270 無罪と罰
クロスボウは一度撃つと装填に時間がかかる。だがしかし罠や柵と攻撃されにくい白鹿によって守られた陣地内ではその弱点は致命的な欠点にならない。
さらに精鋭隊によるグラスボウ、つまり普通の弓は間断なく射撃を続けているため攻撃が完全に途絶えることはない。
むしろクロスボウの射撃が止んでいる状況ほど次の攻撃が一体いつ来るのか、その恐怖におびえることになる。時間は過ぎ去って欲しい時ほど遅く、止まっていてほしい時ほど光のように速く跳んでいく。今、彼女たちにはどう感じているだろうか。なすすべなく攻撃にさらされている遊牧民たちには何が見えているのだろうか。
「射撃隊はそのまま射撃を。そろそろ敵は撤退を考え始めるころでしょう。太鼓の準備をしてください」
てきぱきと如才なく指示を下していく。うん、これもうほっといても翼に任せれば勝てそうだな。というかむしろオレの方が足手まといなんじゃ?
い、いや非常事態に備えなきゃなんないし! 役立たずの女王蟻なんかじゃねーし! ……誰に言い訳しとんねん。
いや、ホントに翼が味方でよかったよ。敵にとってはありがたくないことだろうけどね。
相対するトゥッチェの民は重大な危機に陥ったことを理解していた。いや、せざるを得なかった。
「太鼓持ち。直ちに撤退の合図を」
族長としてこれ以上の犠牲を出さないための当然の決断だったが、誰もが状況をよく見ているわけではない。
「お待ちください族長! 聖典と鹿を穢した魔物を見逃せというのですか!?」
「そのようなことを言っている場合ではありません! 我々がいなくなれば誰がこの聖なる大地を取り戻すのですか! もはや一刻の猶予もない! 屈辱に耐え、捲土重来を期すのです!」
族長としての威厳を見せつけ、反論を封殺する。誰も声をあげないことを見計らってから新たな命令を下す。
「太鼓持ち! すぐに――――」
しかし彼女の言葉が終わるよりも先に重い太鼓の音が響く。聞き慣れた合図。しかし、その音を聞いた彼女は顔色を変えて今までで最も大きな怒声を張り上げた。
「誰が進軍せよと命じた!」
この太鼓の鳴らし方は撤退ではない。
真逆の合図を出した太鼓持ちをにらみつけるが、青ざめた顔で震えるばかりだ。
辺りを見回し、命令を聞かずに太鼓を叩いた愚か者に制裁を加えようとするが――――いない。
誰一人として太鼓など叩いていない。そこでようやく気付いた。この太鼓は前方から聞こえてくる。
「まさか……」
ありえない、あってはいけない想像。だが彼女の聴覚は事実しか伝えない。この太鼓は敵が叩いているのだとようやく理解した。
前方で彼女の慈しむべき味方が鬨の声をあげ、突撃する姿が見えた。
古来から軍を統率する方法として楽器が用いられることは少なくない。肉声よりはるかに大きな音が出せる楽器は大軍を一度に統率する方法として有用だったのだ。しかし楽器であるがゆえに複雑な命令を出すことは難しく、命令が誤って伝わってしまうこともあった。中には後退する部隊と前進する部隊がぶつかり、自滅同然に崩壊した事例もあるらしい。
では、同じ楽器で奏でられた音ならば戦場の狂騒に包まれていても正確に聞き取れるのだろうか。ましてや悪意を以て真似ていたのならば。
「ま、無理だろうな。何しろこいつらは敵対者が自分たちの戦術を解析してくるとは思ってないんだから」
この作戦に引っかかったのはむしろ連中が一兵卒として優秀だからだ。命令さえあれば条件反射的に前進することができる。逆に利用してやったけどな!
地球で敵に進軍の合図などのサインを盗まれる行為があったのか、そしてそれらに対抗する手段が模索されていたのかは知らない。が、魔物とは知性なき存在であるという前提を掲げているセイノス教では有効な対策を練ること自体がおかしいはず。
相手の戦術を理解して弱点を突くことが戦術の第二歩だ。自分たちが気持ちよく戦える方法だけを探しているうちは弱い奴にしか勝てないよ。
太鼓にしても聖典にしてもそうだけどあらかじめ偽物を準備して騙すという作戦は使えるね。偽札作戦もこんな風にうまくいけばいいなあ。
無謀な突撃とはいえ異常な士気の高さと数的優位は侮れない。屍の山で罠を埋め、血の河で矢の雨を遮る。知性を放棄した狂気によって不可能を可能にしたヒトモドキたちは遂に白鹿の眼前にたどり着いた。さあ、そこからどうする? やるか? 白鹿をやっちゃうか?
野蛮な叫び声をあげながら一切の武装を行わず白鹿に迫り、ぐちゃりと押しつぶされた。角の魔法に、鋭利な蹄に、一切の躊躇なく地面に落ちたトマトのような赤いシミが緑の草原に点々と続いていく。
そんな仲間の末路を気にも留めずに前進し、白鹿の脇をすり抜けた。
「攻撃できないなら無視すればいい。理解できなくはないけど、雑すぎるだろ」
もちろん翼が見逃すはずもなく、白鹿の後ろに控えていたラプトルの<恐爪>に貫かれた。罠、矢、白鹿、ここまでの艱難辛苦を潜り抜けた戦士だとしてもひとかけらの希望さえも残されていないのだ。努力や気力だけで勝てるほど戦争は甘くない。
が、恐るべき狂人は腹に穴が空いていても腕がもげてもめげないらしい。
「今に見ていろ貴様ら! 弱者を痛めつける卑劣な輩め! 必ず、必ずやこの聖なる土地を邪智暴虐なる貴様らからとりもど――――」
言い終わることなく<恐爪>が煌めく。ようやくこと切れたらしい。
「王。先ほどの姦しい兵士はなんと言っていたのです?」
「んー……弱い者いじめをする悪い奴らから私たちの土地を取り戻すぞ! ……てな感じかな」
「ク――――」
わお。お前そんな邪悪な笑顔もできるんだな。皮肉と怒りがないまぜになった失笑、だろうか。
「愚かしいですね。ここはアンティ同盟の土地でしょう。それに弱者を踏みつけにしかできないのはそちらでしょう」
確かにヒトモドキの戦い方はそんな感じだ。圧倒的な数で叩き潰す。遊牧民はそうでもないけど、翼はかつてその戦術に敗北した。それを考えればこの女の言い分は見当はずれでしかない。オレも似たような感想だけど、ただまあ見習うべき点はあるかな。
「いやいや弱者だけを狙うってのは戦術として正解だろ? 少なくとも強い奴にイチかバチか勝つよりも弱い奴との戦いに確実に勝てる奴の方がありがたいぞ?」
ジャイアントキリングする側は気持ちいいけど、される側はたまったもんじゃない。大事なのは勝ち星を取りこぼさないことだ。
負けそうな戦いに勝つには運も必要だけど、勝てそうな戦いに負けないのは準備と努力だけで事足りる。
「もしや、戦いの前のご機嫌がよくなかったのはそれが理由ですか?」
う。思わず正鵠を射られて黙り込む。隠していたつもりだったけどばれていたらしい。
正直この戦いはあまり乗り気じゃない。何故なら――――。
「数の不利を策で補う作戦だからなあ。トップとしては心苦しい」
戦いの基本は数をそろえ、武器をそろえ、報連相を徹底すること。そのうち一番重要な数をないがしろにしていてはトップとしてとても優秀とは言えない。
「なんの。決して不利な条件ではありませんから。この程度蹴散らして御覧に入れましょう」
翼はそう言ってくれるけどなあ。これはやっぱりオレの落ち度だよ。ちくしょう。遊牧民め。
オレに数的不利な戦いを実行させやがって! 許さねえぞ! ぶっ殺してやる! ……どう考えても八つ当たりだけどね!
おっと、流石にこの状況を見かねたのか割と偉そうな遊牧民が出てきたな。指揮系統を回復させるつもりみたいだけど、そう簡単にはさせないぞ?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます