290 星降る夜
騎兵と歩兵、そして駕籠を背負う雑多な集団が照り付ける太陽に肌を焼かれつつも緑色の大地を駆け抜ける。一刻も早く、一歩でも足を進める。関にたどり着くために。
行軍はできる限り足並みをそろえるため、兵種を整えるべきなのだが、やむにやまれぬ事情から全軍が最も足の遅い駕籠に合わせていた。
当然できる限り早く出立し、関に向かうことを主張したのはティキーであり、当初馬に乗って関に向かうつもりだった。しかし護衛の隊長は真っ向から反対し、ウェングも素人が馬で長距離移動を行うことは無謀だと忠告した。隊長の意図は明言こそされなかったものの穢れた魔物に貴き血筋のティキーを乗せることなどあり得ないという意見だったのは間違いない。
さらに銀の聖女様も馬に乗せてはいけないという同種の主張がタストたちの一団からも出始めていた。
結果として銀の聖女とティキーには駕籠に乗ってもらい、それらが円滑に進むために歩兵や騎兵が随伴するという構図になった。少なくとも、銀の聖女に頼らずして魔物を討伐するのは不可能だという事実は暗黙の了解だった。結果的に、純粋な騎兵の軍団よりもかなり行軍は遅れていた。
さらにこの軍団はトゥッチェの騎兵、タストたちの騎兵と歩兵、ラオから来た歩兵という三種の異なる集団が不承不承行動を共にしていたため、空気が良くなるはずもなかった。
特にラオから来た一団は明確に他の集団を疎んじていた。それでも分解せずに済んだのはきつくティキーが命じたのと、銀の聖女という共通の崇拝対象がいたからだろう。
つまり戦力的にも精神的にも銀の聖女はこの一団の柱だった。
昼は走りづめだが、夜は流石にそうもいかない。日が落ち始めたころに水場についた一団は体を休める時間を得た。
泉のほとりで体を清める。水が貴重なトゥッチェでは贅沢この上ない行為だが、それを許されるだけの特権をファティとティキーは得ていた。
「うわ、寒! 夜は冷えるわねー」
側付きの女官とサリが側を離れているため二人は日本語で会話している。
「そうですね。昼はあんなに暑いのに、夜は別世界みたいです」
手早く、しかし水を遠慮なく使うティキーに比べてファティの手つきはたどたどしい。むしろファティはティキーよりも野外での生活になれているはずなのだが。
「どうしたの? 早く済ませましょう」
「あ、はい」
しかしまだどこかぎこちない。
「自分たちが優先して水を使うことは気が引ける?」
いつまでも遠慮したままのファティに直球をぶつける。
「それは……そうですよ。みなさんは私を運んでいて疲れているのに私だけこんなに贅沢させてもらって……」
別にこれに限った話ではない。
食料、飲み水、その他ありとあらゆる物品がファティとティキーに優先して使われていた。
「気にする必要はないわよ。戦いになればみんなあなたを頼りにするわ」
「でも、別に体を洗う必要なんてありますか?」
ティキーは人差し指を唇につけて考えこみ、それから口を開いた。
「奈夕ちゃん、お化粧したことある?」
「え? ……ありませんけど」
「日本ではお化粧って時と場所によっては一種のマナーみたいなところがあるのよ。多分私たちの下にいる人たちにとっては自分自身よりも私たちの身だしなみが整っていないことは耐えられないの。それがあの人たちにとってのマナー」
「でも、私はあの人たちのことが私より下だなんて思ってません」
「あなたがどう思っていても多分普通の人たちはあなたを崇めるはずよ。だからね? こう考えなさい。自分が身を整えることであの人たちも心が休まるって」
あくまでも対等の立場でいたいファティには承服しかねたが、今はぐずぐずしていられないのも確かだった。手早く体を詰めたい水で洗う。
その様子をため息をつきながら見守るティキー。
「否が応でも私たちは上の立場にいるからね。ちょっとははったりを利かせることも覚えた方がいいわよ」
「嘘をつけ……ということですか?」
ファティにとって家族や仲間とは心の通じ合う間柄だ。だからこそその信条に反する言葉にはやや棘のある返答をしてしまう。
「言い方は悪いけどその通りよ。人間関係って全て真実でできているわけはないもの」
「……」
反論はしない。ただ黙々と手足を動かす。
「はっきり言えばラクリと私の関係だってそうよ」
「え? ラクリさんは紅葉さんをお姉さんみたいに慕っていましたけど……」
「そりゃそうよ。私、あの子の期待には応えてきたもの。具体的には公の場では完璧にみんなの求める王族像みたいなものを演じてきたわ」
あっけらかんと演技していると明言されて先ほどとは別の意味で押し黙る。
実は紅葉、いやティキーが公の場で活動しているところを見たことがない。普段はだらけたり、さばさばしている印象の強い彼女だが、なぜか厳粛な空気を纏っている場面を想像しても違和感がない。
「人間なんて演技したり、嘘をついたり、そういうことをよくするわよ。いいじゃないそれで。それでも少しだけでも信用できると思ったならちゃんと信じてあげればいいのよ」
「じゃあ、紅葉さんはラクリさんを信じてるんですか?」
「一応ね。あの子、子供が好きなのよ」
「子供が?」
普段からいろんな意味でガンガン来る印象が強いラクリからは意外な印象だ。
「そ。私の見てないところとかで親戚のお世話とかしたりしていたそうよ。実際にそういうところを見かけたことはあるしね。人間関係を間違えないコツだけどね、自分の目の届かないところでの行動を見るといいわよ。普段と明らかに印象の違う人がいたら用心した方がいいわ」
言い換えればそれは、常に親しい誰かにも疑いの目を向け、逐一監視する必要があるということなのだろうか。
(紅葉さんは旦那さんに暴力を受けていたから人間関係には慎重になっているのかもしれないけど……空しくならないのかな)
「こういうのは処世術よ。ちゃんと生き抜くための知恵。罪悪感を感じたりする必要はないわ」
「そうかもしれませんけど……」
「前にも似たようなことは言ったと思うけど他人はちゃんと疑うこと。ちゃんと疑えた人なら信じられるはずよ」
「信じるために疑う、ですか」
「そうよ。だから私はラクリを助けるために行動することを躊躇わない」
それはファティ自身も理解している。関に戦力を向けられるよう努力したのは間違いなくティキーだった。
例え疑いから始まった人間関係だったとしてもあれだけ思いあえる関係はそうないのではないのだろうか。
「それにラクリは子供が産まれるのよ。ううん、もしかしたらもう産まれているかもしれない。あの子ならきっと私なんかより――――」
「紅葉さん?」
「ううん、何でもないわ」
一瞬だけ不明瞭な間があったがすぐにいつものティキーに戻った。
目的の関まではまだ距離があった。
毛布にくるまっているタストとウェングもまた、こそこそと内緒話を行っていた。急いで出立したために天幕などは用意できていなかった。この高原では薪(まき)などが調達しにくいので焚火に当たるのは贅沢なのだ。
「大変なことになったよな」
「だね。これじゃあチャーロさんだっけ。その人には話せそうもない」
「もしかしたら後で食料なんかを届けに来てくれるかもしれないけど……話をする時間はないだろうなあ」
目まぐるしく変化する状況では落ち着いて策を練っている暇などない。事実としてアグルはトラブルの処理に奔走していることが多い。
そのトラブルの大部分が異なる部族同士の諍いであるのはどうにも憂鬱な気分になる。今のところ対立は表面化していないものの、細かいもめごとはどうしても発生してしまう。ティキーに言い含められてこれなら普段は一体どんな態度を取っているのだろう。
「君は大丈夫?」
かなり言葉を省いた表現だったが、意味は正確に伝わったようだった。
「別に。トゥッチェの外に出たらどういう風に扱われるかよくわかっただけだよ」
やれ、魔物臭いだの聖女様や王族に近づくなと言われれば辟易するのも無理ない。ウェング自身王族だったはずなのに露骨な差だ。
「でも田中さんを責めるのはやめておきなよ」
「わかってるよ。まあ、ちょっときつい視線になってたのは認めるけど」
勘のいい田中さんのことだ。何らかの事情を見抜いてはいるだろう。
「それよりも……関を襲っている魔物ってやっぱり前に戦った蟻で間違いないよな」
報告してきた信徒によると、灰色の蟻が関を襲っていたのを見たという。
普通の蟻は黒いらしく、間違いないとみていい。
「だろうね。アグルさんが話しかけてきたからうやむやになったけど、本当にあの蟻を操っているのが転生者なのかな」
「わかんねえけど……何でそんなことするんだ?」
今までは多忙が原因で考える暇もなかったが、こうして時間ができるとふと考えてしまう。
「権力が欲しいとか……?」
適当な当て推量を言ってみたものの、どうもしっくりこない。
「それならもっと中央の都市を攻めるんじゃないのか?」
「まあ、確かにね」
「何にせよ、もしもこれが転生者の起こした戦いなら、俺たちが止めないとダメだろう」
「うん。それはその通りだ」
たとえどんな理由があったとしても何の罪もない人々を苦しめていいはずがない。転生者がそれを行うというのなら、それを止めるのは転生者としての義務だろう。
それを心にとめて、眠りについた。
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