50 カウントダウン

 燃える。ラーテルの右腕が燃える。蜘蛛は正確に酒に濡れた腕へと火をたたき込んだようだ。

 初めて聞く甲高い咆哮とともに暴れまわる。

「射ろ! 余裕を持たせるな!」

 火が全身に燃え移ればその時点で勝ちだ。万が一にも消えないように、少しでもその時間を早めるために火矢を放つ。

 あと少し。だがもしもこの好機を逃せば負ける。戦いが長引くほど素の実力差が出てしまう。初めから短期決戦狙いの不意打ちだ。

 そして――ラーテルはほんの一瞬だけ動きを止めた。



 そもそも、火とは、燃焼と何か。平たく言えば可燃性物質が酸素と反応し、熱や光を発生させる現象である。

 何かを燃やす場合、発火温度を上回る熱と酸素がありさえすればよい。逆に燃焼を止めるには物質の温度を下げるか酸素の供給を断てばよい。最も一般的かつ手っ取り早い方法は水に漬けることだ。不燃性の液体に包まれれば酸素は供給されず、なおかつ温度は下がる。

 つまり、温度を下げる、空気中の酸素に触れさせない。この条件を満たすものであれば何に漬けてもよい。

 例えば――砂とか。



 ラーテルは突然燃え盛る腕を地面に突き立てた。ありえない。地面を掘る動物ならいくらでもいるが、地面を割る生物など地球には存在しない。だが奴は地面を柔らかい砂に分解することによって強引に実行した。

 でたらめすぎる。ここは本当に現実なのか? 思わず頭を振るがそれで事実が変わるわけはない。

 火は消えた。恐らくシードルも砂に吸われてほとんど落ちたはずだ。

 希望は消えかかっていた。

「まだだ! 火は有効だ! 射ろ!」

 訓練通り、一斉に矢をはなつ。ラーテルは避けない。そのかわり、今度は地面に左手を地面に突き立てると、引き抜かずに砂をかけた。

 犬が地面を掘る姿を見たことがあるだろうか。想像してみるといいい。もしもその犬が家を軽々踏みつぶすほどの巨体だったなら。

 砂と岩混じりの雨が降る。矢の大半はそれらに呑まれて勢いを失った。

 知っていたのか、それともたった今閃いたのか。飛び道具という概念を理解しそれを防ぐ方法を看破し、さらには火に適切な対処法。どれもオレの想像を超えていた。

 甘かった。見誤っていた。

 魔法においても肉体においてもラーテルは最強だと認識していた。それでもまだ足りない。大いに侮っていた。


 ラーテルは知性においても――最強だ。


 そして再び立ち止まり、吠えた、はずだ。

 確信できないのはそれが音なのかわからなかったからだ。あまりにも大きすぎる音だったせいで脳が理解を拒否したらしい。それでもこの地下にさえその振動は伝わってきた。恐らくこの森の生物は今宵眠れまい。ただ嵐が過ぎるのを震えながら待つだけだ。ラーテルの咆哮はたった一度だけでこの森を止めた――否、殺した。


 今はまだ知らないことだが、この世界のラーテルは意外と慎重だ。不利ならすぐに逃げ、割に合わない狩りはしない。

 ただし、全力で吠えた後は話が別だ。動くものは皆殺す。腹が減っていようが戦意がなかろうが関係ない。すべてを呑み込む暴風となる。

 咆哮によって怒りを意図的に滾らせるのだ。


 まず狙われたのは、言うまでもなく蜘蛛だ。

 何しろ直接ダメージを与えたのは蜘蛛だけだ。あいつを集中的に狙うのは間違いじゃないどころか、蜘蛛なしでラーテルを倒す方法が思いつかない。

 ラーテルはその腕を振るい、辺りの土を巻き上げた。矢に対する防御ではない。蜘蛛の進路を遮るためだ。ラーテルにとっては砂粒でも、蜘蛛や蟻にとっては当たり所が悪ければ致命傷になる大きさの石だ。奴は飛び道具の防御だけでなく、それを攻撃に生かす方法さえも考え出した。

「逃げろ――っ」

 言葉に詰まったのはなんてことはない。蜘蛛の名前を言おうとして、そもそも名前を知らないことに気付いたからだ。あいつとオレは常に一対一で会話していた。だからお互い以外の相手を区別することがなかったから、わざわざ名乗る必要なんてなかった。

 そんなことにいまさら気づいた。

 わずかにラーテルの爪が蜘蛛をかすめた。

「牢に、妾の糸がある」

 巨体が迫る、小さな影が走る。矢は空を裂くが、敵を裂かず。

「その糸を持って、北東の赤い木に行け。そこ

 鈍い振動があった。何かを押しつぶしたような。

 声は消えた。光は消えた。ラーテルが消した。

 蜘蛛は死んだ。あっさりと。


 それでもラーテルは止まらない。砂の雨を降らせ、巣を、蟻を破壊し続ける。落ち込む暇など与えてはくれない。

 考えろ。何か考えろ。できなければ死ぬ。

 まだ辛生姜の魔法は有効なはず。予め酒を撒いてから奴をおびき寄せて火を点ける。ダメだ。恐らくシードルの臭いは覚えられている。迂闊に近づくとは思えない。

 なら落とし穴は? 時間が足りるわけない。

 誘導してから一気に射撃――それはさっきやってダメだっただろ!

 もういっそのことすべての渋リンに火を放つか? それなら逃げてくれるかもしれない。時間も人員も足りてないし、オレが逃げる暇が無くなる。

 他には? 何かないか? どうしよう。どうすれば?

 死にたくない一心で思考を巡らせる。ここまで必死にものを考えたのは前世でも今世でも生まれて初めてだ。そして








 何も思いつかない。




 どうすればよかったのか。初めから逃げれば良かった? 隠れておけばよかった? 意味のない思考しかできない。

 いつの間にか震えは止まっていた。恐怖がマヒしたのか、もはや恐怖する気力すらないのか。




 勝てると思っていた。例え前女王と大軍を倒した相手でも、蜘蛛の巣を軽々突破する敵でもオレの知識なら何とかなると高を括っていた。その結果がこれだ。

 この世界ではオレも狩られるだけのただの獲物にすぎない。魔法でも力でも、知性でさえもオレの上を行く奴はいくらでもいる。そんなことはとっくの昔にわかっていたはずなのに。

 もう、体にも頭にも力が入らない。


27


「紫水」

 通信が入る。言葉を返す気力もない。

「二番目の巣にいる奴と連絡を取って、迎えに来てもらって」

 

「無理だ。ラーテルが止まらない」

 言葉が壊れたラジオみたいに自動で吐き出される。

「大丈夫すぐにいなくなる」

21

「何か方法があるのか?」

「大丈夫」

 そう言い残して働き蟻たちは逃げ出した。巣から離れるほうへと、彼から離れるほうへと。


17

 ギギキキキィ――――――

 それは蟻の叫び。テレパシーではなく、喉から迸る物理的な音。テレパシーの通じないラーテルにあえて聞かせるための不快な叫び。

 森中に轟くほどの叫び。その代償として彼女の喉は潰れた。だがそれでいい。ラーテルに自身を狙わせる、それができるならこの程度はどうということもない。


14

 もしもラーテルが吠える前の冷静で慎重だった状態ならこんな挑発には乗らなかったかもしれない。だが怒っていたがゆえに目前の敵を追い回してしまった。

 誰かがまたいなくなるたびにまた誰かが叫ぶ。喉よ裂けろと吠える。足よ砕けろと走る。

 

10

 一歩また一歩命が一つ消えるたび

 ラーテルは巣から離れていく

 我らは蟻

 群れるがゆえに

 己をもたず

 死を恐れず

 本能と理性に従い

 ただ一つの命を

 女王を生かすためだけに

 生きて死んでいく物である






 そして光は消えた。この巣にいる魔物はオレだけだ。

 最後に消えた蟻は巣から大きく離れ、人里に近づいていく場所だった。ラーテルを人里に誘導するつもりだったのかもしれない。


 オレは何もできなかった。ただ暗い地の底で震えていただけ。

 何も――――

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