297 喜劇
もはや赤黒く、少女だった物を見つめて最敬礼を行ったこの関に住む敬虔なるセイノス教徒らは当然の如く少女の後に続いた。
すなわち、自らの額を<光剣>によって貫いた。その顔には恐怖はない。穏やかな、しかし陶酔し、法悦に浸っていることは間違いない。
一切の苦しみ無きまま、斜陽さえも赤く染める花が咲き乱れる。
しかし、わずかな例外が関の住人の中に存在した。まだ幼い少女だった。
「ね、ねえ。どうしてみんな血を流しているの?」
幼気な少女は事態の変遷についていけていない。彼女にとっては家族同然の人々がなぜか次々と頭から血を流しているだけだ。
そこにかつて銀の聖女から薫陶を受けた少年がゆっくりと少女の正面に立ち、穏やかな声で少女に返答した。
「血を流しているわけじゃないよ。みんな楽園へ旅立っているんだよ」
幼子を怖がらせないように穏やかに語り掛ける少年はまるで兄のようだった。
「楽園へ……? どうして?」
「ラクリ様が導いてくださったからだよ」
天に星があるように、それが当然のことだと確信しながら彼は語る。
「で、でもみんな、血を流して……」
「違うよ」
穏やかな、しかし強い口調で断言された少女はびくりと体を震わせる。
「これは救いへの道なんだ。これは神様も、救世主様もお認めになる素晴らしい行為だよ」
君にもわかるよね? 暗にそう目と口で語る。その視線に耐え切れず、少女は眼を逸らした。
「わ、わかりません」
そう答えた少女を慈しむような、しかし憐れむような視線を向けて少年はこう言った。
「かわいそうに」
言葉と同時に<光剣>を少女の額に突き刺し、貴石を砕いた。一瞬の出来事だったので少女は何が起こったかすら気付かなかっただろう。
「本当にかわいそうに。ラクリ様の導きが理解できないなんて。きっと悪魔がとりついてしまったに違いない。すぐに救ってあげてよかった」
こと切れた少女を慈愛の眼差しで見る。彼女の魂が救われたことを決して疑ってはいない。
「さあすぐに僕も楽園へと旅立とう。これが聖女様に捧げられる最大の献身なんだから。きっと楽園ではいっぱい褒めてくださるに違いない」
そして、彼もまた赤く染まった。
セイノス教を理解できない誰かの為に、寓意的な説明が許されるのであれば、セイノス教とは台本だ。
神という原作者から、救世主が脚本を担当し、それらを劇として演じる。監督は教皇や国王であり、たまに主演である聖人が現れるが、ほとんどはモブか小道具を担当している。
そして演劇であるからにはハッピーエンドになることはすでに決定しているし、同時に隣人の命が絶えたとしても、それはあくまで芝居の役が死んだという程度の認識なのである。
その魂は楽園で安らかに過ごすがゆえに、いくら死んでも悲しむわけがない。その必要がない。
彼女ら、彼ら、セイノス教徒が恐れるのは救いがもたらされない場合のみ。
例えば穢れた魔物に殺されたが、いかなる聖職者からも祈られなかったとき。例えば異端と認定されたまま死んだとき。
例えば――――悪魔の誘惑に屈したとき。
それらを恐れる。命が失われることよりも、よほど恐れる。
霊魂は不滅であると信じる。思いは不滅であると信じる。セイノス教は不滅であると信じる。神を信じる。救世主を信じる。聖職者を信じる。聖女を信じる。
託宣を受けたと思っている少女を――――信じる。
一切の懐疑無きままにその生を終え、自らが幸福であると信じる。
セイノス教とは、クワイという国家は、少なくとも信じることによって成り立っている。
誰一人として疑っていない、疑ってはいけない、疑うという発想がない。
ばたばたと幸せそうに倒れる砦の住人を見守る。何も言葉を出せない。狂気の沙汰でしかない集団自殺を眺めて何か感想をこぼせというのも無理な話だけれども。
わかっていたはずだ。奴らが自殺というものに忌避感を抱いていないことを。奴らが上の命令に盲目的に従うことを。
いや、甘く見ていた。孤立している環境に押し込めば、もっと上からの命令がなければこちらの思う通りに動かせると思い込んでいた。その結果がこれだ。
そこいらの地方アイドルみたいなガキでさえ、国家という枠組みを守るための最適解を導き出せるとは思わなかった。
認めよう。ああ、認めるしかない。
「お前たちは何も間違ってない」
そう、その通りだ。
ひっそりと自問自答する。
ヒトモドキは誰一人として好きじゃないし、仲間にしたいとも思わない。しかし、手駒としては十分有能だ。いや、無能なのだけれど、それでいいのだ。歩兵に思考など不要。駒に煩悶など無駄。
国家という形態を維持するための犠牲を是とし、誰に言われるまでもなく奉仕し、必要であれば進んで身を捧げる。
ああまるで。
「虫みたい、オレたちみたいじゃないか」
だから否定できない。ヒトモドキを、クワイという国家を完全に否定する行為はオレたちの、蟻の生き方を否定してしまうことになるからだ。
遅いか早いか、千年という時間をかけて、ヒトモドキたちは虫に追いついた。自我を持ちながらもそれらをあっさり放棄し、苦難に耐え、あげく死を選び、自らを駒にする。
いいじゃないか。
それで不幸ならオレも手を差し伸べるかもしれない。しかしこいつらは幸福だ。どれだけの艱難辛苦があろうとも幸せに死ねるのなら、何の問題もない。
こいつらを哀れに思う誰かがいたところで、それは間違いなく、余計なお世話だ。
国民を虫に、駒に変えながら誰一人として不幸にしない。まさに完成されたシステムだ。
「まったく、これじゃあ文句なんてつけられないな」
しかしオレの独り言に反論をする奴がいた。
「それは違うであろう」
千尋だ。オレの背後に立っていた。というかいつの間にか背後に立っていても警戒しないほどの仲になっていたらしい。
「何がだ?」
「む、ううむ。何がと言われると困るのだがのう。妾は何かがおかしいと思う。何というか奴らは……何も、もらっていないのではないか?」
今一つ要領を得ないけど、疑問があるのは間違いないようだ。
「確かに千尋の言う通りですね」
「今度は寧々か」
今は別の場所にいるはずの寧々はどうやらテレパシーでこちらの状況を見ていたらしい。
「ええ、奴らは国というものから何も与えられていません。いえ、与えられているのかしれませんが、それはあまりにも極小です。それは働きに応じて賞を与える紫水の思想とは相容れないのではないでしょうか」
「む、確かにそれはそうだな」
一応、奴らは救いという安息、いわばリラクゼーションというサービスを受け取っているけれど、それは果たして等価と言えるのだろうか。
いやまあクワイという国家がどんなサービスを国民に与えているのかは詳しくないけどさ。
「はい! あいつらは昔の私のように虐げられていることにさえ気づいていません!」
茜にとってはひとごとじゃないらしい。
「ええ、それに対して我々は王から様々な物を与えていただきました」
「翼もか」
「はい。食料、道具、戦術、味方。あなたが思うよりも我々は多くの物をあなたから頂いているのです。だからこそ我々は戦うのですよ。与えられたものの重みを理解するがゆえに、あなたが王として頂点に立つことを望んでいます。故に命を捧げることを厭わない」
「それはあいつらとは違うのか? オレだって必要なら命を捨てるように命令するし、実際にそうしてきたぞ」
違います。四人は全く同じ言葉を言った。
絞り出すように、懇願するように、でもオレが驚くほど優しく。
「あやつらはただ命を捨てておるだけだ」
「ええ、救いなどという胡乱すぎる言葉によって無理矢理思う通りに民衆をたぶらかしているだけです。いつまでたっても救いなど来ないとしたらそれは騙しているということでしょう? それは、悪、とみなしてよいのでは?」
「あいつらはきっと選択肢さえあることを知りません。私たちは選んでこうしています」
「しかり。奴らはこの先、何年たったとしても同じことを繰り返すだけでしょう」
ああ。
きっとそうだろう。あいつらは間違っていない。ただしそれはハムスターの回し車のように同じところをぐるぐる回るだけ。
きっとそれがクワイの本質だ。先がない。未来がない。
新しい技術を生み出さない。それをよしとはできない。個人的な意見としては国家とは生物とは文化とはよりよくなるように創意工夫を凝らすべきだと思う。
で、あるならば。
「確かに連中は受け入れられないな」
いやはやまさか部下に励まされるとはなあ。こいつらも成長したもんだ。
「ひとまずクワイという国とセイノス教はひとかけら残らず滅ぼすべきだな。あんな奴らはいても害悪になるだけだ」
あいつらのシステムそのものは優れていたとしても、それがオレの思想的にも、文化的にも、軍事的にも邪魔になるのなら排除するべきだ。今までは文化のひとかけらくらい残してもいいかと心のどこかで思っていたかもしれないけど、もはや遠慮は無用。
痕跡一つ残してはいけない。あれはこの世から廃絶するべき存在だ。
「それじゃあひとまず行動しようか。この戦いは戦略的には敗北確定だけど何か得るものがまだあるかもしれない」
「うむ」
「そうですね」
「いや、千尋と寧々は現地にいないから無理だろ」
今状況を変えられるのは現地にいる翼と和香と茜だけだ。とはいえ死体と空き家を漁るくらいしか――――あれ?
探知能力にまだ反応がある。どこだ? ……見つけた。
「和香。翼。理由はわからんけどまだ生き残りがいる。石造りの小屋に向かってくれ」
「は」
「コッコー」
翼はひらりと壁から飛び降り、和香は夜に近づいている空を静かに滑空した。
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