名人の領域

矢魂

名人の領域

『運』という言葉は非常に都合の良い言葉である。自分が勝てば、


『運も実力のうち』


 自分が負ければ、


『勝負は時の運』


 しかし、こと名人同士の戦いにおいては運の介在する余地は存在しない。そこにあるのは必然のみである。名人の領域に達した者達の勝敗というのは、互いが磨きあげた比類なき才能と、事前に張り巡らされた策謀によってのみ決定されるのだ。そして今日この場でも、二人の名人による世紀の一戦が始まろうとしていた。


 とある夏の日。厳しい暑さの続く今年の中でも特に気温の高い日であった。ジリジリという音が聞こえてきそうなほど強い日差しに晒された木造の小屋の中で、彼等は向かい合って座っていた。一人はスキンヘッドと極太の眉毛がトレードマークの棋士・タナカ名人。豪胆な見た目に反して、手堅く慎重な試合運びを得意とする頭脳派の棋士である。対するはキッチリと前髪を分けた爽やかな印象を持つ棋士・スズキ名人。大胆かつトリッキーな戦術を用い、思わぬ逆転勝利を納めることも少なくない。また、その甘いマスクから女性人気も高い。

 タナカ名人とスズキ名人。二人の実力者による一騎討ち。だというのに会場は古ぼけた小屋の中。係員もおらず数人の立会人がいるだけである。というのも、この試合が非公式なモノだからだ。

 人間というのは悲しいもので、古今東西ありとあらゆる事を賭けの対象にしてきた。馬を、ボートを、自転車を、トランプを、花札を、サイコロを、そして将棋も……。つまり、この二人は賭け将棋を生業にしているアマチュアの棋士。所謂『真剣師しんけんし』と呼ばれる類いの人間であった。しかしその実力はプロにも劣らない、いや、プロをも凌ぐとも言われており、その界隈では敬意を込めて名人と呼ばれているのだ。


「それではタナカ名人対スズキ名人の対局を開始致します」


 二人の間に立つ体格の良い黒服の男がそう告げた。そしてそれは、前代未聞の頭脳戦の開幕を知らせる合図でもあった。

 名人二名による対局。その立ち上がりは非常に静なものだった。タナカ名人は手堅く守りを固め、スズキ名人はその牙城を崩すため縦横無尽に揺さぶりをかける。両者一歩も譲らない、手に汗を握る展開。だがそれでも、全くの互角と言うわけではなかった。対局が始まってしばらく経った頃。徐々に、だが確実にその均衡は崩れていった。守りに徹するタナカ名人の陣営は攻撃に転ずる機会に恵まれず、終始後手に回る他なかった。一方長い揺さぶりの末突破口を見つけたスズキ名人は、対局が中盤に差し掛かった今、一気に攻め手を強める。

 現在、この対局を支配しているのはどちらか?それはこの場にいる立会人、そしてなにより実際に将棋を指している両名が一番わかっていた。劣勢であるタナカ名人と優勢であるスズキ名人。その心中は全くの逆である。


(このまま行けばワシの負けじゃ!)

(このまま行けば私の勝ちです!)


 だが、タナカ名人は自らのツルリとした頭を撫でると、ニヤリとわらった。それは決して負けを意識した人間の笑いではない。そして次の瞬間、彼は驚異の戦術を披露したのだ。


「あっ!!あんなところでビッグフットがツイストを踊っているぞ!!」


 窓の外を指差し、彼はそう叫んだ。すると会場の人間の視線はみな、一瞬にして窓の外に釘付けになる。勿論、イケメン棋士・スズキ名人も例外ではない。なにせ幻の猿人が捻りを加えながら踊り狂っているのだから、見たくなるのが人心というもの。


(フン!ただ将棋が強いだけならばまだまだ二流の証。一流の真剣師とはどんな状況でも、絶対に勝てるヤツのことをいうんだよ!)


 タナカ名人は、会場の人間の注意が逸れた一瞬の隙をつき、懐から紙に包まれた粉薬を取り出した。そしてビッグフットに思いを寄せるスズキ名人の手元にあるお茶にそれを混ぜたのだ。


(ククク。そいつは超強力な下剤!一口飲めば最後、なかなか便所から出ることは叶わん。スズキの野郎は持ち時間を使いきり、便所の中で敗北を迎えるのだ。……さあ!飲め!)

(……などと考えているのでしょう?タナカ殿は。しかし、その戦術はすでに読んでいましたよ)


 窓から視線を戻したスズキ名人はニッコリと微笑んだ。そして涼しい顔をして前髪をかきあげる。そう。彼はタナカ名人の時間切れを狙うという盤外戦術をすでに看破していたのである。


「いやー、すまんすまん。ビッグフットは見間違いじゃ。がっはっは!」

「構いませんよ。ところで……ん?あれは!」


 わざとらしい笑いをするタナカ名人に向かって、今度はスズキ名人が窓の外を指差し叫ぶ。


「大変だ!あんなところでチュパカブラがランバダを踊っています!!」


 その声にタナカ名人を含む会場の人間は、またもや窓の外を凝視する。なにせ、正体不明の吸血生物が二人一組になってセクシーなダンスを踊っているのだ。見たくない人間などいないはずである。


(数手先を読み、冷静に対処する。それが一流の技ですよ。タナカ殿)


 スズキ名人はその隙をつき、自分のお茶とタナカ名人のお茶を入れ替えた。そして何食わぬ顔で弁明をする。


「申し訳ない。チュパカブラは見間違いのようです」

「……気を付けろよ?」


 訝しげに眉をひそめるタナカ名人を見ながら、スズキ名人は内心ぺろりと舌を出した。


(今、下剤入りのお茶はタナカ殿の前。だが彼はお茶のすり替えに気付いていない。つまり、私はただ彼がお茶を飲むのを待てばいいだけ……。さあ!飲みなさい!)

(……なんて考えてんだろう?お見通しなんだよ!!)


 フンと鼻を鳴らすとタナカ名人は手拭いで額の汗を拭う。そして、スズキ名人のお茶にチラリと視線をやった。


(甘い!甘過ぎる!!ワシの好物のマカロンより甘いわ!お前がそこまで読むことは予想済み。だからワシはさっきのタイミングで自分の茶にも下剤を入れておいたのだ!)


 タナカ名人は下剤を包んでいた二枚の紙をくしゃくしゃと握り潰すとそれを懐にしまう。


(つまり現在、スズキは自分の茶には下剤は入っていないと安心しているはずだ。ワシはただ待てばいい。ヤツが自滅するのをな)

(……などと考えているならば、あなたに勝ち目はありませんよ?万にひとつもね)


 懐から扇子を取り出すと、スズキ名人はそれで自らをパタパタと扇ぐ。


(今、お互いに下剤入りのお茶を把握している状況。普通ならば絶対にお茶は飲まないでしょう。……ならば飲まざるをえなくすればいい)


 そうして彼は部屋に取り付けられた古ぼけたエアコンを見上げた。


(今日はこの夏一番の猛暑。エアコンがなければとても耐えられる気温ではありません。しかし、この展開を読んでいた私は事前に部屋の空調を破壊しておきました。このままでは脱水症状は免れられない。さあ!飲むのです!)

(……って考えてるツラだな。馬鹿なヤツめ)


 額に浮き出る玉のような汗を再び拭い、タナカ名人はニヤニヤと笑う。なにせ、ここまでが自分の読み通りだったからだ。


(スズキの野郎はワシの手のひらの上だ!何故ならここまでは予測の範囲内!こんなこともあろうかとワシは事前に最寄りのコンビニで飲料水をしこたま飲んでおいたのだ。よって体内の水分は十分。ククク。さすがのスズキもここまでは読みきれなかったようだな。結局アイツは自分で破壊した空調によって苦しめられるのだ!)

(……という心の声が聞こえてきそうですよ?タナカ殿。相変わらず顔にでるお方だ。この私が何の対策もなくこんな策を弄するとでも?フフ、私はこの対局の直前に最寄りのコンビニに寄っていた。そして体温を下げる為に大量に摂取していたのですよ……アイスをね!)


 不敵に笑う二人の棋士。互いにのらりくらりと駒を動かし、時間稼ぎを始める。全ては相手にお茶を飲ませる時間を作るため。だが、その小競り合いも終わり迎える時がきた。それも思いもよらない形で。


(さあスズキ!暑いだろう。早くその茶を飲め!)

(タナカ殿!喉が渇いたでしょう?我慢は体に毒です。早くそのお茶を飲みなさい!)

(飲むんだ!)

(飲むんです!)

(飲め!)

(飲め!)

((飲め!!))


 その時だった。


『ぐぎゅるるる』


 凄まじい音が狭い会場内に響き渡る。冷たい飲料水とアイス。アプローチは違えど両者が体内に与えたダメージは甚大だった。そしてこの大事な局面で彼等の胃腸は同時に危険信号をあげたのだ。

 次の瞬間、タナカ名人は発射された鉄砲玉の如く席を立った。続いてスズキ名人も立ち上がるが、完全に出遅れてしまう。そのままタナカ名人はトイレの個室に滑り込むと鍵をかけ、ガッツポーズを決めた。


(よし!よし!!ワシの読み通りだ!)


 カラカラとトイレットペーパーを引き出し、彼は顎から滴る汗を拭き取る。そして自らの作戦を思い返しニタニタと笑った。


(ここまで読んでいたワシはあらかじめこの個室以外の便座を破壊しておいたのだ。これによりヤツは最寄りのコンビニで便所を借りるしかなくなった。だが!あの店は便所の貸し出しを原則禁止にしている。更に今日のシフトはマニュアル人間の吉田・山本コンビ。絶対に便所は貸してくれないだろう。だからワシはゆっくりと用を足してから持ち場に戻ればいい。あとはスズキのヤツが便所を求めて右往左往し、勝手に時間切れになるだろう)


 だが、そんなタナカ名人の思考を遮るように、コンコンというノック音が響く。


「タナカ殿?まだでしょうか?」

(スズキのヤツ。早くコンビニに行けばいいものを。まあ、いい)

「ああ、スズキさん。申し訳ないがワシはもう少しかかりそうでね。よかったらあっちのコンビニに行ってくれないかね?」

「いや、タナカ殿。実はあの店、トイレを貸してはくれないのです。ですから私はここで待ちますよ」

(くそ!アイツも調べてたか……あ!!)


 その時、タナカ名人は自分の犯したミスに気が付いた。トイレに向かって駆け出す瞬間、彼はスズキ名人よりも先に個室を取るため、駒を動かさずに席を立った。そのため現在はタナカ名人のターンであり、トイレでこの膠着状態が続けば遅延行為をしているのは彼ということになってしまう。そうしていずれは持ち時間を使いきってしまう危険性が出てきたのだ。だからといって、そうそうにトイレを明け渡してしまっては、本調子のスズキ名人に単純な実力差で負ける可能性が高い。八方塞がり。まさに王手の状態。この便座は文字通りタナカ名人にとっての玉座となったのだ。


(どうする?どうする?ええい!仕方ない!)


 この局面で彼が取った行動。それは沈黙だった。


(どうせ負けるならこの便所を陣取ってスズキの野郎が用を足せないようにしてやる!さっきのヤツの顔……。かなり限界だろう。あのムカつく色男が漏らす様を見れるんならもう負けても構わねえ!)


 そう腹に決めると、彼は便座にどかりと腰を下ろし腕を組んだ。そして、ただ時が過ぎるのを待った。

 どのくらいたったか。ひとつわかるのはおそらくタナカ名人の敗北はとっくに決まっている時間だということ。それでも彼は待ち続けた。そして。


『ガタガタン!!』


(今の音は!?スズキのヤツ、遂に音を上げたか!)


 そう思ったタナカ名人は嬉々としてドアを開いた。だが、そこには涼しい顔をしたスズキ名人が立っていのだ。


「お、お前!何で無事なんだ!!限界だったはずじゃあ……」

「今日の対局。私はこの展開まで読んでいました。だから事前に最寄りのコンビニで『コレ』も購入しておいたのです。そしてコレにより危機を回避しました」


 そうして突き出されたスズキ名人の手には一枚の袋がぶら下がっていた。


「そ、それは……。お、オムツだとぉぉー!!」


 トイレの中に、タナカ名人の情けない声だけが木霊した。


「いやー!負けた負けた!試合にも勝負にも負けちまった!大したヤツだよ、スズキ君」

「いえ、たまたまですよ」


 会場に戻ると、タナカ名人は豪快に笑いながらスズキ名人の肩を叩く。そうして二人は熱い握手を交わした。


「気に入った!今晩ウチに飲みに来ないかね?スズキ君!」

「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」


 その瞬間、タナカ名人は極太の眉をしかめると、スズキ名人を殴りつけた。その様子を見た立会人が慌てて止めに入る。


「どうしたんですか!?タナカ名人!」

「今晩コイツがウチに来た時、ワシの嫁と不倫しやがるんだ!ワシくらいの名人になるとそこまで読めるんだよ!」


 それを聞いたスズキ名人は頬をさすりながら、ふうっと溜め息を吐いた。


「そんなことではまだまだですね。私くらいの名人になると、その後不倫が私の妻にバレて家から閉め出される所まで読むことができますよ」


 彼は得意気にそう語ると、懐から携帯電話を取り出し、まだしてもいない不貞の謝罪を自らの奥さんに向かって始めるのだった。

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