304 ミドリゴ

「ご無事ですか聖女様!」

 間一髪危機を逃れたファティに真っ先に声をかけたのは赤毛の女性、サリだった。

「大丈夫です。それよりも――――」

 ファティが言葉を言い終わるよりも早く、周囲がざわめきだした。

「な、なんだこの臭い!?」

「腐ってるのか!?」

 言葉通り、辺りには赤錆の血の匂いよりもきつい、腐った臭いが充満していた。

「聖女様! お早くここを離れましょう! この袋ネズミデイシュの肉は腐りきっております! 魂の穢れが肉にすら届いたのでありましょう!」

「え、いえ――――」

「さあはやく聖女様を駕籠にお乗せするのです!」

 ファティが何かしゃべるよりも早く、後方で待機していた駕籠がやってきて、有無を言わさず駕籠に乗せた。不敬ともとられそうだったが、それ以上にこの臭気立ち込める空間に清らかな聖女をいさせる方が敬虔なるセイノス教徒には罪深い行為に思えた。


「くそ、ひどいなこの臭いは」

 言葉通り、袋ネズミの死体からは穢れそのものが臭いと化したような腐乱臭が漂い、誰もが悪態をついていた。

「アグル殿。このような穢れた魔物を糧にせよとは申しませぬでしょうな?」

 ラオから来た集団の隊長は厳しい視線を向けていた。

 アグルとしては厳しい食料事情を少しでも改善したかったが、この集団の危ういバランスを保つためには理屈よりも感覚を重視しなければならない時があるのだ。

「魔物の悪石を砕いたのち直ちにこの場を離れましょう。このような場にいれば我々も穢れるかもしれません」

 隊長は満面の笑みを浮かべてアグルを見つめながら、下知を飛ばす。

 その下知に従い信徒たちは悪石を砕きながら一仕事を終えた解放感と勝利の喜びを語り合っていた。

「いや、素晴らしいな聖女様の<光剣>は」

「うむ。あれぞまさに救世の輝き。あれほど偉大な輝きを魔物どもに晒さなければならないのは業腹だな」

「だがそれが聖女様の慈愛だ。穢れた魔物も楽園で聖女様に感謝しながら眠っていることだろう」




「……というのがあいつらの会話だよ、ケーロイ」

 ヒトモドキたちが去り、カンガルーの死体だけが残った荒野の上空を飛ぶ鷲の族長ケーロイからヒトモドキたちが何を話していたのかを聞かれたので答えていた。

 ケーロイはしばし沈黙していたが、いきなり大笑し、こう言った。

「よくぞ言ったな! 感謝だと! 穢れていると! いいだろう! 貴様らの肉は私が裂き、啄み、食らうてやる! せいぜい感謝することだ!」

 笑いながら怒るという器用な真似をしながら空中を駆け抜ける。

 生存者がいないか捜索していたけれど、ご丁寧に全員とどめをさされているから、上空から見ても生者の気配はない。

 気配はない。

 ……のだけれど――――何か、何か妙な感じがする。

「ケーロイ。掴んでいる蟻を地面に下ろしてくれ。直接調べたい」

「うむ」

 ケーロイは獲物を捕らえるようにかぎ爪で掴んでいた蟻を飛びながら地面に下ろすとまた再び上空に向かった。鷲は一度止まるともう一度飛び立つのが難しくなるらしい。

「……さて」

 どう見ても誰も生きていない。けれど。

 働き蟻に命令を出す。

「すまん。もうちょっと近寄ってくれ」

「わかった」

 墓標さえない死体たちの群れの間をさまよう。この地域は乾燥しているから、血液が全て流れ落ちれば腐敗せずに乾ききったミイラになるらしい。なお、アンティという宗教では葬式はない。死体は食べるのが礼儀らしく、食前と食後に感謝の言葉を述べるらしい。

 その礼儀を尽くしてやりたいのは山々だけどヒトモドキが戻ってこないとも限らない。このまま朽ちるに任せるしかないだろうか。


 ……どれだけ探しても誰も生きていない。気のせいか?

 もう一度だけ見渡し、さらに探知能力を全開にする。

 すると……。

「……こ」

「声……どこだ!?」

 か細い、今にも消えそうなテレパシー。誰かが、いる。しかし辺りには死体しかない。断言していい。蟻の視界には死体しか映っていない。

 なら、見えない場所はどうだろうか。

 この死体しかない荒野でも隠れられる場所。つまり。

「死体の中……カンガルーは有袋類だ! カンガルーの死体を調べろ! 袋の中にまだ生き残っている奴がいるかもしれない!」

 普通に考えれば幼児を抱えたまま戦場には出ないだろう。しかし、急だったので他のカンガルーに預ける時間や余裕がなかったのか、それともカンガルーには何らかのルールがあるのか。

 もしも育児嚢に未熟な幼児が残っており、偶然にも銀髪の攻撃を免れていたのだとしたら?

 カンガルーの死体をひっくり返し、有袋類の特徴であるこどもを育てる育児嚢をのぞき込む。

「見つかりました」

 この死体が誰なのかはわからないけれど、一人でも命が救えたのは不幸中の幸いだろう。

「よ――――」

 オレが快哉を叫ぶよりも先に、それは聞こえた。


「殺す殺す殺す殺す憎い憎い殺す殺す憎い許さない許さない殺す殺す憎い許さない許さない絶対に、絶対にイイイイ」


 開いた口から音が出ない。これほどまでに激しい感情をぶつけられたのは二度産まれてから初めてだ。

 それが産まれてそう時間のたっていな幼児から発せられたと理解するのに少し時間がかかった。乳飲み子からこんな感情が出るなんて想像できないだろう?

 いや、あるいは純粋無垢な子供だからこそ、これほどまでに激しい憎しみをほとばしらせることができるのだろうか。

 この戦場の怨嗟と無念を一身に浴びた存在。それがこの嬰児なのだろう。……戦士長たちがそんなものを持って生きていてほしいと思っているかどうかはわからないけど……こいつはここで死なせるには惜しい。

「ケーロイ。このカンガルーの死体ごと運べるか?」

 まだ袋の中から出さない方がいいだろう。しかしこのまま放置すれば間違いなく死ぬ。

「任せろ。どこへ運ぶ?」

「ひとまずオレたちの拠点へ。カンガルーたちはまだ忙しいだろう」

「承知した」

 ケーロイは無駄口を叩かずに、優しく、しかし最大限の速度で飛翔する。

 カンガルーの幼児保育か。やったことはないけど……やれるだけやってみよう。きっと、こいつはそのうち役に立つ。

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