374 赤髪の女
クワイにとって、あるいはセイノス教にとって聖人とはありとあらゆる意味合いで例外である。
偉大な功績を成し遂げた人物に送られる称号だが、その選定には国王と教皇の両者の承認が必要である。さらに教皇の在位中には一人しか送ることができないので、少なくとも数年に一人しか新たに生まれないセイノス教徒にとってもっとも名誉ある称号である。その大半が故人に送られ、十歳を超えずに聖人となるセイノス教徒はほぼ例がないと言い切ってよい。
実のところアグルの目標の一つにファティを聖人に認定させるというものがあった。
教皇の在位中に一度しか使えない奥の手を使わせることができるし、聖人はその特殊性ゆえにほぼありとあらゆる権力や権威の届かない場所に存在するのでこれから新しい秩序を築き上げるのにこれ以上ない地位だと言える。
しかしアグルの考えでは、それはどう少なく見積もっても数年先の話。まさかこの時期にこんな提案をされるなど……しかも内々の話ではなく、使者が言うには近日中に……ここから教都チャンガンに来るまでの時間差を考えればもうすでに発表されていてもおかしくない。
(ルファイ家も王族も……一体何を考えている……?)
王族はともかくルファイ家の思考は読める自信があったが……今回は全くの予想外だった。だが聖人という地位はあまりにも魅力的だった。膝元まで迫った敵を見逃し、多少の疑念を押しやるほどに。
そしてここにも真実を知ろうとする男がいた。
「もう出立するのですかタスト様」
修道士に話しかけられたタストは軋む体に鞭打ち、歩き出す。周囲が瞠目するほどの回復を見せたタストはもう動けるほどになっていた。
「はい。是が非でも教都チャンガンにいかねばなりません」
「聖女様が聖人に認定されるということですからね。できれば私もご一緒したいのですが……」
「あなたはここでのお仕事がありますから。僕が貴方の分まで祈っておきます」
タストの言葉に祈りを捧げ、タストもそれに返礼するように祈りを捧げる。
修道士が用意した駕籠に乗り込み、頭を限界まで働かせる。
(教皇の考えはわからないけど、もしも何かの策略があるのなら……僕が見破らないと)
決意を新たにタストは一路教都チャンガンに向かう。
だが、それらの動きは全てエミシ側に補足されていることに誰も気づいていなかった。
「やったあああああ! 銀・髪・撤・退!」
騎士団を監視していた連中、そして教都チャンガンを監視していたカッコウたちからの連絡を総合すると、銀髪が聖人とやらに認定されるために一度教都に戻るらしい。
政治的なアピールの為に戦機を逃すとは銀髪らしからぬ失態だ。でもこのおかげで時間が稼げる。ひとまず兵器の再配置。そして……サリとかいう女を篭絡し、こちらに取り込む。これはついさっき思い出したことだけど……あの顔は見たことがある。
以前双子を拾った砦で銀髪と間違えて絵に描かれていた奴で、確か銀髪と一緒に行動していたはずだ。
つまりあいつを味方にすれば銀髪について少なくない情報が手に入る。是が非でも裏切ってもらわないとな。
囚われの身となったサリは恐怖におびえる日々を過ごしていた。
一日ごとに移動し、見知らぬ土地をさまよううちに自分はもはやこの世の者ではないのではないかという錯覚にとらわれることがあった。
そしてサリは様々な建物が立ち並ぶ街にたどり着いた。
ある場所では怪しげな液体を持ち運ぶ蟻がおり、またある場所では木々の隙間から何かを届けてくる蜘蛛がいた。さらには空から鷲が舞い降り、これもやはり何かを運んでいた。
「どこなのここは……?」
彼女が知るはずもないがこここそがエミシの本拠地であり、サリはクワイの民として初めて足を踏み入れたのだった。
移動式の牢屋から降ろされ、今度は地下らしき場所に護送されようとしている、そこでサリはとある魔物と目が合った。
クワイの民が砂漠トカゲと呼ぶ魔物。
その魔物は三十歩ほど離れていたが、間違いなく自分を見ているのだという確信があった。つかつかと歩み寄った魔物はやがて駆け足から全速力の疾走になり、咆哮さえ交え始めた。
ここでサリはようやく、この魔物が自分を襲おうとしていることに気付いた。
「ひ、ひっ!?」
怯え、どこかに逃げようとするが……虜囚の身でそれが許されるはずもなく蟻に取り押さえられる。そうこうしているうちに砂漠トカゲが迫り――――一つの影が滑り込んだ。
「やめてエシャ! その人はあなたの仇じゃないわ!」
(え? 女の子……?)
サリの目の前に現れたのは恐らく一歳かそこらの少女だった。何故こんな魔物の巣窟のような場所に女の子が? そう混乱するサリだが、エシャと呼ばれた砂漠トカゲが止まったのは確かな事実。つまり自分はこの少女に助けられたのだ。
少女と砂漠トカゲはしばらくにらみ合っていたが、やがて砂漠トカゲはどこかに行った。
蟻の拘束から解かれたサリに歩み寄った少女は沈痛な面持ちで話しかけてきた。どことなくきつそうな外見とは違い、優しい声だった。
「大丈夫ですか?」
「え、ええ。あなたは一体……?」
「私はミツキです。あなたは?」
名前を尋ねられたのだと気づくのに少しだけ時間がかかったサリはどもりながら名乗った。
「サ、サリよ」
「サリさんね。ごめんなさい。エシャは普段優しいけれど、私たちと同じ種族にひどい仕打ちを受けたせいで、私たちを恨んでいるの。私も初めて会った時はとても怖かったわ」
「え……?」
その言葉にサリはとても驚いた。
「魔物に……そんな心があるの……?」
それこそが最大の驚愕だった。彼女は今まで魔物には知性や心がないと産まれてからずっと教わってきたのだ。それはたった今襲われたことよりも意外だった。
「心があるに決まってるじゃない! 仲間が殺されれば悲しいし、いいことがあれば嬉しいわ!」
「そ、そんな。聖典には魔物は心無き哀れな生き物だと……」
俯くサリに対して、美月は一瞬だけ蔑みの視線を向けたが、すぐにその表情消した。
「聖典なんか信じる必要はないわ。あんなものは正しくないもの」
「そ、そんなことはありません! 聖典には真実だけが書かれています!」
「聖典には真実だけが書かれている……ですか」
ミツキはうなだれた。
「どうかしたの?」
何かわからない不安に襲われたサリはミツキに尋ねる。
「なら私は、死ななければならなかったんでしょうか」
「え……どういう意味?」
「私はセイノス教に従った奴らに殺される寸前だったところを翼さんや和香さんに助けられたそうです」
端的に述べられたミツキの過去に思わず絶句する。そして同時にセイノス教徒ならばそういうことをするだろうという確信もある。
「私はセイノス教というものを信用できません。あなたはどうですか?」
「わ、私は敬虔なるセイノス教徒です」
しどろもどろになりながら目をさまよわせるどこに真実があるだろうか。
「ねえ、サリさん。ここにはあなたを責める人なんていません。だから――――私に教えてくれませんか? 貴女の本心を」
その心の内をこじ開けるように顔を覗き込む。言葉にできない圧力を感じたサリは遂にぽつりと本心を呟いた。
「私は……死にたくない……」
そう言った後で自分の口から出た言葉が信じられないように呆然とするサリ。
しかしどう取り繕っても遅い。彼女はもうはっきりと自覚してしまった。
何故ラーテルとの戦いで逃げたか。何故蟻と戦った時に戦場を離脱したか。何故戦場において常にファティの隣にいたか。
何故ファティが傷つき、負けそうになった時そっと離れたか。
それは彼女が死にたくなかっただけだ。安全地帯にいたかっただけだ。
しかし彼女はそんな自分を受け入れられない。
「ち、違う! 私は、そんな……神と救世主の言葉に背くようなことは思っていません! 私は、魔物との戦いならばいつでも……」
「……いつでも?」
言葉を途中で切ったサリに続きを促すように問うが、それきり何も話せなくなる。
サリ自身が会話の迷宮に囚われたその時、サリの脳裏に直接響くような声が聞こえた。
『死にたくない。いいじゃないか。立派な望みだよ』
「だ、誰ですか?」
辺りを見渡しても誰もいない。
『オレ? オレは紫水。この国の王だよ。一応』
そう頭に響いた声は名乗った。
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