その4 修士論文

「あー、疲れたよ。書いても書いても全然修論終わらない」

 葉介が大声で嘆いた。今日は一月十日。正月気分がまだ抜けきらない時期ではあるが、修士二年の学生にとっては、一か月後に控えている修士論文の提出まで気が抜けない状況になっている。この日も午後七時を回っていたが、恭太や葉介をはじめ、研究室に修士二年は全員残っていた。


「とりあえず夜ご飯食べに行って、気分切り替えない?」

 百合子がそう切り出すと、お腹の空いていた他のメンバーも賛成して、一同は食堂へと向かっていった。


「俺、正月休みも修論書くつもりだったんだけど、結局怠けちゃってほとんどできなかったんだよなあ。まだ20ページしか書けてないや」

 正忠が、ラーメンをすすりながらそう呟く。

「俺も40ページだよ。いやあ、マジで終わる気がしない」

 拓斗も正忠に同調した。


「桜田君はどれくらい修論書いたの?」

 葉介が恭太に尋ねる。

「うーん、ちょうど100ページ目を書いているところかなあ・・・」

 そう恭太が答えると、恭太以外の四人は驚いた表情を見せた。

「ひゃ、100ページってもう完成したも同然じゃない。私なんて、提出までに100ページ書ければいいかなって思っていたところよ」

 百合子が信じられないといった表情で言う。

「いや、むしろ100ページ書いたんだったら何でこの時間まで残っているの?」

 拓斗が不思議そうに尋ねてきた。

「え、いや。100ページ書いたと言っても、まだ書かなければいけない内容がたくさん残っているし、僕もみんなと同じくらいに頑張らないと提出までに書ききらないよ・・・」

 恭太がそう答えると、葉介が笑い出す。

「桜田君はたくさん書けるだけの研究してきたもんね。本当にすごいよなあ。それだけストイックに研究に打ち込めるなんて。最低限書けたらいいやとか考えていた俺らとは全然違うよ」



 本当にそうなのであろうか。恭太は内心疑問に思っていた。もちろん恭太自身は研究が好きな方であったが、正直修論を書くことは辛いと感じていた。それなのに、同期にはその部分をなかなか理解してもらえない。修論100ページ書いても、なお恭太が修論に夜遅くまで打ち込んでいるのは、いくつか理由がある。もちろん、恭太が同期よりも多くの研究成果を出していたからというのは間違いではないかもしれない。しかし、それよりも年明け早々に前田先生から届いたメールの内容も大きかった。


「桜田君、あけましておめでとうございます。

 本年も君の研究成果に期待しています。


 まずは、来月提出の修士論文ですね。私たちの学科には、最優秀修士論文賞というのがあって、桜田君には是非狙ってもらいたいです。やはり、博士に進学するからには、修士で就職する人と同じレベルではなく、それよりも高みを狙ってもらわないと困ります。学科の他の先生たちに、桜田君が博士進学するにふさわしい人物であることを十分に見せつけられるよう励んでくださいね。私もそのためには精いっぱいサポートします。


 前田」


 前田先生からのメールは、恭太に対する高い期待が込められた励ましのメールであった。しかし、恭太は、励ましよりもプレッシャーの方を強く感じてしまっていた。メールの内容が、修士で就職する人たちを少し軽く見ているようにとられかねないと思ったので、恭太はこのことを誰にも話せないでいた。強いプレッシャーから修論執筆に真剣に取り組んでいる様子を、同期には好きでやっているように見られていることのもどかしさも正直感じていた。




「よし、そろそろ研究室に戻って修論執筆再開するかあ」

 葉介がそう言うと、他の同期も立ち上がって、研究室に戻る支度を始めた。その時、正忠が恭太に声かけた。

「桜田君は三年後にも博論執筆しなきゃいけないんだよね。俺らからしたら無理な話だけど、桜田君なら問題ないよ。頑張って!」

 正忠のその言葉は、恭太の胸に重くのしかかった。

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