240 天からの祝福

 初夏にもかかわらずひりつく冷気は、真冬ならば雪景色が生えることを連想させる。背の低い草と白い砂が大地を埋め尽くし、緑の絨毯から視線を外せば青い海が波打つ光景はさぞや観光地として名をはせるだろう。

 しかし今この大地を支配しているのは青でも緑でも白でもない。

 赤。

 たった今この大地を、戦場だった場所をみてまず思い浮かぶのはそれだ。冷静に眺めれば血に染まった大地は面積の比重としては少数派であることがわかるだろうが、白いハンカチにある一筋の黒いシミのように、その赤は目を捉えて離さない。

 その次に目に入るのは岩のように転がる死体だろう。茶と灰色の濁った体色に鋭く長大な牙、たるんだ脂肪。

 セイノス教の聖典においては人のみが食べるべき食物を食べてしまったがゆえに醜い姿になったとされる「悪鬼」である。

 この悪鬼は北方の冬の悪魔が住まう土地に住み、クワイの最も北方に存在する領であるシャオガンを幾たびも脅かし、争い続けてきたと言われている。

 しかし今現在この場にいる悪鬼は全て息絶えている。

 それに対してクワイの民は誰一人として傷ついていない。この一方的な戦況を作り出したのは誰か? 言うまでもなく銀の聖女だ。

 はるばる教都からシャオガンまで遠征に赴き、見事悪鬼の群れを打倒した。

 巷では早くも銀の聖女であるファティを讃える唄が吟じられているという。

 しかしその銀の聖女を支える人々は多忙を極めていた。


 戦場からほど近い町の一つ、シャオガン領の北壁とも例えられるイエン。

 教皇の一人息子であり、転生者の一人であるタストは雑事を行っていた。

「ええ。では防寒具と雨具の手配を。全員とは言わなくてもせめて交代で使えるようにしてください」

「かしこまりましたタスト様」

 部下である女官が謹厳なさまを見せながら退出する。部下とは言っても母から送り付けられた部下であるためとても胸襟を開ける間柄ではないが、有能なのは確かだ。

 悪鬼に占拠された町を開放する戦いそのものは上手くいったがむしろそこからが本番だった。

 食料が根こそぎなくなっていたためまず近隣の村から食料を集め、町を再建するための資材が足りなかったがこの辺りには家具などに仕える大きな木が少ないのでそれもまた遠方から調達することになった。

 そこまでは予想の範囲内だったのだが二日ほど長雨に見舞われたのが不運だった。

 季節が夏に近づくにもかかわらず肌寒いこの地域の気候は兵士たちの体力を奪い、風邪をひく者さえ現れる始末だった。

 そこで防寒具や雨具を調達する必要に迫られた。

「前世でも北海道にはいったことがなかったな。一度くらい寒い所に行ったことがあればこういうことも予測できたのかもしれないけど……それよりもこのシャオガンに来たことがある人を連れてくればこういうことは防げたはずだ。次があるならこんなことはないようにしないと」

 なお、彼にとって調とは衣類を作る、あるいは購入することだと思っていた。

 まさか周囲の村人から「譲って」もらっているとはつゆほども思っていない。念のために言うなら村人の誰もが進んで騎士団に献上したのであり、強引に奪ったわけではないことは間違いない。

 しかしこの時代の村人にとって優秀な衣類は替えが利かない貴重品で、もしもそれがなくなり、冬眠し損ねた場合致命的な事態に陥ることもあり得る。

 しかもこの地方の魔物は冬季でも活動することも少なくない。文字通り寝こみを襲われれば村や町の一つが滅びてもおかしくない。そもそも今回悪鬼に占拠されたのもそれが原因であるのだ。

 もっともそれらの事情を知らないことを責めるのは酷だろう。タストが教都から出ることは少なく、また下々の民がどんな暮らしをしているかは伝聞でしか知らない。さらに地球では衣服とは金さえ出せば購入できるという常識が染みついている。知らぬことが罪だと誰が言いきれるだろうか。

 さらに彼の今現在の騎士団における役職はご意見番のような一種の名誉職に近い。もちろん母である教皇の差配だ。権威はないわけではないが実務を常に任せられてはいない。それでも何かできることはないかと方々を訪ね今不足している物資を突き止めた。この差配は彼の勤労のたまものである。

 頼れる部下がいればそんなことをする必要はないが……部下の視線は暖かくはない。ただ時折部下たちの視線が椅子にふんぞり返っているだけでいいと暗に示していた。親の七光りで送られてきた子供と侮られているのだ。もっともこれでもかなりの進歩ではあるのだ。巡察使となり多少なりとも敬意を払われてはいるのだ。

 そう。

 彼には圧倒的に味方が足りなかった。

 そして、たった今入室した男もまた味方を欲していた。


「糧食と資材の手配してくれて感謝します、アグルさん」

「いえ、タスト様こそ衣類の調達を指示していただいたこと、感謝します。これで作業もはかどるでしょう」

 仕事の話題だが穏やかにお互いを讃えている……ように見えるがその視線の奥底には相手を値踏みする鋭さが相手を突き刺している。

「迅速に行軍し、また誰一人飢えさせることなくここまでこられたのはあなたのおかげです。謙遜することはありませんよ」

「私にはもったいないお言葉です。遅くなりましたが巡察使の試験の合格、心より祝福します。これも神の御導きでしょう」

 お互いの言葉で心という深い森を分け入り探る。しかしタストにはこの手の心理戦において絶対的なアドバンテージがあった。

 神より授けられた嘘を見抜く力だ。

「苦労を掛けてしまったようですね。この戦いはルファイ家のための戦いなのに。本来ならあなた方に迷惑をかけるべきではないはずです」

「――ルファイ家の為になるならばそれは我らがクワイのためにもなることでしょう。クワイの為に我々が身命を捧げることにためらいはありません」

 ……後半は正直に話している。しかし前半は嘘をついている。つまり、ルファイ家が今このクワイのトップに就いていることに思うところがあるということ。

「ありがとうございます。あなたのクワイを思う気持ちは十分に伝わりました」

 アグルは一度謝意を表すと部屋を辞した。


 この戦いはもちろん悪鬼に占拠された町の人々を救うための戦いだ。それそのものは間違いない。しかし裏の事情が存在する。

 この戦いは、ルファイ家のための戦いだ。

 まずこのシャオガンの領主がルファイ家の遠縁にあたる。そのためルファイ家としては領主を手助けする目的がある。

 さらにそもそも教都からルファイ家が騎士団を派遣し、銀の聖女と共に戦うことが重要なのだ。そうすることで銀の聖女とルファイ家が昵懇の間柄だと周囲に知らしめたいのだ。

(アグルさんは多分、その事情を理解している。だからあまりルファイ家にいい感情を持っていないのか? ……でも僕に対してはそれほど悪意を感じないし、国のためを思っているのも間違いない。いっそのこと心の中が読めれば楽なのに)

 恐らくは誰もが一度も夢想したことのある願望を心中でつぶやく。

 再び来客があったのはそんな時だった。


「こんにちは藤本さん」

「こんにちは林さん」

 銀の聖女、ファティが珍しく誰も供を連れずに部屋を訪ねてきた。

 タストとしては数少ない味方だと断言できる人物で、知らず安堵した笑みを浮かべる。

「紅葉さんとラクリさんから手紙が届きました。一緒に読みませんか?」

 どうやらそれが一人で来た理由らしい。

 転生者である紅葉の手紙は日本語で書かれている。そのため他人の目に触れると少々厄介なことになるかもしれない。

 外国語が存在しないこの国で王族がクワイの文字以外を書いていると知られれば、悪魔が憑りついた! などと騒ぎ出す輩もいないとは言えない。

 二人で机を並べて手紙を読み始める。全く違う言語で書かれた二つの手紙だが、どちらも生まれ育った文字のようにすらすらと読める。実際に生まれ育った国が二つあるわけだが。

「二人とも変わりないみたいだね」

「でもやっぱり最後の転生者さんの居場所はわからないみたいですね」

「そうだね。この騎士団はシャオガンを開放するための騎士団だからもうしばらくここに逗留しないといけないし、僕たちだけが草原に向かうのは難しいと思う」

 良くも悪くも実権はないが敬愛されるべき立場である二人では気軽に単独行動をとるわけにもいかないのだ。

「せめて次にラクリさんと会う時にもうちょっと話を聞けるといいんだけどね」

 当然だが手紙にはタイムラグがある。電話のように一瞬で遠距離では会話できない。だからラクリが今どんな状態なのか知るすべはなかった。




 高原に近い関、少し前に銀の聖女と砂漠トカゲが戦った場所。

 その関ではささやかな祝いの席が設けられていた。その祝いの内容はラクリの懐妊である。

「おめでとうございますラクリ様」

「ええ、ありがとう」

 関に住む住人は多くないが、その住人からラクリは大いに慕われていた。銀の聖女と友人である……少なくともそう見えるという事実は十二分に崇拝の念を集めていた。ここに来た当初と比べればその態度は雲泥の差だった。

「ラクリ様。我らで金を出し合い、祝いの品を集めました」

 次々と差し出される贈呈品。豪華ではないもののラクリの不興を買うほどではなかった。……ただ一つの品を除いては。


「これは何ですか?」

 その声には隠しきれない怒気が混じっていた。燃え盛る火ではなく、不完全燃焼を起こした木のように妙にくすぶる怒りの炎だった。

「も、申し訳ありませんラクリ様。まさか、そのような絵画だとは思わず……」

 献上されたのは一つの絵画。それも銀の聖女が描かれた絵画だった。……少なくとも題名はそうだった。

 事実として銀色の髪はその絵に確かに描かれていた。が、その顔は銀の聖女とは似ても似つかなかった。その絵に描かれていた人物の顔はどう見てもサリだった。

「何故あの銀の聖女様の腰巾着が銀の聖女様だと思われているのかしら?」

 そう問われても関の住人は顔を見合わせるばかりだ。

 彼女らは知らないが、銀の聖女の絵画はこのクワイで一種の流行になっている。それゆえに画家たちはこぞって銀の聖女の絵を描いていた。しかし当の銀の聖女の顔を知っている者はほとんどいない。だから画家たちは自身の想像力や伝聞によって思い思いの銀の聖女を描いていた。そこで何がどう話が絡まったのか……ある絵画で描かれた銀の聖女はサリの顔つきになってしまったのだ。

「も、申し訳ありませんラクリ様。その絵は直ちに捨てます」

「待ちなさい。あの女の顔が描かれているとはいえ銀の聖女の名を冠した絵です。捨てるのは忍びありません。どこか倉庫にでもしまっておきなさい」

 首肯とともに絵をどこかに運んでいった。

 根本的にラクリは他者へ命令する立場に産まれたために目下の者に命令することに躊躇がない。その反対に目上の者に対しては一切反抗せずに従うのだが。

「替わりではありませんが……こちらの絵画はいかがでしょうか」

「ふん? それは?」

「この地を守護した名将の絵画です」

 しかしその絵を見てもラクリの不機嫌は収まらない。

「男の名将ですか?」

「は、はい。男でありながら悪魔によって黒く染められたカンガルーの群れを打倒し、最後には巨大なカンガルーに食われながらもその目を抉り殺したとか」

 じろじろと眺めたその絵画には青白い顔色をした男が描かれている。

「あの女の画よりはましでしょう。ありがたく受け取っておきます」

 ほっと胸をなでおろした様子で絵画を運んでいく。

 この場の誰も自覚はないが、事実上この関を支配しているのはラクリだった。意識したわけではなく、水が下に流れるように当然のようにそう振舞っていた。

「ええ、本当に今日はいい日ね」

「贈呈品はお気に召しましたか?」

「そうね、それもあるけど……今日は夢見がよかったの」

「懐妊が判明した折に夢見が良いとは素晴らしいですね。どのような夢でしたか?」

 ラクリはお腹をさすりながら、愛おしむように語る。

「この子が巨悪を倒す夢よ。まるで神からの啓示のようだったわ」

「それは素晴らしい。祝福を受けた子かもしれません」

「ええそうね。きっとこの子はお姉さまや聖女様のお役に立つために産まれてくるわ」

 ラクリにとってティキーを始めとした上位の存在に対する忠誠は絶対で盲目的だ。

 自身の身命は彼女らの為に存在すると確信し、彼女らの為ならばいかなる手段をも講じる。彼女たちが喜ぶのなら子供を産むこともためらわないし、その子供が自身と同じく彼女らに忠誠を誓うと信じて疑わない。

 それが幸福であるか否か。それを判断できるものは誰もいなかった。

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