第10話 フィリップ王子との婚約

 今にも暴れ出しそうな妹を、モーガン様と使用人が数人がかりで部屋に連れていった。その叫び声は彼女が部屋に押し込められるまでずっと聞こえていたが、やがて静寂が訪れる。


 残された王子とお父様、私はフィリップ王子主導の元、既に用意されていた婚約の書類にサインをした。あっという間の出来事だった。


「して、スカーレット伯爵。すまないが、婚約者であるジュリアはしばらく静養が必要に思える。このまま痩せ細られては婚約指輪も贈れない。明日、迎の馬車を寄越すので王宮にて静養する支度を整えておくように」


「…………畏まりました」


 お父様は何も言えなかった。家長として、これは余りにも大きな失態である。私の事をこの家から引き離してくれるというフィリップ王子には感謝の念しかない。


 イグレット公爵家には何かお咎めがあるのだろうか? 私が王子の婚約者としてスカーレット家を離れたら、私はあの秘密をどうすればいいのだろうか。


 あの二人の婚約破棄をさせなければならない。しかし、碌に栄養も摂らず働きもしていなかった頭は、今は目の前の事でいっぱいだ。


 紫紺の瞳がなんの心配もないというように微笑んでくれる。本当だろうか、と思うまま、差し出されたハンカチを受け取って私は流れるままにしていた涙を拭った。


 先程のマリアの豹変。使用人たちから聞いていたより、根はもっと深いのかもしれない。


 あれは、モーガン様と婚約したかった訳じゃない。なんでも与えられていた妹が、私がより良いものを手にする事が耐えられない、ただそれだけの理由でモーガン様を望んだのだとしたら……?


 その為に社交界に出ず、只管モーガン様を狙い続け、私を陥れ、モーガン様との……いえ、次期公爵夫人という地位を望んでいたのだとしたら。


 私の頭がグワングワンと痛くなる。体調の悪そうな私を支えて部屋まで送ってくださったフィリップ王子は、明日迎えにくるから、と言って帰って行かれた。


 使用人たちは喜んで私を送り出す支度を整えた。この家は、スカーレット伯爵家は歪んでいたのだ。


 イグレット公爵家との間に借りができてしまった時から、歪んでいた。


 私はその歪みの、最初の歯車を狂わせたきっかけであり元凶……全てが綴られた母の遺書を日記帳に挟んだまま、荷物の中に入れた。


 その日の晩餐、お父様はマリアには部屋に謹慎を言い渡し、モーガン様には落ち着いたら連絡するとして、二人きりで晩餐を摂った。


 お母様が亡くなってから暫くはこうだったのに、1ヶ月の間私が部屋に篭っていた時には、マリアとモーガン様がここでお父様と晩餐を摂っていたのだ。


「ジュリア……」


「はい、お父様」


「…………何もかも、すまなかった」


 カトラリーを置いて、お父様は深く頭を下げた。私は、それに、許すとも許さないとも言えなかった。


 今の私があるのはお父様のお陰ではあるけれど、私もマリアのように天真爛漫に笑えるように愛されたかった。


 きっとお父様は配分を間違えたのだ。私とマリア、それぞれに与える愛情の種類の配分を。


 お互い半分ずつ交換できていれば、スカーレット伯爵家は歪まなかったかもしれない。


 そして、私の中にふつふつとした物が煮えたぎっていた。


 イグレット公爵。彼が、全部狂わせた。助けられた事は事実だけれど、下手に友情を傘に着なければ、金銭のやり取りで少しずつ借りを返させてくれていれば、……そして、お母様を手篭めにしなければ。


 私は誰に何をぶつけるべきか迷っていた。


 愚かな元婚約者、私より何もかも持っていたい馬鹿な妹、それらの親であるイグレット公爵。


 きっとイグレット公爵は知らないのだろう。息子の婚約者が自分の実の娘だという事を。


 私は何も言わず、明日より家を離れます、お世話になりました、とだけ挨拶をして、晩餐の席を後にした。

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