十五杯目
「覚えてる? ほら、あのー、高校の頃人気だったユキエちゃん」
二人居る女性の、片方がケーキを口に運びながら言った。
「あー、毎日のように男侍らせてた?」
「そうそう、あの子最近結婚したらしいわよ」
よくある世間話だ。あめは、客の話はあまり聞かないようにしている。勿論、自分に話しかけられたら受け答え出来るくらいには聞いているけれど、客が帰ったらすぐに忘れる。
二人がケーキを食べている間に自分も一息つこうと、あめは自分用のカップを取り出した。自分で飲むのに、いいカップは要らない。安い、百円ショップで買ってきたコーヒーカップ。
「え、お相手は?」
「一個上の、サッカー部の、すごい人気あった先輩が居たでしょう? その人」
「あの人かぁ、それなら納得って感じ」
「あんたもラブレター送ってたもんね」
――そういうのは、よくわからないなぁ。
ネルの水を切りながら、そんなことを思った。実家が実家なのもあるけれど、高校生の頃は家から逃げ出して、よく師とでも言える人の店に通っていた。アルバイトとして行くこともあったし、普通に客として行くこともあった。結局家には帰らなければいけないのだけれど、それでも、ひと時でもあの家から逃げられるのがよかった。
「不思議だよねぇ。もう四十代よ? 高校の頃、あの二人、ユキエちゃんが告白を断ったからってすんごい仲悪かったのに」
「え、そうなの? 断ったって話、それ凄い初耳なんだけど」
珈琲豆が膨らむ。最初の一滴が垂れて、暫くはこのまま置いておかないといけない。
「知らなかったの? ユキエちゃん、振ってやったって自慢してた」
「私あの子に嫌われてたからなぁ」
「あー、そういうことね」
自分が高校の頃、自分の周りでは何が起こっていたのだろうと、少し気にはなる。部活もやっていなかったし、かといって放課後に遊ぶ時間があるわけでも無かったあめは、ずっと独りだった。授業とかそういうので最低限話すことはあったけれど、それ以上でも、それ以下でも無かった。
そう言えば、家庭科の授業では少し重宝されただろうか。パンケーキを焼く授業なんかは、なかなか美味しく焼けていたと思う。
人間関係が、なかった。
「ホントにあの二人、やっていけるのかしらねぇ」
ネルに、再び湯を落とす。ガスがぽこぽこと浮いてくるのは、いつ見ても心地いい。
「ユキエちゃんも気強いもんねぇ」
――逃げ出したことに対して、少しは罪悪感もある。
両親だって、私がやったのと同じように魔法の訓練をしたのだろうし、二人とも重役をやるくらいの家柄なのだから、その子供を立派な魔法使いにしたいと思うのだって、納得はいく。
でも、それは両親のやりたいことなのだ。
あめは、別に魔法使いになりたくはなかったから。
逃げ出して、よかったとも思う。いまこうして、自分のやりたいことをやりたいように出来ているのだから。
「ていうかユキエちゃんって浮気してなかった? 前」
「あー! あったあった!」
穂波は、恋愛の話が好きらしい。ここに居たら、色々言うのだろうかとも思う。
「不倫して離婚、とかなっちゃったりして」
「全然あり得ちゃうのが厭なところよね」
ネルの中の湯が全部落ち切る前に、シンクの方へ移して豆を捨てる。高校生の頃は、これも勿体ないと思ったものだ。
「でもユキエちゃんの家って結構大きな家って話だったじゃない?」
「あー、そうみたいね。じゃあ、不倫して離婚とかなると、結構大ごとなのかしら」
そう言えば実家はどうしているのだろう。長らく帰っていないから、流石に私を跡取りにしようとは、もう考えていないはずだけれど。だとしたら、養子でも取るのだろうか。それとも、弟だか妹でも設けたのだろうか。両親は、随分とあめを魔女にすることに囚われていたようだから、色々とまた後継者を探しているに違いない。
「ユキエちゃん、コネでお父さんの会社に入ったんだもんね」
「滅茶苦茶よねぇ。私もそういう裏口みたいなことしてみたいわ」
「やだ、絶対ろくなもんじゃないって」
「そういう親持った子も大変よねぇ。苦労を知らないで生きちゃうんじゃないかしら。いい家だとほら、上級国民とか言われちゃうんじゃない?」
ふんわりと、珈琲の香りが口の中に広がる。それなりに、美味しい方だとは思う。
「でも、それはそれで苦労しそうよね。どっちにしても」
「たしかにねぇ」
二人が食べていったケーキの皿と、飲んだ珈琲のカップをシンクに置いた。水を流して、はたと思う。
「実家、どうなってるのかなぁ」
帰りたくはない。けれど、少し知りたくはある。
出来ることなら、もう自分のことなんて忘れて、もっとまっとうに、ちゃんと一人の人間として生きたまま、新しい後継者を育てていればいいと思う。それとも、またあめがそうだったように、人形のように扱っているのなら――
なら、どうするというのだろう。
もしかしたら、そうやってがむしゃらに魔法の訓練を積むのが好きな子かもしれない。私が苦しんだ、あの永遠にも思える訓練の時間を過ごすのが何よりも楽しいという子だって、いるかもしれない。と言うよりも、そうあるべきだったのだろう。今となっては、あめには関係のない話だ。
もし、自分の妹や弟に類する子が存在しているのなら。
――その子も自由に生きていればいいな。
そんな風に思う。
スポンジに洗剤を付けて泡立てる。水は水道から。
そう言えば、最近師の店にも行けていない。なんとなくで年中開けているからなのだけれど、偶にはちゃんと休みにして、顔を出してみるのもいいかもしれない。
泡を洗い流して、タオルで綺麗に水滴を拭く。
棚にカップを戻して、あめは自分の珈琲を全部飲み干した。時間が経って冷めてしまったし、少し酸味が出てきているけれど、まだ飲める味ではある。
からからと、扉が開く音がする。
「いらっしゃいませ」
高校生の女の子二人だった。きっちりと制服を着て、少しおどおどしながらお店に入ってくる。確かに、高校生には入りづらい店構えかもしれない。
「お好きなところへどうぞ」
メニューを出して、二人の座ったところに置く。
なんにしても、自分がやりたいことを出来るのはいいことだと思う。
この子たちが来たくて来ているのか、それはあめには分からないけれど。
――よろこんで帰ってくれたらいいなぁ。
その選択が間違ったものではなかったと、そう思ってくれればいい。
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