第一章 博士進学決意表明

その1 学会帰りの自宅

「ただいまー」

 恭太きょうたは、一週間ほどアメリカで開催された学会に参加し、久しぶりに自宅に戻ってきた。

「おかえり、恭太。疲れたでしょう。約束通り今日は餃子を作ったわよ」

 母親の理美さとみが、優しく恭太を迎えた。西都せいと大学の大学院修士課程に進学して一年が過ぎようとしていた。研究室配属されてからの恭太の生活はとても充実したものだった。先生にも気に入られており、修士学生で国際学会に参加できたのは恭太だけであった。

「お土産にチョコレート買ってきたから後で食べよう。それよりも早く餃子を食べたい」

 恭太は餃子が大好物であり、アメリカの食事があまり好みとは合わなかったため、理美の作る餃子を飛行機に乗っている間からずっと楽しみにしていた。

「そんなに焦らないの。今から食卓に並べますからね」

 理美は恭太の帰りが嬉しかったのか、鼻歌を歌いながらキッチンに戻った。


「お母さんはこの一週間、何か変わったことはあった?」

 恭太は、何気なく尋ねた。

「そうねぇ」

 理美は少し考えこんだ。

「うーん、特にはないかな。仕事は残業が多かったけど、休日は神奈川のおばあちゃんにも千葉のおじいちゃんおばあちゃんにも会えたし」

 神奈川のおばあちゃんとは理美の実母のことであり、千葉のおじいちゃんおばあちゃんは、恭太の父方の祖父母のことである。 理美の父親は恭太が高校生の時に亡くなっている。

「あ、そうなんだ。みんな元気にしていた?」

「相変わらずよ。恭太がアメリカにいるって言ったら、みんな喜んでいたよ」

「そうなんだ。来週末にはお土産持って会いに行こうかな」

 母子家庭だったこともあり、恭太は祖父母たちと小さいころからよく一緒に過ごしてきた。特に、父方の祖父母と会うときは、父親の小さい頃の話など聞くことができるので、恭太は今でも会える時を楽しみにしていた。


「あ、そうだ」

 理美が何かを思い出した。

莉緒りおちゃんがクッキー焼いたって一昨日、家に来たわよ。一緒に夕ご飯もその後食べたわ」

「え、莉緒が家に来たの?ずっと連絡していたのに、そんなことちっとも僕には言ってなかったよ」

 恭太と莉緒の関係は相変わらずで、恭太が学会に行っている間も毎日連絡を取り合っていたため、恭太は少し驚いた。

「あら、そうなのね。莉緒ちゃん就職先が決まったんだってね。すごく嬉しそうで、いろいろ話してくれたわよ」

「ああ、大手の食品会社から内定もらったみたいだよね。すごいよなー」

 莉緒は大学院に進学してからすぐに、就職に向けた準備をしており、インターンなどもたくさん行っていた。就活が本格化すると真っ先に大手の食品会社から内々定をもらったところは、さすがだと恭太も思っていた。

「恭太も研究が忙しいと思うけど、就活も頑張ってね」

 理美は、優しく恭太に言った。

「え・・・」

 恭太は、一瞬言葉に詰まった。

「私、大学院生がこんなにも早く就活をしなければいけないなんて知らなかったわ。研究も続けなきゃいけないだろうし、大学院生ってやっぱり大変なのね。恭太も体調に気を付けて頑張りなさいよ」

 理美は、恭太の表情を見ることなく、話し続けた。

「あ・・・帰国したばかりで疲れているわよね。今日はとりあえずお風呂に入ったら、寝てね」

 理美は、そう言い残して、食器洗いのためにキッチンに戻った。



 実は、恭太は内心で博士進学を決意しており、その意向を先生にも伝えていた。 修士で就職する人々が就活をする時期であることを理解していたが、恭太は就職について調べたことさえなかった。 理美にはまだそのことを伝えていなかったが、秘密にしているわけではなく、正式に決まったら報告するつもりだった。 恭太は、いつも自分の進路については事後報告が多いことに慣れており、それに対して理美が何か言うことはなかった。 だからこそ、先ほどの理美の発言は恭太にとって少し不可解であった。 まるで理美は、恭太が就職することを前提にしているかのように感じられ、その優しい言葉の中にも少し裏があるように感じられた。

「博士進学することは早めに伝えた方が良いかもしれないな・・・」

 風呂から上がってベッドに入った恭太は、心の中で呟いた後、目を閉じた。

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