異世界ツーリング

ブンカブ

光る道

「ブオンッ!」


 と、鳴きながらカワサキのW650は大地を蹴り出した。


 ここは郊外のコカトリス牧場へと続く長閑な田舎道だ。古いオートバイにまたがる青年––––大井ヨシヒロは視界いっぱいに広がる青空の下、心地よい風に導かれながら牧場へ続く道を走り始めた。


 バタバタバタッ、とW650は歯切れの良い音を響かせながら剥き出しの大地をかけている。W650はオンロードタイプのクラシカルなオートバイだったが、こちらの世界に来る前にオフロードタイヤに履き替えている。バリバリのオフ車のようにはいかないが、適度な未舗装路を進むくらいには問題ないだろう。


「こんにちは、変わった魔導器に乗っているね」


 途中、すれ違った巡回中の兵士たちに声をかけられる。緑と黄色の色鮮やかな軍服に身を包む彼らは、この国の正規兵だった。多くの国で同じことだったが、兵士たちは石畳で完璧に舗装された国道や、こういった田舎道を巡回して回ってくれている。


「はい、バイクって言うんです」


 ヨシヒロが答える。


「ずいぶんと高そうだけど、道中は気をつけるんだよ。金目のものを持っていると野盗にも目をつけられやすい」


 野盗という言葉を聞いて、ヨシヒロは一瞬ビクッと背筋をこわばらせた。初めてこの世界に来てからそういったならず者に会うことはなかったが、やはり出る場所には出るのだろう。兵士たちと別れた後、ヨシヒロは更に公道を進んだ。


「キュイーッ」


 という甲高い声が聞こえたので空を見上げると、ずいぶんと低い場所を翼を持つ巨大なトカゲが飛び去って行った。それはワイバーンと呼ばれる小型の竜だった。野生のものもいるが、ほとんどは家畜化されていて、空の交通手段として人間に利用されている。飛び去る際に赤い布切れが垂れ下がっているのが見えたので、おそらくは宅配屋のワイバーンなのだろう。


 バタバタバタッ!


 左右に広がる広大な畑を見つめながら黒く艶のある車体を走らせる。ゴーグルを上げて息を吸うと、花々の甘酸っぱい香りが鼻腔を満たした。それはさながらマーマレードジャムを水で溶いて薄くしたような香りだった。


 10分ほどトコトコ走っていると、不意に川のせせらぎが聞こえてくる。この辺りの生活水にもなっている“テルニア川”だ。水はガラスのように透き通っており、川底をはっきりと伺うことができた。川幅は約20メートルといったところで、その上に石でできた古い橋がかかっている。


 パタリ、とオートバイのサイドスタンドを立てると、ヨシヒロはシートから降りて橋の縁に立った。どこまでも真っ直ぐに続く煌びやかな川と、深い色合いの蒼空が、山や木々で緑色にグラデーションされながら交わっている様が見通せた。


 橋の下を見下ろすと、川辺の大きな岩に腰をかけながら釣りを楽しむ老人と小さな子供の姿が見える。


「釣れますか!」


 そのように声をかけると、老人はシワシワになった顔を更にクシャクシャにしながら大きく笑った。


「おおっ、どんなもんよ!」


 彼は大きな口をにんまりと真横に伸ばすと、木の桶いっぱいになった金色のニジマスを見せてくれた。ここは海から遠く、暮らしている人々の食事は主として肉や山菜だ。川魚も食べることはあるが、どちらかというと食べるためにではなく遊びとして魚釣りを楽しむことがほとんどだった。


「兄ちゃん、変わったのに乗ってるね。どこから来たの?」

「遠くの国です。コカトリス牧場ってこの先であってますか?」

「牧場? ああ、そうだよ。兄ちゃんも卵が目的かい」

「そうなんですよ。すっごい美味しいって聞いたんで」


 コカトリスの卵は知る人ぞ知る珍味の一つだった。その卵の殻は石でできているかのような灰褐色なのだが、大きさがサッカーボールほどもあり、それを温泉卵にして食べるのが美味であると噂になっていた。


「でも、コカトリスって危なくないんですか?」


 ヨシヒロが知っているコカトリスはテレビゲームに登場する巨大な鶏のように見える怪鳥だ。そしてそのモンスターは、ほぼ例外なく相手を石化させる毒を持っていた。


「牧場のは品種改良で毒が薄くなってるからなあ。まあでも、何年かに一人くらいはお医者さんのとこに運び込まれとるよ!」


 老人はそのように言って、おかしそうに笑った。


「は、はあ……」


 笑い事ではないと思うのだが。


「心配しなさんな。毒には特効薬があるからな。一週間寝込むくらいで治る」

「少し安心しましたよ」


 しかし、だからといって医者の世話になりたくはない。第一、明日も仕事がある。この世界で一日をすごすと、ヨシヒロの世界でも一日がすぎていた。つまるところ明日に疲れを残さないためには、夕方には帰路についていたい。


 銀色のエンジンに黒いタンクのオートバイに再び跨ると、サイドスタンドを足で払ってトップブリッジ上のキーをグリンッと回す。そして右の親指でセルスイッチを押し込むと「キュルルルッ」という可愛らしい鳴き声に次いで「ドルルンッ!」という勇ましい咆哮を放った。


 別れを告げて目的の牧場へと向かう。


 菜の花に彩られたこの黄色い道は、その昔、隣国からこの国の首都に向かうための幹線道路だった。しかしより安全で直線的な道が開通すると、そちらが「国道」となり、この道は「旧国道」として領主の管理下に移されたのだった。


 そのようなわけで、牧場に続く一本道ではあるが、そこを抜けた先には隣国に抜ける渓谷と有名な温泉街がある。本当ならそこまで行ってみたかったのだが、今回の目的はコカトリスの卵という珍味を食することにあった。温泉の方はまた次の機会にしておこうと思う。


 町を出てからバイクで30分、時速40キロ未満でゆっくり走っていたが、ようやく件の牧場の姿が見えてきた。コカトリス牧場は何世代にもわたる家族経営で成り立っており、現在の牧場主の男性は六代目になるという。


 さっそく卵を一つ貰いたい旨を伝えると、牧場主は快く承諾してくれた。


「小屋に案内しよう。好きなのを選びなさい」


 管理小屋から一歩踏み出すと、そこは一面の牧草地帯だ。豊かな緑が土を覆い、なだらかな丘陵を青々と染めている。ヨシヒロは心地よい風が牧草を梳いていく様を追い、その先に放牧された巨鳥の姿を見つけた。


 コカトリスだ。


 コカトリスは古く凶鳥として知られる害獣だった。しかし100年ほど前に彼らが持つ毒の特効薬が発明されると、その希少性に目をつけて違法な乱獲が行われるようになった。コカトリスの羽毛は頑強でしなやかだ。それらは優れた防具になったし、またデザイン的にも優美で好まれた。これは眉唾だが、邪な魔法を跳ね除ける効果もあるのだという。


 こうした違法狩人からコカトリスを守る目的で、その保護と家畜化が始まった。今では常識の範囲内でその羽毛と卵が市場に流通しており、昔のように乱獲されることはなくなったという。


 そんなコカトリスの外見上の特徴は、灰褐色の体と虹色の翼を持つことだろう。彼らの羽毛の価値は高いが、特に艶やかな虹色の羽毛は高級品として出回っていた。またトサカに当たる部分は血のように赤く、禍々しい血管の筋が浮き出ている。それはかつて怪鳥呼ばれていた時代の名残を現世に映し出しているかのようだった。


「キュエッ?」


 しかしそうした禍々しい体の特徴に反して、コカトリスの瞳は丸くつぶらなものだった。ヨシヒロにジッと見られていることに気がついた彼らの内の一羽は、甲高い鳴き声を発した後、しかしすぐに興味をなくして仲間たちのもとに走っていった。


 小屋はコカトリスのサイズに合わせてあるため、かなり大きめに作られていた。入り口だけでも普通の牛や豚の小屋の二倍ほどの幅がある。また、内部の柵もかなり太く、頑丈にできている。


「これが今日の分だ」


 柵の内側にはコカトリスが今朝産んだ卵が転がっていた。話に聞いていた通り、灰色のサッカーボール……というより岩のようだ。もしもコカトリスの存在を知らない人間が見たら、これを卵とは思わないだろう


 ヨシヒロは銀貨を五枚払い、その中でも一番小さな卵を手に入れた。なぜ小さいものを選んだかというと、単純に食べ切れる気がしなかったためだ。


「これ、温泉卵にして食べたいんですけど」


 そのように話すと、しかし牧場主は困ったように眉尻を下げてしまった。


「あー、悪いね。ここじゃ無理だ。温泉街まで行かんと」


 さすがにここまで温泉を引いてきてはいないらしい。


「一応、温泉卵を作れる場所があるんだよ。無料でな」

「温泉街って、ここからどのくらい離れているんですか?」


 暗くなってしまうと戻って来られる自信がない。


「歩きだと5時間はかかる」


 バイクなら40分ほどだろう。この世界の道はアスファルト舗装されていないが、信号待ちや渋滞もないため、意外に早く着くかもしれない。


「うわっ、なんですこれ?」


 早速オートバイに戻ろうとしたヨシヒロだったが、小屋の手前で奇妙な生き物の死骸を踏みつけそうになってしまい、慌てて飛び退いた。


「ああ、ネズミの死骸だ。コカトリスにやられたんだろう」

「ネズミの?」


 ネズミの死骸といわれたそれは、確かにそれっぽい耳や尻尾を持っているように見える。ただしその体は柔らかみがなく角ばっており、関節や目から黒々とした血を流していた。


「コカトリスの毒の息にやられるとこうなる」

「毒って、弱まっているんじゃ?」

「人間に対してはほとんど効果はない。でもネズミなんかの小さな生き物には未だに脅威なんだよ」


 説明しつつ、牧場主はおもむろに卵を一つ取り上げると、それを壁にかけてあったハンマーで割り、中身をネズミの死骸に振りかけた。すると、石のように角ばっていた体が、途端に生物らしい柔らかさを取り戻す。


「これは?」

「特効薬っていうのはなんのことはない。要するにコカトリスの卵子だ」


 当然のことだが、コカトリス自身は自分の毒を受けることはない。また、生まれてくる子供も卵の中で毒の成分の影響を受けることもなかった。それは卵の内部が毒の中和成分で満たされているからだ。この中和成分を取り出し、精製し、純度を高めたものが特効薬として用いられていた。


 W650のもとに帰ってきたヨシヒロは、革のサイドバッグに入っていたゴムネットを取り出すと、それを使ってコカトリスの卵を荷台に固定した。もちろん、衝撃で割れないように布でグルグルと包んだ上で。


 イグニッションキーを回してエンジンに火を入れる。獣のような咆哮を上げたオートバイに、牧場主は目を丸くしていた。


「すごい魔導器だな。まるでドラゴンみたいだ」


 ドラゴンと言われて、ヨシヒロは思わずクスッと笑ってしまった。こんな可愛いドラゴンなら、勇者や英雄も苦労はしないだろう。


 アクセルを回し、進路は温泉街へ。太陽は西に傾き、空の色には少しだけ赤色がさしているような気がした。


 ここまで続いていた菜の花はすっかりと消え失せ、気づくと畑もなくなっていた。遠くには大きな山脈が望め、その麓にある町の姿も微かに見えていた。


 と、しばらく田舎道を駆けているとブスブスとエンジンがぐずり出す。どうやら吸気が合っていないらしい。バイクのエンジンには燃料と空気を合わせた混合気を送り出すのだが、周囲の空気が薄くなったことで混合気の比率が狂っているのだろう。


「ここ、結構標高あるのかな」


 バイクで走っていると、こうした気圧の違いを実感することが多い。一見、それまでと何の変わりのない道でも、キャブレター式の古いバイクは気圧の変化に鋭敏で、こうしてすぐに機嫌を損ねてしまう。


 ヨシヒロは左手をシート下におろすと、エンジンシリンダーの後ろ、キャブレターに付いているツマミを回して空気量を増やした。すると、酸欠から解放されたエンジンは途端に調子を取り戻す。それはエンジンの音でもわかったし、回転数を測るタコメーターの指針安定したことでも明らかだった。


 バタバタバタッ。


 歯切れの良い音と気怠げな加速をしながらW650は丘を登っていく。道は丘の合間を縫うように通っており、道幅は広いが大蛇のように曲がりくねっていた。ポツポツと大きな木々も姿を現し始め、いよいよ山岳が近づいてきたことを知らせている。木の種類は針葉樹でおそらくは赤松だろう。細長い葉がそよ風に揺れているのが見えた。


 途中、温泉街に向かうと思われる一行を追い抜いた。彼らは円盤型の魔導器に乗っており、地面から1メートルほど離れた場所をフワフワと浮遊していた。それは“飛翔盤”と呼ばれるこの世界の乗り物で、その多くは一人乗りないし二人乗りだ。地形に左右されないため移動手段として重宝されていたが、移動速度は馬とどっこいどっこいといった感じだった。


 この世界の人々の主な交通手段はこうした魔導器や馬などの生き物だったが、それでも町から町へ移動する人は稀だ。そのため交通渋滞など起こらないし、バイクで1時間以上走っても、すれ違う人の数は10人に満たなかった。


 この交通状況に関しては素直に羨ましいなとヨシヒロは思った。何せ自分の世界では、地獄のような通勤列車にすし詰めにされて出社しなければならないのだから。本当はバイク通勤ができれば良いのだが、ヨシヒロの職場は二輪での通勤を禁止されていた。


 温泉街は山の麓の小川を過ぎたその奥にあった。温泉街といっても、この世界ではそれほど多くの人が観光旅行に出かけるわけではない。そのため、商業や宿泊施設なども多くはなく、ここは行商人たちが一晩泊まるための宿場町としての側面の方が強かった。どちらかというと温泉はおまけだ。


 白亜色の石材でできた古い建物でてきたこじんまりとした町だったが、その至る所から白い煙がモクモクと立ち上っている。それは温泉の湯気だ。周囲に漂う空気も、そこはかとなく硫黄っぽい。温泉のせいでジメジメとしているのか、石でできた町のいたるところには苔が生えていた。しかしけして汚らしい感じではなく、それすらも風情ある景色の一部として溶け込んでいる。


 町の人に聞くと、目的の湯の場所はすぐに見つかった。人が入れるほど大きくはないものの、この辺りの人が勝手に卵を茹でにくる湯があるのだという。ヨシヒロもそれを借りることにし、近くにバイクを駐めると、荷台に縛り付けていたコカトリスの卵を手に取った。


 湯は民家と階段に挟まれた場所にあった。特に柵などで囲まれているわけでもなく、本当に突然現れたので驚いてしまった。温泉自体は本当に小さなもので、膨らませて作る子供用プールくらいの大きさしかなかった。それでも温泉卵を作るには十分そうだ。


「さて」


 問題はどの程度で温泉卵になるのかということだ。ヨシヒロはためしにポケットからスマートフォンを取り出してみた。案の定、圏外である。こちらの世界にはケータイ用のアンテナも衛星もない。通信機器の一切が使用できなかった。人間とはスマホが使えないだけでこれほど無力なのかと思う。


 とりあえずはお湯に入れてみてから考えることにする。卵の大きさが大きさなだけに、鶏の卵と同じようにはいかないだろう。白く濁った温泉にコカトリスの卵を沈めると、ヨシヒロは近くの平たい岩に腰をかけてどうしたものかと考え込む。


「あら、先客かい。悪いね」


 すると、そこにやってきたのは艶やかな長い黒髪を腰の辺りまで伸ばした女性だった。髪が少し湿っていたので、おそらくは近くの宿で温泉に浸かってきたのだろう。歳は30歳前後といったところだろうか。体つきは細く、しなやかで適度に筋肉がついていたが、それでも鍛えているといったほどではない。行商の人間ではないだろう。ということは、この温泉街の関係者かもしれない。


「見かけない顔だね。旅の人かい?」

「はい、ちょっと用事があって」


 話を聞いてみると、彼女はこの町にある宿の女主人らしかった。午後のちょっとした休息に足を伸ばし、ここで温泉卵を食べるのが日課らしい。


「そうだ。コカトリスの卵って何分くらいで食べられるんですか?」

「この源泉なら、まあ30分ってところじゃないかね」

「そんなにですか?」

「普通の卵だって10分かかるからねぇ」


 源泉と言われるだけあり、湯の温度はかなり高めだ。人が入ったら大火傷を負うだろう。湯気の勢いが尋常ではないので入る前に気づきそうなものだが、一応念のために、看板には「高温、火傷注意」と書かれていた。


「おや、お兄さん、そこに……」


 女将は訝しむように眉根を寄せると、白い湯気が立ち込めるその先を指さした。


 ゴツゴツとした岩の転がる合間に、小さな人形が転がっていた。いや、それはあり得ないほどに小さな人間のような生き物だ。肌の色や姿形は人間そっくりだったが、背中にはトンボのように透き通った羽が生えている。それはこの世界で妖精と呼ばれる生物だった。彼ら、彼女らは主として森に住み、めったなことでは人里まで出てこない。


 妖精はひどく衰弱している様子だった。意識もないのか、呼び掛けても返事をせず、ぜえはあと荒い呼吸を続けている。よく見ると、妖精の右足だけが石のような灰色に変化していた。


 コカトリスの毒にやられたのだろう。女将は悲壮な面持ちでそのように言った。


 この周辺のコカトリスは全て人に管理されており、野生種はいない。つまりこの妖精は先ほどのコカトリス牧場にいた個体から毒を受けたことになる。牧場で見た通り、あそこにいるコカトリスの毒は弱く、人間のように大きな生き物に対してはほとんど効果がないが、この妖精のように小さな生き物にとっては脅威だった。


「……」


 ヨシヒロは源泉に浸かっていたコカトリスの卵を取り出すと、付近に転がっている石ころから適度な重さと形のものを見つけて拾い上げ、それを使って卵に穴を開けた。卵自体が大きすぎるので、割るというよりは本当に穴を開ける感覚だ。


「いいのかい?」

「卵なんてまた食べられますから」


 卵白は温泉の熱で少しにごっていたが、それでもまだ茹で上がるには程遠い状態だった。ヨシヒロは殻に穴が空いた瞬間にこぼれ出てきた中身を片手ですくうと、それを妖精の右足に塗りつけてやる。ちょうど火傷に軟膏を塗る感覚だ。


 ほどなくして、妖精の足は健康な色合いへと回復した。妖精の少女は目を覚ますと、最初こそ目を白黒させていたが、次いでヨシヒロたち人間に見られていることに気がつくと、大慌ててその場から飛び去ってしまった。山のほうに向かったところを見るに、自分の住処へと帰っていったのだろう。


「お礼くらい言えばいいのにね」


 と女将は言っていたが、そもそも妖精が人間の言葉を話せるとも限らない。


「よかったら、それ、うちで料理しようか?」

「本当ですか!」


 無駄になってしまうかと思われたコカトリスの卵だったが、女将の好意で卵焼きに生まれ変わることになった。もちろん、一人では食べきれないので宿の宿泊客や従業員のまかないにも振る舞われた。


 肝心の味は……思ったよりも普通の卵焼きだった。


 食事の後、ランタンの明かりに照らされながらヨシヒロは見送られる。


「泊まっていけばいいのにさ」


 とは女将の提案だったが、明日も仕事があるヨシヒロは今日中に家に帰らないといけない。セルスターターを押し込むとエンジンが目を覚ます。右手でアクセルを軽く回し、トロトロと温泉街を背にして走り出した。


 西の山の天辺に茜色の眩い線が走っている。あれがなくなった時、周囲は暗闇に包み込まれるのだろう。何せこの世界には街灯など存在しないのだから。


 W650の丸目ヘッドライトはハロゲンだ。光量もたいしたものではなく、田舎道だと少々心許ない。舗装もされていない剥き出しの地面となればなおさらだった。ちょっとの段差にも気を使うし、わだちにも注意を払わなければならない。また日が沈んだことで気温もグッと下がっていた。少し強めに風を切ると首筋がひやっとする。


 卵は食べられたが、あまりにも時間をかけすぎてしまった。この世界の夜は怖いので長居はしないようにしようと決めていたのだが、少しばかり自制心が足りなかったようだ。


 夜になると不思議なもので、エンジンの音がいつも以上に大きく感じられる。生き物の気配が消えた静寂に、オートバイがこれでもかと存在を主張し始めるのだった。


「うわっ!」


 不意に、バイクの前輪が地面から突き出ている岩を踏みつける。車体が跳ね上がり、ヨシヒロは反射的にハンドルを強く握って態勢を立て直した。


「危なかった……」


 なんとか転倒を免れたヨシヒロは、内心でホッと胸を撫で下ろした。こんなところで故障なんてした日には、元の世界に帰ることもできなくなってしまう。冷たくなる風とともにヨシヒロの胸中にも一抹の不安がよぎる。本当に無事に帰ることができるのだろうか。


 その時だ。ヨシヒロの真横を不思議な光の塊が追い抜いて行った。淡く小麦色に輝く光は、人工物というよりは生き物のような動きをしていたが、かといって蛍にしては大きすぎる。光の大きさは人間の掌ほどもあり、それがバイクを追い越す速度で上下に揺れながら飛んでいたのだった。


 その魔法のような光に見惚れていたヨシヒロだったが、その次の瞬間、今の光と同じような光球が次から次へと群をなして背後から自分を追い抜いて行った。そうして出来上がったのはまさしく光の道だ。バイクの頼りない明かりに照らされるだけだった暗闇は、一瞬にして幻想的な輝きに照らされる回廊へと姿を変えたのだった。


 いったいどうしたことだ。

 この光の粒子はなんなのだ。


 ヨシヒロはゴーグルの内側を疑念でいっぱいにした。すると、そのゴーグルに映り込む小さな顔があった。ヨシヒロの真横をあの妖精が飛んでいたのだった。小さな妖精の少女は少し気まずそうな顔をしながらぎこちなく微笑むと、ヨシヒロのバイクを追い越してその行先を照らし出した。


 彼女の様子がおかしくて、ヨシヒロは吹き出すように笑う。


 W650が世界間跳躍のできる場所までは残り5キロほど。


 その間、妖精たちはヨシヒロの道中を見守るように付き添ってくれていたのだった。

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