嗤う桜

ヤノヒト

芽吹く意志

『そうだ。そのままでいい。お前はこの地獄を――』


 ――死期を覚るとは、こういう感覚か。


 夢から醒めると、重力に振り回されるような感覚に陥った。

 頭はぐらぐらと揺れるが幸い身体は大きなベッドに支えられている。

 春の柔らかな日差しも今は暖かさを感じない。


「そっかぁ」


 幼い頃から見知った大きな病室で僕は小さく、呟く。

 最近めっきりと弱った心臓近くに掌を当て鼓動のペースを確認する。


「なんだ、割と元気じゃないか」


 悪夢にうなされ、脂汗を滲ませる体表。

 鼓動はばくばくと叫び僕から寿命を削り取っていく。


「春日さん」

「あ、はい」


 看護婦さんがタイミングよく僕を呼んだ。きっと、父さんが見舞いに来たのだろう。


「お父様がいらっしゃいましたよ」

「わかりました」


 予想通りだ。父さんは仕事が半ドンになる土曜日はよく見舞いに来てくれる。

 そして見舞いに来ては美味しいもの食べるか、なんて聞いてくるのだ。


「舞。今日は体調、大丈夫か」

「うん、大丈夫。今日は心臓も調子がいいよ。来週にはまた退院できるかもって」

「本当か。なら、美味しいもの頼もうか。何が食べたい?」

「そうだね。握り寿司でも食べてみたいかな」

「いいな。たまには舞も贅沢をしなさい」


 決まって僕は母さんの手料理を頼むのだけど。

 ちょっとだけ贅沢をしても良いかな、なんて思ってしまう。


「もう、その名前で呼ばないでよ。女子みたいで嫌なんだよ」

「じゃあ昔みたいに、まーくんにするか」

「それもやだ」

「わがまま言ってると母さんが出前頼んでくれなくなるぞ?でも握り寿司は丁度良いかもな。今回はお祝いも兼ねているし」


 お祝い……?

 なにか祝うことはあっただろうか。退院は何度もしているから今更祝うこともないと思う。


「なぜ舞が不思議そうな顔をするんだ。この前、大きな絵画コンクールで最優秀賞を貰ったばかりだろ」


 あぁ。

 そういえば、そんなこともあったか。


「あれは落書きみたいなものだよ。途中でテーマが見えなくなってテキトーにばばっと描いた奴」

「それでも賞をもらったんだぞ。いやぁ、お父さんは鼻が高い」


 父はそういって笑顔になっている。

 なんで喜ぶんだろう。なんで嬉しそうにするんだろう。


 無理を、しないで。


 今までの絵も過大評価されてきたけど、今回のは特に失敗作だったと思う。


 ただ陳腐な皮肉を描いただけだし、それに僕自身も褒められた性質ではない。僕が描きたいのはもっと他人を不快にさせる絵画だ。


 心の底から不快になった――即ち、皮肉に晒された人間の顔を見たくて描いた絵だ。それをなぜだか、評価する人間がいるのだ。


 よくわからない世界だと思った。

 否、ずっと思っていた。自分よりも元気な人間ばかりが用意された世界。


 それを小馬鹿にして嗤う、捻くれた人間を誇るなんておかしいよ。父さんはあまりにも善い人だった。眩しい人だった。


 だから、本音なんて一度も伝えなかった。


「じゃあ父さん。お願いがあるんだ」

「いいぞ、なんだって聞いてやる」

「退院したら、また絵を描いて良いかな」

「もちろんだとも。舞は将来、立派な画家になれるって選考の人も仰ってたぞ」


 それは残念だ。


 最近お医者さんは僕の前で笑顔を見せなくなったし、何より看護婦さんも陰で言っていた。

 "今度の退院が最期になるかもしれない"って。


 恐らく、父も既に知っているのだろう。

 今はまだ実感が湧いていないだけなのかもしれない。


 確かに僕もそうだった。

 そう、今朝までは。


「今度の絵はきっと最高の絵になると思うよ」


 夢の世界が唆す絵画。

 それは間違いなく、最低で――不快な絵だった。

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