episode 36 最終日

「西宮さん、短い間だったけどお疲れ様」

「マスターサン、ありがとうございます。お世話になりました」

「心ちゃん、お疲れ様。これからはお客として遊びに来てね」

「人見サン、ありがと。アーシ基本的に暇人だからしょっちゅう遊びに行くし!」


 夏休みの間だけの短期バイトとして奮闘していた心が、今日最後のシフトを終えた。

 学生のアルバイトが辞めるのなんて珍しくもないし、辞める度にこんな声をかける事なんてなかったんだけど、心には皆がお疲れ様と労を労っている。それだけ店への高い貢献度が窺えるのだが、きっとそれだけが理由じゃないだろう。

 だって今日の心のシフトはラストまでだったのだが、それから店をcloseにした後、残ったスタッフ達がささやかなお疲れ様会なんてのを開いているんだから。


 売れ残りのケーキやお菓子をテーブルに並べて、皆それぞれに飲み物を片手にこれまで頑張ってきた心を労っている。

 シフトが被ってたスタッフならまだ分かるんだけど、シフトに入っていない連中まで店に駆け付けたのには驚いた。


 マスターから始まって人見さん達が順に労いの言葉を送る中、心の出鱈目な敬語を指摘したり、人見さん達先輩達への言葉使いを叱ったりと色々あった事を思い出していた。

 最初はどうなるかと心配してたけど、指摘された事はすぐに直す元々の素直な性格が功を奏して、心は僅か1週間でモンドールの名物スタッフになっていた。


 名物スタッフと名称したのは理由がある。

 仕事態度も良かったんだけど、それ以上に心目当てで店に来る客が多かったからだ。

 勿論、モンドールはそんな如何わしい店じゃないから、客の立場を利用して心個人に近づこうとする客達から守るようにマスターから厳命を受けている俺達がガード役だった。

 だけど、客達は凝りもせずに店に足を運ぶものだから店の売り上げが大いに伸びたとマスターはご満悦だった。

 そんな名物スタッフが辞めるのだから、これだけの人間が駆け付けるもの納得だ。


「センセどうしたん? 遠い目して」


 心の店での奮闘ぶりを振り返っていると、いつの間にか心が俺の前に立っていた。

 どうやら粗方スタッフから労いの言葉と挨拶を終えたようで、いつの間にか俺だけが何も言ってない状況になっていたようだ。というか遠い目なんてしてたか?


「センセ。アーシの我儘に協力してくれてあんがと! おかげでいい経験になったし」

「お、おう」

「…………」

「…………」


 言葉が続かない。ここは俺が労いの言葉を送るとこなのは分かってんだけど、何でか何も言葉にできない。


「ちょっと雅君? 頑張った後輩ちゃんに何かないわけ?」


 黙り込んでしまった俺に人見さんの檄が飛んでくる。

 流れからいって当然といえば当然だし、俺も気の利いた事の一つでもと思うものの上手く言葉として纏まらない。


「センセ?」


 心なしか心が寂しそうに見上げてくる。心だけにってしょうもなっ!


「まぁ、なんだ……。おつかれ」

「「「それだけ!?」」」


 必死にひねり出した言葉に心以外のスタッフ達の声がシンクロする。いや、ホントに綺麗に揃ってたな。


 「あはは……は。センセらしい、ね」


 マズい。これはマズい。何がマズいってこんな空気を作ってしまったら、明日からの俺の立場がマズいのだ。


「えっと……改められると照れ臭いっていうか、さ。あ、そうだ! 帰り送ってくよ。その時にで勘弁してくれ」


 その場しのぎも甚だしい言い訳だったと自分でも自覚してるってのに、心はそんな俺の言う事にパァ!っと顔を綻ばせた。


「ホント!? 絶対だよ!? 言質とったかんね!」


 言って、スキップでも始めそうな勢いで皆のテーブルに戻っていく心を見て、咄嗟に出てきた事はいえいい時間が出来たんだからちゃんと労う言葉考えておかないとなと考えに更けた。


☆★


「……あー、終わっちゃった」

「だな。初めてのバイトはどうだった?」


 約束通り送別会を終えた心を送る為に、2人並んで駅へ向かって歩いている。

 最寄り駅までのつもりで言ったんだけど、まさか家まで送れと言われるとは思わなかったけど……。


「んー思ってたより楽しかったかな。皆いい人ばっかりだったし」

「まぁ、あそこのスタッフはいい奴多いから働きやすいよな」

「そそ! それにやっぱりセンセがいたしね!」

「俺はちょっと教育係やってただけだし、大した事してないよ」

「そんな事ないって! アーシみたいなオンナがあの店に馴染めたのは絶対センセが裏で動いてくれてたからだって知ってるもん」


 何でバレてんだ? 確かに個性というかキャラが強くて誤解されやすいタイプだと思ったから、人見サンや他のスタッフに事前にそれとなく話はしてたけど……。


「ふふん! 黙ってるとこみると図星みたいだね!」

「……なんで分かった? 誰かに聞いたのか?」

「そんなん聞かなくても分かるって! だってアーシはセンセの生徒なんだかんね!」


 いやいや、その理屈はおかしいだろ。

 その理屈が通るなら全国の生徒は先生に対してエスパーって事になんない!?


「ありがとね、センセ」


 心の暴論とも言える理屈に困惑していると、不意にさっきまでの雰囲気を消し去った心が、静かな声色で俺に礼を言ってきた。


「なんに大しての礼だ、それ。俺は別に大した事してないぞ」

「してくれたじゃん。アーシの我儘きいてくれてバイト先紹介してくれたし、働く環境も整えてくれた」

「紹介した手前もあるんだし、当然だろ」


 そうだ。確かに心にバイト先を紹介してくれって頼まれた時は面倒くさいと思ったものだが、紹介するとなればマスター達に迷惑をかけないように配慮するなんて当然の事だ。心がやらかした事は全部俺のせいになりかねないんだから。


「そっかなー、そんな事ないと思うんだけどなぁ。アーシの知ってるオトコなんて知り合った時は優しかったくせに、急に変貌したみたいになったりしたんだよ? だけどセンセはずっと変わらないじゃん。ケチ臭いところも変わらないけどさ」

「ケチ臭い言うな。つか、誰の事だそれ。元カレとかか?」

「んふふー! 気になる? ねぇ気になるっしょ?」

「ウゼェ」


 正直心の外見は相当可愛いと思う。モテるだろうなと思った事も何度もある。

 だから彼氏の1人や2人いたって驚かないし、その彼氏と何があったのかなんて興味ない。俺と心の関係は家庭教師とその生徒、それ以上でもそれ以下でもないんだから。

 確かに夕弦と友達だった事には驚いたが、だからといって俺達の関係が変わる事はない――と思ってたんだ。心が妙な事を言い出すまでは。


「ん、ここまででいいし」

「え? 家まで送って行けって言ってたじゃん」


 心の家の最寄り駅に降りたところで、突然心がそんな事を言い出した。店を出るまでは家まで送っていけと煩かったくせに、どういう心境の変化なんだ?


「やっぱいい! ちょっとでも早く夕弦のとこ帰ったげて!」


 夕弦の元へ一秒でも早く帰ってやりたいのは山々の山だけど、ここまで付き合わせてそんな事言われても、大して変わらんだろうにと思う。気を遣うのならもっと早く使うべきだと突っ込もうかとしたら、心の方が早く口を開いた。


「そん代わりカテキョの日にさ、ベンキョが終わったあと時間もらえん?」

「んだよ、藪から棒に」

「ちょっと話っていうか、お願いがあんだよね」

「……嫌な予感しかしないんだが」


 バイトの紹介の件といい、心が改まってそんな事を言い出す時は十中八九碌な事ではない事までがデフォルトで、俺は気が付けば逃げ腰になっていた。


「んー、まぁそういう反応になるよね。でも……お願い」


 そんな風に頼まれたら普段が普段だけに断り辛いったらありゃしない。


「……分かった。ちょっとだけだぞ」

「ん、それでいいし! まったねー!」

「お、おう」


 心は要件を受理された事に満足したように手をブンブンと振りながら改札を潜っていくのを見て、ようやく爆弾の荷を下ろせたと思った途端、また何やら良からぬ事が起こるのではないかと不安を抱きつつも、帰りの電車に乗り込むのであった。

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