121 悪運
食料もなく、水も乏しい。ヒトモドキの惨状は目を覆わんばかりだった。徐々に気力がなくなったことと、一気に人口が増えたことでまず悪化したのは衛生環境だった。村中に糞尿がまき散らされ、ハエがたかるようになった。
もともと千人以上のヒトモドキが暮らせるようにできていないので家が足りず、それ以上にトイレが全く足りていない。それなら村の外で用を足せばいいと思うかもしれないけど村の外は危険だし、たった数百メートルを移動する体力さえ惜しんでいた。毎度毎度汚い話で申し訳ない。
誰か一人でも風邪でも引けばさらに状況は悪化したはずだけど、幸運にもそんなことは起こらなかった。しかしほとんどの村人は、昼は森に出かけて、夜になる直前まで探索していたからその疲労は想像を絶する。
さらに生き残っていた海老を全て食べてしまったため掃除をしてくれる味方がいなくなったのも状況を悪化させる一因になっていた。アグルは海老を残そうとしていたみたいだけどティマチが押し切った。普段の掃除を海老に頼っているせいなのか村人は掃除が苦手みたいだ。もしかしたら衛生観念が発達していないのか? ありえるな。地球でも清潔さを保てなければ健康を害するという理論が普及したのはたった数百年前だ。この程度の文明なら病気が流行るのも悪魔の仕業なんて思ってても不思議じゃない。
限界は徐々に近づいている。まともな神経をした指揮官ならここで撤退するだろうけど、まともじゃないからな。
ただしそんな状況でもティマチが通りかかれば誰もが顔を輝かせて祈りの言葉を口にする。ティマチを不快にさせないためとはいえ健気を通り越して盲目的な忠誠心だ。だけどそれが災いして報告連絡相談のホウレンソウがきちんと行き届いていない。そのせいで誰よりも現状を把握するべきティマチが危機的状況に陥っていることを理解できていない。
この状況は8割がたティマチが招いたけど、部下だってきちんと自分たちの窮状を伝えていない。相手を思いやっての嘘が必ずしも良い結果を招くとは限らない好例だな。ま、あのティマチが現状を理解したところで英断ができるかどうかはわからないけどね。
もしかしたら補給を待っているのかもしれないけど、残念ながらそれは訪れない。何故ならこの村から外に出た一団は一つしかなく、それはもうすでにオレたちが始末したからだ。
前日この村に訪れた偉そうな女性が神輿のような乗り物でこの村から出ようとしていた。この村に入ってくる奴は見逃すけど出る奴は極力見逃すなというオレの命令通り、神輿に襲いかかった。
「行きはよいよい帰りは怖い、だな」
神輿にワラワラと蟻が群れる。護衛もいたが、せいぜい十数人だ。全員始末するのに時間はかからなかった。
「よし! 偉そうな女性を引きずり出せ!」
神輿のすだれのようなものを開ける。そこには、泡を吹いている死体が!
……はい?
「お前ら何かした?」
ぶんぶんと首を横に振る。ですよねー。何が起こったんだ?
よく見ると女性にはグモーヴが握りしめられていた。なるほど。大体わかった。
襲われたことに気付いた女性が慌ててグモーヴを食べた結果誤って大量に食べてしまったと。その結果中毒でぽっくり逝っちゃったのか。ご愁傷様。
でもグモーヴはまだまだ余っているからちょうどいいや。
グモーヴの魔法を調べよう。
結果から言うと大体グモーヴの魔法は予想通りだった。テンションがハイになる。うむ、これも立派な魔法の効果であるはずだ。で、グモーヴを食べた魔物同士でしか会話ができなくなる。
それ以外の効果があるのかどうなのかはわからない。ただ一部の精神に干渉するタイプの魔法なら無効化できてもおかしくない。ゲーム的に言えば精神異常無効化系能力。ただしバフデバフ両方弾くタイプ。
使い方次第では有効そうだけどテレパシーを使った戦術を構築しているオレたちにとっては役に立たないかなあ。
というかどうもヒトモドキは全体的に連絡手段をちゃんと構築してないんだよなあ。ここが田舎だからなのかもしれないけど。のろしとか伝書鳩とかあるんじゃないのか? それともこの作戦を妨害したい誰かが意図的に外部に助けを求めにくい状況を作ったのか? おかげで情報を遮断するのは楽だけどね。
そんなことはつゆ知らず戦いを辞めないヒトモドキ。今日も元気に……空元気に森に探索へ乗り出す。疲労によって丸まった背中に落ちくぼんだ眼窩。おおよそ戦に赴く面構えじゃあないけど、威勢のよさだけはまだ消えていなかった。中には蟻の邪悪さ、卑劣さを非難するヒトモドキもいたけどさ、これは戦争だぜ? 手段なんか選んでたらこっちに被害が出るじゃねえか。そもそもこの状況はほとんどお前らの自業自得だぞ。
ま、言っても聞かないだろうな。
アグルは必死に蟻の巣を探させていた。さらに食料も限界まで切り詰めていた。一縷の望みをかけて使者に補給の要請を出したが、本当に食料が届くかどうかは分の悪い賭けだ。
撤退や人員の削減をティマチにそれとなくほのめかしてみたが聞く耳を持たない。ティマチが団長の座にいるうちはどうあがいてもアグル自身の手腕によって事態を打開することは不可能だった。
(だが、それでもやらねばならん。蟻どもは明らかにこちらの窮状を察知して攻撃を控えている。何としても引きずり出し奴らを倒さねば我々に未来はない)
彼の軍事的才能は決して低くはないが、いかんせん状況が悪すぎ、また焦りもあった。それ故に偽りの痕跡を残していることに気付かず、見当違いの場所を探し続けるばかりだった。
誰にとっても計算外のアクシデントが起きるまでは。
「はあ……はあ……」
「う……げほ、ゲホッ!」
「み、水だ……」
疲労の極致に達した。村人が辿り着いたのは川のほとりだった。探索を命じられた場所とは大きく離れている。のどの渇きから水のせせらぎを無意識に求めたのか、ふらふらと水辺に近づいていった。まるで、何かに操られるかのように。
ごくごくと喉を鳴らし、一心不乱に水を飲む。渇きを癒し、ようやく周囲を見回す余裕ができた頃、団員の内の一人が妙なものを発見した。
「おい、あれは何だ?」
指差された方向を見ると奇妙な桶がついた車輪が川の流れによって回転していた。
それは水車だったが、彼女らにとっては未知の構造物に他ならなかった。
「わからん。だが神の恩寵によってもたらされたとは思えん。あの禍々しい何かは悪魔の仕業に違いない!」
本当にただの水車でしかないが、未知の何かを恐れるのは生物としての本能だ。その頭が頑迷ならばなおさらのこと。
「もしや我らは蟻の本拠地を探り当てたのではないか?」
そうだ、そうに違いない、賛同の声が次々と上がる。
「これぞ神の御導きだ! すぐにティマチ様に知らせなけ……おい! 蟻が迫って来るぞ!」
森の陰からワラワラと這い出る蟻は十やそこらではない。団員たちは息をすることさえ忘れて走り出した。
幸運だったのは彼女らが迷いながら巣の近くに辿り着いたことだ。もしもきちんと自分と村の位置がわかっていれば、最短距離で村に戻るはずで、彼もそれを見越して現在地と村の間を寸断するように捜索隊を派遣した。
しかし、今どこにいるかわからなかった団員たちは遮二無二森を駆け抜けてしまったため、移動経路の予測が困難だった。それでいながら村から水車までの道のりを正確に記憶できたのはやはり団員達もまた、森に暮らす民だったということだろう。
とはいえあまりにも話ができすぎていた。まるで何者かに糸を引かれていたかのように。
「それは真か?」
「もちろんですアグル様」
森を彷徨い、魔物に追われた彼女らは見るも無残なほど疲弊していた。
「そうか。これも神の御加護だろう。ティマチ様!」
「ええ、明日全軍で出陣しましょう! 我らの信仰を邪悪な悪魔に見せつけるのです!」
歓声が上がる。疲労の極致にあったとしても一縷の望みがあれば、立ち上がることができる。まさにぎりぎりのタイミングで吉報はもたらされた。
アグルは残りの乏しい食料を全て開放することに決めた。もう、後はない。
「あの、アグルさん」
「サリか? どうかしたのか?」
食料の配給を指示する傍らで神妙な、悪事を言い出せなくて困っている子供のような表情をしたサリが話しかけてきた。
「その、さっきようやく思い出したんですが……」
「何だ?」
妙にもったいぶるサリに内心いら立ちが募る。明日の準備に忙しくて、こんな女と話している暇などないのだが。
「今回戦っている蟻が使っているおぞましい武器……私は見たことがあるんです。去年戦った蟻と同じものでした」
そういうことは早く言え! 喉から出かけた言葉をぐっと飲みこむ。恐らくこの女は今まで蟻が武器を使ったことを報告しなかったことを叱責されると考えたのだろう。なるほど、ような表情、ではなくまさしくそのものだったらしい。
「恐らくは兄さんを殺した蟻と同じ悪魔が憑りついているのだろう。勝たなければならない理由がまた増えたな」
「はい。その通りです」
叱責されないと知ると急に生き生きしだしたな。頭の軽い女だ。
「だがこれは他の者には喋ってはならん。特にティマチ様にはいらぬ雑念をもたらすことになる。この件は私とお前の秘密だ」
「承知しました」
明るい返事をする彼女は疑いなど知らないかのようだった。
サリが離れ、指示を出す傍らで蟻との戦いを思い返す。
(場合によってはサリのせいで作戦が失敗したせいにするか。俺の責任が少しでも軽くなるならそれもありだな。それにしても、去年の蟻……生きていたのか?)
まさか熊と戦って生き延びているとは想像もしていなかった。ないはずだ。ないとは思うが……もしも奴がこのアグルを
「直ちに排除しなければ。兄さんの、理想の国を守るために」
ポツリと呟いた言葉は誰の耳にも届かなかった。
「まじかよ」
ヒトモドキに巣を発見された挙句、逃げられるとか。それも後ほんの少しで完全勝利できるのに。
どうも水を求めて川岸に近づいたところで水車を発見したようだ。海老を殺したのは失策だったか? いや、あんなもんただの偶然だ。結果論、結果論。気を取り直してこれからのことを考えよう。
さていっそ逃げるか? 逃げれば確実にあの騎士団は崩壊する。もう食料がない。この辺にいる獣だって大体獲り尽くしただろう。もう本当に空になる寸前であるはずだ。
ただしここで逃げればやくざ蟻がいた巣がどうなるのか、さっぱりわからない。最悪、火でも点けられる。そうなるとジャガオは全滅……でもないかな。地下にある可食部は問題ないかもしれない。
純粋に戦略的には逃げた方がいい気がするけど……やっぱり心情的には嫌だなあ。
見つかった巣にいるのは五百人弱。数では倍ほどの差がある。しかし、城を攻略するには三倍の戦力が必要だとも聞いたことがある。あの弱りまくったヒトモドキにそこまでの力があるかな?
「小春、千尋、風子。お前らはどうだ? 戦うか、逃げるか」
「大丈夫じゃないかな。ヒトモドキはすごく弱ってるよ」
「そうだね~。ご飯が無いのは嫌だね~」
「前に進もうか」
全員一致だな。……風子は戦うと言いたいんだよな?
まあ確かにこれからヒトモドキと戦う機会がないとは思えない。それならここで弱りまくった相手に実戦経験を積むのも悪くないかもしれない。
「なら戦うか。ただし退路の確保はしておけ」
前回の教訓だ。戦う場合は必ず逃げ延びる方法を一つは残しておく。死ななきゃ勝ちだ。こいつらと同じくらい優秀な人材が手に入る見通しがない以上、死んでもらっちゃ困る。
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