192 反逆の蜘蛛
この国には蜘蛛の集団が二つある。
一つは千尋率いるシレーナを信仰する集団。もう一つはかつてシイネルを信仰していたが、競争に敗れて信仰を手放さざるを得なくなった集団。
彼女らは不満を抱えながらも指示に従っていた。だがラーテルの襲来によって慌ただしくなった今こそ謀反、いや正しき神を取り戻す時だと確信した。
木漏れ日が差す木の下で堂々たる演説を行っているのはシイネルの語り部だ。
「皆の者が不安を感じるのも無理はない。あの蟻どもは強大だ! しかし我らには希望がある!」
一本の糸を取り出す。もちろん蜘蛛の糸だ。蜘蛛は糸の材質を分析することで文字のように会話することができる。テレパシーとは違い記録できる点と、他の誰かに気付かれることなく会話できるという点で優れている。何しろ蜘蛛以外には決して読むことができない文字なのだから。
「この糸には妾の娘が文字を記しておる。産まれて間もなく妾と引き裂かれ、奴らのもとで育てられた。娘は奴らにいいように使われそれでも妾たちを救おうと懸命にこの糸を渡してきた。ここには奴の居城、警護の兵、そのすべてが記されておる。今ならば奴も妾たちには構っておれぬ。今こそ好機! 明日、我らはかつての栄光を取り戻す! 奴に不満を持つ種族とも結託して蟻の王を殺すのだ!」
蜘蛛は一斉に歓喜の声を上げる。この場にいる蜘蛛は皆今日まで堅忍不抜の精神で黙々と従ってきた。だがそれも明日までだ。あれを殺しさえすればかつての生活に戻れる。その希望を持っていた。
少なくとも、かつての生活にゆとりがあったわけではない。むしろ今よりも苦しかっただろう。
蟻との生活は仕事をしてさえいれば飢えることはなかった。しかしそういう問題ではない。彼女らにとって神に祈ることを禁じられることはひと月の間獲物が獲れないことよりも耐え難いのだ。
そのころ件の蟻の王は……来る戦いの準備に追われていた。
が、やはり問題は発生してしまう。というかようやく発生に気付いた。
「硝石丘全滅しとるうううううう」
硝石を作るために糞や植物を組み合わせて作った硝石丘。その様子を見ると例外なく失敗していた。
やっちまった。通気性を良くしたのはいいけどどうやら水が入ってきてしまっていることに気付かなかった。普段なら問題はなくても台風とかがくるとアウト。雑菌が混入しまくって腐敗、あんど硝酸が水に溶けた。要するに完全にやり直し。
でもそれとは反対にいいニュースもある。実験をしていた連中がごくわずかに硝酸の生物的な合成に成功したらしい。
「硝酸菌の単離はできてないけど硝酸そのものは少量確保できたんだな?」
「はい。微々たる量ですが」
「グッドだ寧々。これでラーテルを殺す武器が作れる」
「他にも荷物は運びこまれています」
ただ秘密兵器は量的にほぼ一発勝負になる。それを当てるために何とかしてラーテルの気を逸らし、なおかつ子供?ラーテルは秘密兵器以外の武器で倒さなければならない。一応雨でも使える兵器は整えている。
そして奴の<分解>をほぼ無効化する手段を思いついている。
ただそれが確実に作用するのかどうかはわからないし、何よりもその手段は戦っている途中にしか手に入らない。期待しすぎるのはやめた方がいいかもしれない。
幸い子供の大きさは親の半分くらい。質量換算なら八分の一。二匹合わせても親の半分くらいの実力しか持っていないはずだ。それでも十分脅威だけどな。
「あ、そうだ。結構こき使うからな。差し入れとして食い物を何か持っていった方がいいな」
美味い飯は兵士の士気に直結する。露骨なご機嫌取りでもやらないよりはいい。
「とりあえず蜘蛛とラプトルには肉、青虫には草、ドードーには種を乾煎りした奴、海老には魚、カミキリスにはクルミみたいな木の実、豚羊には……ヨーグルトでもくれてやるか。あ、茜たち以外にもヨーグルトを持って行ってやれ」
こう思い起こしてみると随分大所帯になってきたな。
さてまだまだ忙しいな。
翌日。とある巣の一つにて。
静かにその殺戮は奏でられた。密やかに迅速に、時間こそが肝要なのはシイネルの蜘蛛たち自身がよく理解していた。
糸で巻いた蟻をかみ殺す。通路をふさごうとした蟻を糸で引き寄せて速やかに始末する。まさしく暗殺者。暗い蟻の巣をさらに昏く、血に染め上げる。
進軍は止まらない。もう止めることなどできない。
「もうすぐじゃ。あと少しで我らの悲願が叶う」
曲がり角の先にある部屋、その扉をこじ開ける。
「覚悟せよ!」
意気込んで雪崩うって入り込んだその部屋には――――誰もいなかった。
「な――――」
驚く暇もなくどこか彼方から声が届けられる。
「おはよう元シイネルの信徒の皆さん。ご機嫌はいかがかな?」
「……貴様、何故……」
「何故? 決まっているだろう? 全部筒抜けだったからだよ」
蜘蛛の口元から硬い物をこすり合わせる音が聞こえる。歯ぎしりのようなものか。当然だけどオレは死んでもいなければ命の危機に瀕してもいない。いやあ生きているって素晴らしい。こんな悔しそうな表情が見れるとは思ってなかったよ。
「我らの……動きを……察知していたというのか」
「ん? もしかしてお前オレがお前たちの軍隊が進軍するのを見て慌ててここから逃げ出したと思ってるのか?」
「その通りであろう。貴様はみじめにも我らに恐れをなして逃げだしたのだ」
「別にそれがみじめだとはおもわないけどな。ま、ビビってたのは認めるよ。お前が間違ってるのはもともとオレがその巣にいなかったってこと」
「? どういう意味だ?」
ありゃわかんないか。しょうがないな。きっちりかっちり丁寧に解説してやるとしよう。
「お前が受け取った情報な、あれ、正しい情報が書かれてなかったんだよ」
「貴様が正しい情報を教えていなかったのか!?」
「うんまあそうなんだけどな。もっと正確に言うとそもそもお前たちに糸を渡すように命令したのってオレなんだ」
「……は?」
ぽけーっと、鳩が口から豆鉄砲を発射したような情けない表情をしてるなあ。理解できないのか理解したくないのか。
「うん簡単に言うとな。お前の娘、オレのスパイ、正確に言うと二重スパイか? ……手駒って言った方がわかりやすいか?」
オレの言葉を聞くや否や先ほどとは打って変わって今にも噴火しそうな表情に変わる。
「ありえぬ! 妾の娘が妾を裏切るなど、絶対にありえぬ」
「なんで?」
「妾たちの血のつながりは誰であっても切ることなどできぬ!」
「ああうんそれだ。オレはそれが本当かどうか知りたかったんだ」
血は水よりも濃いとか血は争えないとか親子や家族の絆はそれほどまでに絶対的な繋がりなのか? それが知りたかった。
「もしもオレの教育よりもろくに会ったことのないお前たちのことを優先すればまさしく血の絆というものは絶対的で壊せない存在に昇華されて、血のつながりを絶対視する考えは正しいことになる。反対に姿かたちさえ全く異なる生き物のオレたちにちゃんと従ってくれるなら血の絆なんかとるに足らないものだと少なくとも一例は証明できる」
結局のところ蟻や蜘蛛が上位の存在に従うのは本能だ。しかしその本能の方向を変えることはできる。
手順はそれほど難しくない。親元から離して蟻の命令に従うように教育する。これだけでオレたちの命令に従ってくれる。この時一瞬でも蟻以外の魔物と接触すると失敗してしまうことが多い。
これは鳥の
「だからそんなことはありえないと言っておるだろうが!」
「それがありえるんだよなあ。実際にオレは命令する前に紬、あ、お前の娘の蜘蛛の名前な。紬にこの行動がどういう結果をもたらすか丁寧に説明したし、本人もそれを了解していた」
口汚く非難されるかもしれないとも罵られるかもしれないとも説明した。それでもやると言ってくれた。
「貴様! シイネルを封じたばかりか我が娘まで愚弄するか!」
「あー、シイネルの信仰禁止はちょっとひどかったと思ってる」
はっきり言ってこれも実験だ。宗教弾圧しても歯向かわれるかどうか確認したかった。オレにとって宗教とはむしろ憎むべき敵で対抗勢力でしかない。だからどうにもちょっと過小評価していた。しかしこいつらは今の生活に甘えずに反旗を翻した。
全くもってエルフのことを笑えない。他人にとってどうでもいいものがまた別の誰かにとって大事なものであることもある。
始皇帝やネロ帝もこんな気持ちだったのかなあ。いやいやあんな偉大な人たちと自分を比べるなんておこがましいな。
「いまさら貴様の言葉など聞きたくはない! 妾たちを! 妾の娘を傷つけおって!」
「傷つけてないよ。お前の娘は健康的な生活を送らせた。少なくともオレの目の黒いうちは絶対にしつけなんて言いながら暴力はふるわせない。そろそろ言い残すことはないかな?
「き、貴様妾たちを殺すつもりか!? 何故だ!?」
「お前がルールを破ったからだよ。いったろ? オレを殺そうとしただろ? そこの巣にいた奴らを殺しただろ? それはどう見ても犯罪だ。罪には罰を。それだけだ」
「どうせ貴様は妾を殺すつもりだっただろう!?」
「やんないよ。お前たちがルールを破らなければ絶対に裁かない」
「貴様が決めたルールだろう! 貴様が破らぬ保証はどこにある!」
「逆だよ。王様だからルールは絶対に守らなくちゃいけないんだ。例え王であっても王が定めたルールを破ってはならない。お前ならその辺りは理解していると思ってたんだけどな。少し失望したぞ」
「き、貴様、いつか天罰が降るぞ!」
「そりゃいつだ? 今すぐ天罰が来ないとお前たちは死ぬぞ?」
まあオレだって自分が善行を積んでいるとは思ってない。いつかオレに恨みを持った奴らがオレを殺しに来ることはあるかもしれないけど、すくなくとも今はその時じゃない。
「ぐ、ええい皆の――――」
その時蜘蛛はざりざりと巣の中を進む大軍の足音を聞いた。
「当然だけどお前たちを始末する部隊は配置してある。言い逃れは今更しないよな。あ、それとお前の娘もそこにいるから。なんだったら話を聞いてみるか?」
オレの言葉を聞き終える前に蜘蛛は巣の中を駆け戻る。息を切らし、実の娘に会いに行く。
そして反逆者掃討部隊の先頭に立っている紬に声をかける。
「ああ我が娘よ。辛かったか? 奴らに無理強いされてここまで連れてこられるとはかわいそうに。さあ、一緒に……」
「初めまして。貴女が妾の母親か?」
「その通り」
満面の笑みを浮かべて今にも抱きつかんばかりに手を広げる。しかし紬は事務的な口調で話を続ける。
「貴女の罪状は多数の国民を死に追いやったこと、王を殺そうとしたこと、それで間違いないか?」
母蜘蛛の表情に亀裂が入る。どうやら暖かく迎え入れてくれると期待していたようだ。
「た、確かにそうかもしれんが……シイネルを取り戻すためにはやむをえぬこと……」
「我が国にそのような法はありません。完全な現行犯である以上抵抗するならこの場で殺害してもよいとのことです」
亀裂はさらに広がり、もはや仮面は砕けて砂のように消え去りそうだ。
「何故です!? 貴女は妾の娘であろう!? 何故そのようなことができる!?」
「犯罪者は素早く処理しろと教わりました」
シイネルの語り部は奇声を発すると掃討部隊に襲いかかった。結果は見えている。何しろ蜘蛛を倒すための部隊だ。当然辛生姜などの対蜘蛛装備を整えている。勝ち目などあるはずもない。埋もれるようにシイネルの信徒たちは見えなくなった。
結局のところ、こいつは血縁という形式だけの絆に胡坐をかいて何の根拠もなく娘を信じてしまっただけ。
そこに論理はない。対して紬は徹底して論理を希求し、法を遵守するように育てられた蜘蛛だ。はっきり言えばあいつらとそう変わらないけど……その効果の高さは確かに今証明されたばかりだ。
念のために言っておくけど紬に掃討部隊に加わるように指示は出していない。本人の志願によるものだ。流石に血がつながっているだけの娘と親が争う場面を見て愉悦スマイルを浮かべるほど性格は悪くない……よな?
とはいえ紬に労いの言葉は必要だよな。今回の功労者だし。
「よくやった紬。お前のおかげだよ。ありがとう」
「感謝します。これで妾もこの国の一員でしょうか」
「? 何言ってるんだ? お前はもともとこの国の一員だろう?」
少なくともオレはそう解釈しているけど。はっ! まさか!
「誰かにいじめられたりしているのか?」
「いえ、そんなことはありません。皆よくしてくれています。ええ、妾の早とちりだったようです。今まで蟻の方々と一緒に暮らしていましたが、妾だけ姿が違うのでそれゆえに疎外感を感じていましたが、それは間違いだったのですね」
あー、まあ違う生物に育てられたらそう感じるのも無理ないか。別の人種の子供がクラスになじめないなんてよく聞く話だからなあ。
「そんなことはないから安心して休め。あ、それとも何か欲しいものはあるか?」
「いいえ」
「そうか。じゃあしばらく休んでろ」
「はい」
ゆっくりと立ち去っていく。これで悩みなんかなくなってくれたらいいけどなあ。
さてこれで、後は黒幕を問い詰めるだけだ。
「そういうわけで何か申し開きはあるか僧侶」
感覚共有によって豚羊の僧侶を監視していた蟻に視点を移す。
「さて、何のことでしょうか?」
はっはー。とぼけやがってこ奴め。
「しらばっくれるなよ? お前が扇動した事実はもうすでにネタが上がってる。蜘蛛だけじゃない。ラプトルやアリツカマーゲイにも声をかけてただろ」
むしろそいつらからの密告があったからこそ迅速に対処できた。強いて僧侶の失敗を述べるなら声をかける相手を多くしすぎたことか。
「だったらどうするというのです」
「オレに歯向かって無事ですむと思っているのか?」
「ええ。もちろん。我々は何一つとして
「ああ全くその通りだ。お前たちは何ひとつとして悪事を実行していない」
こいつらはオレに直接害を及ぼしたわけでもないし、誰かを殺してもいなければ、何かを傷つけたわけでもない。
ただ唆しただけ。いっそのこと共謀罪でも成立させるべきだったか? 何にせよこいつらは絶対に自分たちに危害が加えられないという確信をもって危ない橋を平然とわたっている。
「だからこそ、今こそちゃんと聞こう。オレの部下にならないか?」
こいつの能力は欲しい。割と力で解決しようという思考が強い魔物にとってこういう裏から手を回すことが得意な謀略タイプは貴重だ。
以前にも仲間に誘ったことはあったけど今はこいつの性格や能力、宗教も含めてそれもよしだと、そう認識している。
「今なら今回オレを傷つけようとしたことは不問にする。食い物はきっちり届けるし、信仰もそのままでいい。悪い条件じゃないだろう?」
譲歩案を出したつもりだけど、反応は芳しくない。
「我らは高みに上らなければなりません」
「オレたちと共にいればそれが妨げられると?」
「あなたがいることそのものは仔細ありません。ですがあなたはあまりにもことを大きくしすぎる。命はあるがままでよいのです。無為に奪わず、受け入れればよいのです」
「ほお? それじゃあ何か? ラーテルに部下が殺されるのを指をくわえてみていろと?」
「それが摂理ならば」
なんとまあ自然に優しい生き物だ。殺されることを容認しろとはな。
オレからしてみるとそれは理解できないな。理不尽に抗わなくてどうする。ありとあらゆる努力をして生き延びなくてどうする。自分の為に環境さえも変えてみせる。それこそが生き物だと思うんだけどな。
「もう一度聞くぞ? オレの部下にならないか?」
「お断りします」
にべもなく断る。そうか、やっぱりこうなったか。残念なことにオレの器は小さい。例えば殺されそうになった相手を許せるほど寛大じゃない。こいつらを見逃せば後々脅威になるかもしれない。そう考えてしまう程度には小物だ。だからこそこいつらはここで死んでもらわなければならない。
「ならしょうがない。必殺技を使うとしよう」
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