episode 19 夢か幻か⁉︎

 俺はあれからどれくらい突っ立ていたのか覚えてないけど、気が付けば部屋に戻っていた。

 場所を変えても気分が変わるはずもなく、ベッドに預けている体の重さが倍以上になった気がして吐く溜息の重さも、それに比例するような重さだった。


 取り返しのつかない事をしてしまった。良かれと思った行動が沙耶さんを傷つけてしまっては、本末転倒どころの話じゃない。


「なにやってんだよ……俺」


 誰もいない部屋なんだから情けなく嘆くのは許されるだろう。明日からどんな顔をすればいいのかとか、話すらしてもらえなかったらどうしようとか……あれからネガティブな事ばかりが頭の中を巡っているから。


――コンコン


 そんな時だ。時刻にして深夜の2時前に部屋のドアをノックする音がした。

 こんな真夜中に誰がと思う前に、ネガティブ全開の俺はノック音にビクリと体が跳ねた。

 だけど、もし沙耶さんだった場合、心の準備なんか関係なくそれこそ床に頭を叩きつけて謝らないとと、俺はベッドから飛び降りて土下座の体制を作ってから「どうぞ」と返事をした。


「夜遅くにごめ――」

「――すみませんでしたー!!」

「…………は?」


 ドアが開く音を合図に誠心誠意を示そうと土下座して謝ったのだが……。


「何してんの? アンタ」

「……へっ?」


 この声……この地底の底から湧いて来るような冷めきるという表現では生ぬるく、まるで氷河の一角が突き刺さるような声。その正体に気付いてすぐさま顔を上げた先には、冷めきった目をした紫音が立っていた。


「アンタとうとうあたしの下僕になる決心がついたの?」

「っ!? んなわけあるか!」


 なんて恐ろしく似合う台詞なんだ。さすが暴君!


「んで? 入っていいの駄目なの?」

「え? いや、別にいいけど……。ってなんだよ、こんな時間に」

「ん、まぁアンタにちょっと話があってね」


 話?……。それは絶対に沙耶さんの事についてだろう。テラスを出て行った後の沙耶さんがどうだったのかは知らない。自室に戻って暫く経ってから風呂に入ったのは知ってはいたけど、親父に時間を置けと言われていたから何も話さなかったから。

 その事を踏まえると、わざわざこんな時間に俺の部屋に紫音が来たって事は、きっとボロカスに罵りにきたのは明白で、今回ばかりは望むところまであった。

 だからだろう。紫音の事だからてっきり俺のデスクチェアにふんぞり返って偉そうに足でも組んで、まるであたしの足を舐めろと言わんばかりの態度で罵ってくると思ってたんだ。


(…………思ってたんだけどなぁ)


 両手と両膝を床につけたまま顔だけ上げる俺の正面に、何故か正座して姿勢を正す紫音。とりあえず膝を畳んでいるから足を舐めろとは言われなさそうで安堵するも、紫音がなんで俺の前に正座しているのかが理解できない。


(ま、まさか足じゃなく床を舐めろとか……)


「アンタ、今禄でもない事考えてるでしょ」

「そんな! 俺はただ床を舐めろと言われたらどうしようか、と」

「それを碌でもない事って……ううん、それもあたしのせい、か」

「はい?」

「雅、これから大事な事を言うから、ちゃんと聞いて」

「う、うん」


 大事……大事ってなんだ? 大事って言ってもどっちに対してって問題もある。この場合、俺にとってか紫音にとってか。

 前者の場合……いかん! これまでがこれまでだったから、そんな都合のいい事なんて何も浮かばん! んで、後者だった場合、床を舐めろじゃないとすると……まさか腹を切れとか?


「だから真面目に聞けって言ってるでしょ!」

「ひゃい! さーせん!」


(なんでバレるんだよ! そんなに俺って分かりやすいか!?)


 これはもう色々と腹を括るしかないと意識を紫音に向ければ、コホンとわざとらしく咳をして場を仕切り直した紫音が、改めて口を開く。


「……まずは、その……今まで……ごめんなさい」

「……………………」

「な、なんで無言?」

「……………………」

「ちょっと、雅!?」

「………………はっ!」


 俺は瞬時に悟った。

 は? 10秒くらいフリーズしてたくせにって? 知らんな。


 キョロキョロと部屋の周囲を注意深く探る。きっとアレがどこかに仕込まれてるはずだ!


「なに自分の部屋キョロキョロ見渡してんの? 今時エロ本なんて持ってないでしょ?」

「んなもんあるか! つか、これってアレだろ? どっかにカメラ仕込んで真に受けた俺を後から揶揄ってくるやつだろ!?」

「は? ……と言いたいことだけど、これまでがこれまでだから仕方ない、か」


 仕方がない? 何が仕方がないんだ?


「でも、あたしはさっき真面目に聞いてって言ったよね」

「……はい。ごめんなさい」

「別に謝んなくていい。つか、今はあたしが謝ってんだし」

「……マジで言ってんの?」

「信じられないってのも……わかるけど」


 ハッキリいってあの暴君が俺に謝るとか信じられなかったのは間違いない事だけど、沙耶さんから高橋の事を全部聞いたのなら有り得るのか。


「あたしは、さ。あの二人が離婚したのが悲しかった。あたしなりに少しでも役に立とうと頑張ってはみたけど、まだ小さかったから出来る事なんて大してなくてさ。せめて夕弦が寂しがらないように遊んであげるのが関の山でさ」

「うん」

「そのうち、おと……あいつが帰ってくるのが遅くなってきて、手土産だってお菓子とか買ってきてくれてたんだけど、渡される度に言われてたんだよね。帰るのが遅くなってるのはお母さんには内緒なって」


 高橋の名称がお父さんからアイツに変わった事に、紫音の中での高橋の存在に折り合いがついたんだと察す。

 それに自分の事を話してくれるなんて今までなかったから。


「変だなとは思ってたんだ。だけど、夕弦が生まれてくるまでは本当に優しくて、いつもあたしを笑顔にしてくれるお父さんだったから……今は仕事が忙しいんだと思い込んでた。でも……違ったんだよね」

「…………うん」

「それに離婚した原因を全部お母さんに被せてあたしにいい記憶を残させて、また借金で首が回らなくなってから利用しようとした」

「…………そうだな」

「そんな事も気付かないで太一さんと離婚して元に戻る事が正しいとか思いこんで、雅にも酷い事ばかりして……」


 これは恐らく懺悔みたいなものなんだろうと思う。なら紫音の言い分を変に否定しないで、最後まで話を聞くのが正解だと思った。


「それなのにお母さんの為だって分かってるけど、それでもあんな大金まで払わせてしまって……本当にごめんなさい」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「ってえ! なんか言えーーっ!!」

「ぶっだあ!?」


 今のが最後だったか! 人とのコミュニケーション……奥が深いぜ……。つか、だからって鼻っ面に鉄拳はねえだろ! おかげで鼻が潰れ――潰れた!? うひひ。


「な、なんでぶん殴られて嬉しそうにしてんのよ……。アンタってそういう趣味あんの?」

「んなわけないでしょ――うひっ」

「怖い怖い怖い! 義弟が変態レベルのドMとか勘弁してよ」

「誰が変態レベルのドMだ! って……え? 義弟?」

「そ、そうよ! 義弟よ! ……ち、違うの?」

「え? い、いや……お、義弟っす……」


(義弟って呼んでくれた。つまり――そういう事だよな!?)


「と、とにかく凄く迷惑かけたから、謝っておきたくてね」

「はぁ、その……どうも」

「なにそのリアクション」

「いや……喜ぶとこなのは分かってんだけど、さ」

「なに? アタシの変貌ぶりが気持ち悪いって?」

「まぁ、そうっすね――ぷぎゃっ!」

「ふん! これがお望みなんでしょ!? 変態!」

「い、いや! 俺は鼻面に蹴りいれられて喜ぶ趣味なんてないって! っつー、いってー!」


 いや、ホント誤解なんだって! 俺はドMじゃないんだってば! え? 違うよな!?

 まぁ、これは暴君の照れ隠しってのは察してはいるんだけどな。


「とにかく義姉として借りは返すから」

「いや返すって……」

「お金なんて受け取らないって言いたいんでしょ?  わかってる。だから違う形で返すよ」


 (え? 違う形って……)


「アンタ今エロい事想像したでしょ」

「ソンナコトアルワケナイジャナイカ」

「はぁ。とにかく皆に胸を張ってアンタの義姉を名乗るなら、借りは絶対に返す! いい!?」

「は、はい!」

「ん、じゃあそういう事で……今度お酒付き合いなさい。その時ゆっくり話そ。おやすみ」

「……おやすみなさい」


 最後は恥ずかしそうに部屋を出ていく本当にらしくない紫音を見送って思う。

 ここへ住みだしてからずっと思ってた。本当のあの人は思いやりがある人なんだって。離婚して迷惑を掛けられた沙耶さんには尊敬の念を表していて、嫌味どころか愚痴すら零すところを見た事がない。妹の夕弦に対しては揶揄ったりする事はあれど、その目には慈愛が籠っていて可愛がっているのがよく分かった。親父にも思う所があったはずなのに、それでも一定の距離間を保ったまま家に嫌な空気を持ち込む事がなかった。俺にだけは全力でアタリがキツかったけど……。

 そんな紫音が俺達と家族になりたいと言ってくれたんだから、嬉しいに決まっている。


 けど、今回はたまたまいい方に転がってくれただけで、やっぱり手段としては悪手だった。

 紫音がこの家族と向き合ってくれた事は嬉しいけど、俺は沙耶さんにあんな顔をさせたんだから……。


☆★


 翌朝、何時もの時間に起きて……というか一睡もできなかっただけだけど。昨日と同じで沈んだ気持ちでキッチンに立ち家族の朝食を作る。

 何時もなら皆の食べる顔を想像して鼻歌なんて歌ったりするんだけど、今朝は溜息しか出てこない。


(つか、どんな顔して沙耶さんと……)


「……おはよう」

「っ!?」


 今俺の中ランキングで顔を合わせ辛い1位にいる沙耶さんが音もなく俺の背後から声をかけてきて、俺は露骨に飛び上がって距離をとってしまった。


「なに? なんで逃げるのよ」

「あ、えっと……ごめん。おはよう、沙耶さん」

「ん、おはよ。今朝は随分と早いのね」

「あー……昨日の事で全く寝れなくて、さ」

「なにやってるのって言いたいとこだけど、実は私も眠れなかったわ」


 言って、沙耶さんは手を口元に当てて大きな欠伸を一つ。本当に沙耶さんも一睡もできなかったみたいだ。まぁ、原因は俺にあるんだけど……。


「まったく……雅はまだ若いから一徹なんて余裕かもしれないけど、この歳で徹夜なんて体に堪えるわよ」

「うっ……ごめん」


 全くその通りだ。沙耶さんは確か親父の二歳下って聞いた事がある。見た目はとても若々しいけど、体力面は年相応なんだろう。それを考えると二重の意味で申し訳なさが募る。


「朝食作るにはまだ早いでしょ? 許して欲しかったら珈琲淹れて持ってきて」

「あ、うん」


 沙耶さんがこんな風に命令口調で俺に何かを言うなんて初めての事だ。それだけ腹に据えかねているのかもしれない。

 沙耶さんはそのままテラスに出ていく。まだ皆は寝ているだろうからという配慮かもしれないけど、俺にとっては沙耶さんと喧嘩みたいな事をしてしまった場所に珈琲を運ぶのかと、更に気が重くなった。


「あ、雅の分もね」

「……うん」


 俺は言われた通り2人分のインスタント珈琲を淹れる。

 ウチの家族は珈琲好きが多くて大抵の場合ドリップした珈琲を淹れるのだが、朝の早い時間の場合インスタントで済ませている。

 それは豆を挽く音でまだ寝ている家族を起こしてしまわない為で、俺より早く起きた時は沙耶さんもそうしている。


「はい。ご注文の品です」

「ん、ありがと」


 俺からマグカップを受け取った沙耶さんはテラスの塀に手を置いて、まだ目覚めて間もない街並みを眺めながらカップに口を付けた。

 まだ残暑が厳しい日が続いているとはいえ、早朝の高層マンションでは肌寒いのか、沙耶さんんは半そでのパジャマの上に薄いカーディガンを羽織っていて、見た目通りリラックスしている格好だ。きっと会社ではビシッとして格好良く仕事をしているのだろうが、家族がいるこの家では気を置いているのが分かる。


「……雅」

「は、はい!」

「昨日はごめんなさい。私の為にしてくれたのに、あんな態度をとってしまって……」

「え? いや、アレは俺が悪かったんだから謝らないでよ。少し考えれば分かる事だったのに……本当にごめんなさい」

「いいえ。それは私の方よ。雅がどれだけ今の生活を大切にしてくれているのか知っていたんだから……私こそ少し考えれば雅がしようとしてる事に気が付けたはずなのに……。私が雅に甘えたのが悪かったのよ。本当にごめんなさい」


(……また、その顔をするんだね)


 喜んで貰えるとまでは思ってなかったけど、安心してくれると思ってた。だから俺のした事を否定された時は訳が分からなくて頭の中は?マークだらけになったけど、沙耶さんの立場になって考えればすぐに分かった事だ。

 だからこれは俺が謝罪するんであって、決して沙耶さんが頭を下げる事じゃないし、そんな申し訳なさそうな顔をする必要なんてないんだ。


「沙耶さん。お願いだからそんな顔しないで……」

「なら、雅が渡したお金を私から返させてもらえないかしら」

「………………」


 それは――それだけは出来ない。

 悪手だった事は認めるし、本当に沙耶さんに申し訳ない事をしたと反省もしてる。

 だけど、そんなものを受け取ってしまったら――。


「であれば、いい落としどころがあるんだけど、どうだ?」


 どうやって沙耶さんが気にしなくなり、尚且つ金を受け取らない言い回しがないものか考えていると、部屋の方からそう声をかけられて振り返れば、そこには親父がいた。

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