第32話 拗らせた感情

 マティアスとシンシアが影で力になるべく仲睦まじく活動し始めた頃……


「…………はぁ」


 サナトスの王太子──ジェラルド・イェーガーは、執務室の机に向かって書類処理をしているものの、心ここに有らずといった様子で、度々自身の手を見つめては、恋煩いのように溜め息を吐いていた。

 実際愛しい人を想い無自覚に取っている仕草なのだが、周囲にはそれが恋する乙女の様に見えて仕方がなく、執事のバーナードも従僕のロンも、顔を見合わせて苦笑していた。


(……ヴァイオレット)


 従者の主を見る生暖かい目には気付かずに、ジェラルドは何度も自分の手を見つめては、心の中で想い人の名を呼んでいた。

 昨日、ヴァイオレットが頬を打たれた瞬間を目撃したジェラルドは、ユリシーズの制止を振り切って彼女の下に移転した。

 目の前で傷付けられて素知らぬ振りは出来なかった。

 そして突如として現れたジェラルドに驚きの目を向けたヴァイオレットの肩を抱き、頬の傷を押さえていた手に自身のそれを重ねた。

 もう大丈夫。これ以上、君を傷付けさせはしない……そんな思いでいっぱいだった。

 大切な人を傷付けられた怒りと彼女を守る意志に、当時のジェラルドは呑まれていた。

 だから 気付かなかった。


(……ずっと触れていた)


 それだけ聞いたら危ない台詞が彼の中で生まれる。

 園庭に舞い降りた瞬間から、驚くヴァイオレットを抱き寄せていた。そして園庭からヴァイオレットの部屋に移転した後もほぼ密着状態だった。


(とても華奢で、背も低かった……小動物みたいだった)


 幼き頃、ヴァイオレットの頭はジェラルドの顎下にあった。ところが昨日抱き寄せた彼女の頭は彼の胸までしかなかった。


(肩も腰も細く、指ですら折れそうな程ほっそりしていた……香りも、良かった)


 最早危険人物だが、今のジェラルドに冷静な思考能力は皆無だった。

 十年間、触れたいと思い、自身の婚約者にと望んだ相手の女性の部分に触れて、ジェラルドの中で理性の壁が一部崩壊してしまった。要は、拗らせているのである。


 そしてふと、頬の傷を思い出す。


 シンシアの治療中、ジェラルドはその光景を見つめていた。

 痛々しい傷は痕もなく綺麗に消えたが、打たれた頬はそれなりに深く傷付いていた。

 見ていたのに止める事が出来なかった後悔が、ジェラルドの胸に押し寄せる。

 マティアスがシンシアを連れて帰った後、ジェラルドもヴァイオレットの下を後にしたが、部屋を出る間際、彼は謝罪と愛情を込めて、完治した頬をそっと撫でたのだった。


(……ヴァイオレット)


 触れた瞬間赤く染まった彼女の頬や、自惚れてしまう様な瞳の潤み具合を思い出して、再び溜め息を吐く。そしてまた触れた事を思い出しては……という事を、本日ずっと繰り返していた。


「…………はぁ」

「殿下、今宜しいでしょうか?」


 執事のバーナードの声に、迷走中だった意識が戻って来る。

 人の様子を窺っているも、その表情は何処と無く面白そうといった色を含んでいた。


「なんだ、バーナード」

「そんなに気になるのであれば、お茶に誘ってみては如何ですか?」


 バーナードの進言に、ジェラルドは目を瞬かせ……そして眉を寄せた。


「いや……今日は、いい。彼女も忙しそうだからな」


 お茶に誘うのは良い。出来れば誘って、今までの時間を取り戻したいとも考えている。だがこんな邪な考えを抱いたまま誘うのは気が引けた。


「男であれ女であれ、少しぐらい下心があった方が人間らしく輝きますぞ。彼女はもう誰の婚約者でもありません。お茶に誘うぐらい許されます。それにヴァイオレット嬢はこの後暫く時間が空く様です……チャンスを逃すのは勿体無いですよ、殿下」


 ほっほっほっ、と、髪も髭も白くなった歴戦の執事の微笑みが、ジェラルドの目には妙に逞しく写った。


「……どうぞ、殿下」


 淹れたての紅茶を、ロンが控えめに支給する。

 出されたそれはアップルティー……ヴァイオレットが好むお茶だった。


「……一人で飲むよりは良いか」

「では、お誘いしても?」

「ああ……決して急かさぬようにな」


 決まれば後は早く、バーナードもロンも、他の従者たちも即座に動き始め、ジェラルドは一瞬にして執務室に独りになった。


「……これは本当に俺のためか?」


 ポツリとこぼれた疑問は誰に届くでもなく空中に消えた。

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