魔女珈琲店

七条ミル

下準備

 笠苗かさなえあめはまだ頭が醒めきらぬまま身支度をしていた。寝間着を脱ぎ、少しだけベッドに座りぼーっとしたあとに、紺色の襟付きシャツとミモレ丈のプリーツスカートを合わせる。それから一杯だけ、ペーパードリップで珈琲を淹れ、ぼーっと雨降る都会を見ながらそれを飲んだ。

 あめの一日は、大抵こうして始まる。

 珈琲を飲んで目が醒めたら、あとは店まで行くだけ。

 やけに古びたアパートの一室から、あめはゆっくりと出た。小柄な二十代半ばの女性にはあまり似合わない背景だった。暮らせればそれでいいかな、なんて考えてのことだけれど、それにしても、だ。

 それから、全身に力を入れる。人は周りにいないから大丈夫。

 あめの身体はゆっくりと、しかし確かに、空中へと浮いていく。さながら風船のように浮かんだあめは、やがてゆっくりと前に進みだした。

 笠苗あめは、生来魔女だった。


 あめの営む店はビル街の路地裏にある。少し外に出れば大通りがある場所だと言うのに、この店の入り口は裏側にしかない。

 ――だから、この場所を選んだのだけれど。

 鍵を開けて中に入り、電気を付ける。窓は、ない。カウンターが奥まで続いているだけで、テーブル席の一つも無い。本当に小さな店だけれど、あめは気に入っていた。特に、適当にそれらしく壁に飾っておいた魔導書が、それなりにいい雰囲気を醸し出しているのだ。

 ――いや、気のせいなのかな。

 店に来てまず最初にすることは、冷蔵庫に入れてある、ネルをつけてあるタッパーの水を変えること。朝飲んだのはペーパードリップだったけれど、店で出すのはネルで淹れるようにしている。手間もかかるけれど、結局これが一番おいしい気がするのだ。朝ペーパーで淹れていたのは、ペーパーの方が苦みが強く出るような気がするから。そっちのほうが、目覚めはいい。

 ネルを絞って水気を取って、ぬるま湯で流して少し手洗いする。それからもう一度絞って、タッパーに水を張って、ネルを付けて冷蔵庫に戻す。これを怠ると、いつの間にかちゃんと蒸れなくなっていたりするのだ。

 それから、冷蔵庫や冷凍庫に何が入っているかを確認する。

 トマト、ナス、玉葱と椎茸。これはグラタン用。勿論、マカロニとチーズもある。肉は無いから、買わないといけない。牛乳はまだ三本残っていたはずだから、今日一日くらいはなんとかなるだろう。カレー用の食材は何も残っていないから、これは買わなきゃならない。

 ケーキは毎朝作るようにしている。だから、あとで買い出しに行ったときに気に入った果物を買ってケーキを作る。ケーキのメニューは気分で変わるのだ。

 冷凍庫、中身は殆ど氷。アイスコーヒーとか、そういうもの用。それ以外には特にないけれど、特に冷凍しておいて使う物も無い。

 そして一番大事な珈琲豆は――まだまだ沢山瓶の中に入っている。

 でも、もうすぐ豆を買いに行かないといけない。

 ――買い出しはそれくらいか。


 店を出て近くのスーパーまで歩く。

 まずは大体決まって買う物。カレーの材料とか、それ以外のちょっとした料理の材料とか。材料と言ったって、野菜くらいだけれど。

 かごが一杯になったくらいで、あめにとって一番買い出しで楽しい時間が訪れる。

 ケーキに使う果物を選ぶのだ。勿論、果物を使わないベークドチーズケーキとかも作るけれど、それとは別なのだ。

 ずらっと並ぶ果物を順々に見定めてゆき、結局果物じゃなくて栗を手に取った。偶にはモンブランもいいかな、と思うのだ。手間はかかるだろうけれど。

 そういえば、紅茶葉がそろそろ無くなるだろうか。紅茶にそれほどこだわりはないけれど、ありがたいことに珈琲が飲めないのに来てくれる人までいるのだ。

 だから、時々思い出したときに紅茶を買うようにしている。

 買い物はこれくらいか。


 店に戻ったら食事の仕込みをする。それが終わったら、あとはお店を開いてお客さんを待つだけ。


 ――さて、今日はどんなお客さんが来るかしら。

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