退魔の力によって触れるだけで餓鬼が消滅していった。
それを見た小春もいつしか立ち上がり、人斬り包丁をしっかりと握り餓鬼に立ち向かっていく。
「よし、いいぞ。もう少しだ。気を抜くな」
英一郎はあくまでサポートに徹していた。餓鬼が清明と小春も自身を害す存在であると認識した今、ちょうどよい塩梅に攻撃分散している。
片がつくのは時間の問題だった。勢いに乗った清明と小春は次々と餓鬼を討っていく。そうして小春が最後の一体の胴を断ち切った時、二人の表情には達成感が満ちていた。
「やった……!」
肩で息をしながら清明は言った。人生で初めて経験するお務めは、想像の何倍も体力気力を消耗した。それは、小春も同様で、立ち上がる気力もないのか地べたに座り込んでいる。英一郎はそんな二人の様子を見て薄く笑いながら煙草に火を付けた。
(ヤバいかと思ったが案外卒なくこなしたな。とはいえ、油断しきっちゃあいかんのよな)
英一郎の視線の先には最後の力を振り絞って小春に一矢報いようとする餓鬼がいた。それは、二人に危機感を持たせるためにあえて殺しきらなかった一体だった。
理想は清明か小春が気付いて止めを刺す事だ。ギリギリまで自分は手出ししない。とは言いつつも可愛い弟子に不必要な怪我をさせるつもりはない。英一郎はそれと気付かれないように、万が一の際に備えて対処可能な場所にこっそり移動した。
「あたしにも……出来た……!」
「そうだな、俺達やったんだ! 俺達も退魔師だ!」
(あーあ完全に油断しきっちゃって。調子乗ってるな)
油断したその隙を狙って餓鬼が跳ねた。小春目掛けて大口を開けて飛びかかった。
「小春!」
「え、きゃあ!」
手を伸ばしても届かない。清明の脳裏に最悪の未来がよぎった。しかし、その未来を書き換える者がいた。
にゅっと横から伸びてきた英一郎の硬化させた足が餓鬼の飛びかかりを阻んだ。
英一郎は地べたに這いつくばった餓鬼の頭に足を置いてその動きを止める。餓鬼はジタバタと足を動かし逃れようとするが、英一郎がそれを許さない。
「いいかお前ら。人間勝ったと思ったその瞬間が最も気が抜ける。妖共にとってその一瞬は命を奪うのに十分過ぎる。だから、敵を倒しても暫くは油断するな。いわゆる残心ってやつだ。熟練の退魔師もそれで命を落とす事もある。肝に銘じとけ」
英一郎は言葉の締めくくりとばかりにブシュっと餓鬼の頭を踏み潰した。オレンジ色の綿が辺り一面に飛び散った。
「……はい。すいませんでした。もう油断しません」
「ごめんなさい」
清明と小春は順に謝った。二人がしっかりと反省している事を確認した英一郎は気落ちしている二人に向かってこう続けた。
「わかればよし! お前らこの後時間あるか?」
「え、俺はありますけど」
「あたしも。まだ何かあるんですか?」
「初めてお務めを成功させたんだ。師匠として弟子に褒美をやらないとな。ウチに来い。ちょー贅沢な飯を用意してある」
「マジっすか!」
「あたし食べれるかな……この惨状を見た後にご飯はちょっと……」
「バカ野郎。これからこんなのが日常になるんだ。吐いてもいいから食え。食べる訓練だと思え。退魔師は身体が資本だ」
「そんな無茶苦茶な……」
「ちなみに何か食いたいものはあるか。今からでも注文可能だぞ」
「なんでもいいんですか?」
「おう。男に二言はない」
「じゃ、じゃあステーキとか……」
「かあーっ! スケールの小っちぇ奴だな。どうせなら日本で一番高い肉を食わせろとか言ってみろ。ごちそうのしがいがない」
「え、マジでそんな高級な物食えるんですか」
「伊勢海老、あわび、毛ガニにふぐになんでもござれだ。こんな機会はもうないぞー? 今の内に食いたい物全部食っとけ」
小春はじゅるりとよだれをすすった。
「ちょっとお腹空いてきたかも……」
「うおー! 退魔師になってよかった! 俺一回黒毛和牛のステーキって食ってみたかったんですよ!」
「おうおう。好きなだけ食え。でもま、土御門は先に風呂だな」
「そうですよ! あたしの真上で血がブシャーって! もうちょっとなんとかならなかったんですか!」
「人に守ってもらっておいて注文の多いやつだな。そんな事だと次は知らんぞお?」
「あ、やっぱ今のナシ。すいませんでした」
「わかればいいんだ、わかれば。よし、そんじゃ帰るぞ」
「「はい!」」
英一郎は前途有望な二人の駆け出し退魔師にはバレないように笑みを浮かべた。
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