第9話 青の庭
王宮の一角には、王家の正式な園庭とは別に、王子王女たち個人の温室や園庭が備えられている。そこでは皆好きな植物を育てており、所有者である彼らの許可が降りれば、その園庭を好きに見て回れるようになっていた。
その内の一つに、スミレ──ヴァイオレットが植わっている庭がある。
紫色の綺麗な花を一面に咲かせているそこは、第一王子……否、王太子──ジェラルド・イェーガーの園庭であった。
(……綺麗)
遠目からその紫を見つめ、ヴァイオレット・オルブライドは感嘆とした。
『俺の庭に、花を植えたんだ』
『花、ですか?』
『うん。だから、咲いたら一番に見て欲しいんだ』
幼き日の約束を思い出して、ヴァイオレットは小さく笑った。
その約束の後、花が咲く前に婚約問題でジェラルドと別れてしまい、結局行けず仕舞いになってしまったが、自分と同じ名の花がずっと植えられているのを知れば、行けなかった事にガッカリはしても、約束やぶりと怒る気にはならなかった。
そんなヴァイオレットがいるのは、第二王子・クリフトフの園庭。
クリフトフの園庭には、元は赤い薔薇が咲き乱れていた。しかし今では、青い花の数々が、青空の色を写したかのように咲いている。
『……青が、好きなのか?』
王宮に住むようになってから数年経った頃。温室で品種改良中の青薔薇を眺めていたヴァイオレットに、クリフトフはそう聞いてきたのだった。
『……はい。青は、好きです』
ヴァイオレットが答えたのはこれだけだった。特別好きという訳ではなかったが、青の花は見ていて落ち着けるところは好ましいと思っていたのも確かだったので、嘘ではない回答をしたつもりだった。
『そうか……俺も、青は好きだ』
そう言って微笑んだクリフトフの笑顔は、今もヴァイオレットの中に鮮明に残っている。
その次の日からだった。クリフトフの園庭には青色の花が植えられていき、毎年新しい青が増えていくようになったのは……。
そのため赤い薔薇は減少してしまったが、クリフトフの園庭は、ヴァイオレットが好きだと言った青に包まれていた。
(彼が、本当にエミリア嬢を好きになればピンクなのに……)
紫の園庭から、青色の足元に視線を移す。
エミリアは衣服から何までピンクを取り入れるほどピンクが好きだ。
だがこの青の園庭には、ピンクは一つもない。先日新たに植えられたのも青の花で、ピンクが入る気配もなかった。
『君を、愛してる』
慕っているジェラルドからも言われた事がなかったクリフトフの想いは、今も続いてる。それはこの青の園庭が証明していた。
(嘘を演じるくらいなら、もっと頑張れた筈なのに……)
どんなに冷たい態度を取られても、その目が、声音が、この庭が、クリフトフの本心を表してしまっている。
彼が悩んでいたのは知っていた。だから、心は他にあっても、一人の人間として彼を支えていたつもりだった。
だがクリフトフが選んだのは、自身の破滅への道だった。
(どうしようもなく、優しい人)
しゃがんで、青の花弁を撫でる。
手入れされた花は生き生きとしているのに、何故かどこか物寂しく見えた。
(きっと、私も間違えてしまったのね……)
彼の性質を知っているなら、彼が立てなくなる前に、もっと別の支え方が出来た筈だった。
だがヴァイオレットはしなかった。それはヴァイオレット自身の感情がそうさせなかった。
(今の私が……彼に出来る事)
考えを巡らせていれば、後方から足音が聴こえ、「あらぁ?」という、甘ったるい声が飛んできた。
「ヴァイオレットさんじゃないですかぁ~! 殿下のお庭に勝手に入って、常識もない人なんですねぇ~!」
振り向けば、そこにはこの庭にないピンク色が歩いて来ていた。
立ち上がって、向き直る。
庭の青と同じ青い瞳で見据えれば、エミリアは一瞬、余裕の笑みをひきつらせた。
「……ごきげんよう、ボンネット嬢。ここの許可は取ってあるので、ご心配には及びませんわ」
微笑んでそう返せば、「あらぁ、そうだったんですかぁ。それなら良かったですぅ」と、崩れた演技も無かったことにして、エミリアは胸元に手を当てて、心底安心したといった体を取った。
その図太さは尊敬に値するが、もし本気で自分が上だと……クリフトフに愛されていると信じているのなら、それは喜劇でしかない。
「ねぇ、ヴァイオレットさん。あなた、クリフトフ殿下の邪魔でしかないの……わかっていますかぁ」
目が痛くなるピンクが、扇子を開いて口元を隠しながらホホホ、と笑った。しかし扇子の上から見える目は蔑みに満ちており、その勝ち誇った目に、ヴァイオレットは釣られて笑ってしまった。
「な、なんですかぁ? 人の注意を笑うなんて、酷いひとですねぇ!」
「ごめんなさい。なんと言いますか、本当に──憐れで笑ってしまいましたわ」
本当に、愛されていると思っているのだ。
クリフトフが式典で着る正装には、今回は黄色が入っている。しかし今まではずっと入っていたのは青色だ。また、ヴァイオレットが今まで贈られたドレスも青色で、いつも二人は同じ色を身に付けていた。
しかし、エミリアが贈られたというドレスは、今回クリフトフと同じ黄色だが、彼女の好きなピンクは何処にも入っていない。
「……一つ、良いことを教えて差し上げますわ」
足元の青に視線を落とす。
彼の庭に咲く花で、絶対に入らない色が存在するのを、彼女が聞いたら、一体どうなるのか……容易に想像がついてしまい、ヴァイオレットは口元に弧を描いた。
「この庭に、ピンクは絶対に入りません」
「は……はぁ?」
「ピンクは、私の苦手な色だからです……逆に言えば、好きな青色はいくらでも入ります」
ヴァイオレットの言葉に、目を泳がせて考えていたエミリアの顔が、一瞬にして赤く染まり、憤怒の形相で睨み付けてきた。
何を言われているのかわかったのだろう。扇子を畳み、ツカツカと歩いて来るエミリアに、ヴァイオレットは更に言葉を続けた。
「貴女は、殿下の好みもご存知ないのですか?」
──これで良いのでしょう? 殿下
バシンッ! と、乾いた音が園庭に響いた。
扇子で打たれた頬は焼けるような痛みを発し、そこに触れた手に、微かに自分の血が付着した。
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