36:可哀想と思われていたかった
「璃亜夢ちゃんはたった三つの言い付けも守れない悪い子だね」
ホテルの浴室に永延の呆れた声が響くが、それよりも大きな水音で永延の声はかき消される。
浴槽には淵ギリギリまで水が張られており、浴槽の前に膝をついていた璃亜夢は浴槽の水に顔をつけている。否、彼女の横にいる永延が、璃亜夢の後頭部の髪を鷲掴みにして無理矢理に彼女の顔を水面へと沈めていた。
水に顔を沈められた璃亜夢は苦しさから手足をばたつかせるが、永延の力に抗うこともできず璃亜夢は口や鼻から入ってくる水に苦しむだけだ。
しかしながら永延は璃亜夢を殺したいわけでもないようで、毎回十秒ほどで水面から顔を上げさせる。
璃亜夢はゲホゲホと水は吐き大きく空気を吸う。
既に少し前に無理矢理胃袋に詰めていた焼肉が、浴室の端に吐瀉されている。
もう璃亜夢が吐き出せるのは水だけだ。
彼女は浴槽の淵に手を置きそこに上半身を乗せてぜえぜえと呼吸を繰り返す。
ただ苦しい。今まで『その瞬間』が一番辛いと思っていたが、今は『この瞬間』が辛い。
どうしてこんな目に遭っているのかと思わずにはいれない。
だけど永延はそんな璃亜夢を見透かしているように璃亜夢の髪を掴み自分の方へと向かせる。
「璃亜夢ちゃん、わかってる? 今、苦しいのは璃亜夢ちゃんが悪い子だからだよ?」
永延はそう言うと、また璃亜夢の頭を水へと沈める。
もう何回目かも覚えているはずもなく、疲れと低下した思考で抵抗もできるはずもなく璃亜夢の頭は水に沈む。
疲れているけれど、やはり苦しさが勝り手と足を動かして顔をあげようとしてしまう。
口から泡を吐きながら必死で顔を上げようとする。
でも、こんなことをもう何度も何度も続けられて、意識が遠のくような感覚に襲われる。それは行為の最中に意識が無くなるのとはまた違う感覚に思えた。
あれが意識が上へ遠のく感覚だとしたら、今は意識が沈むような暗くなるような感じがした。
これ、死ぬのではないのか。
璃亜夢がそう直感するが、その遠のく瞬間、永延に頭を水から上げさせられる。
「今ちょっと危なかったね」
永延はそう言いながら璃亜夢に微笑む。
璃亜夢はぜえぜえと上擦った息を上げながら力なく永延を見る。
もう止めてください。
そう訴えないけれど、声よりも荒い息が出てしまう。
腕を上げて髪を掴む彼の手を振り払うこともできない璃亜夢に嘲笑して永延は漸く璃亜夢から手を離す。重力に従うように、璃亜夢は浴室の床に崩れ落ちる。
意識が朦朧とするけれど、今気絶するとどうなるかわからない。
璃亜夢は冷たいタイル張りの床に横臥するが、視線だけはすぐ横で自分を見下ろす永延へ向けた。
永延はそんな力なく呼吸を繰り返す璃亜夢を穏やかな笑みで見下ろす。
その笑みに璃亜夢は内心反吐が出そうだった。
「璃亜夢ちゃんさ、どうして今日俺に付いて来たの?」
永延は浴槽の淵に浅く腰掛ける。そして膝に肘をつくような体勢で璃亜夢を見る。
璃亜夢は永延の言葉の意図がわからず何も答えられず永延を見上げるだけ。そんな璃亜夢に永延は特に苛立つ様子もなく、また笑う。
「普通さ、来ないでしょ。璃亜夢ちゃん、俺の言い付け守ってなかったんだから、コンビニに逃げ込めば良かったんだよ。そしたらあの優しい優しい大黒くんはきっと璃亜夢ちゃんを守ってくれたし、俺も璃亜夢ちゃんがコンビニに逃げ込むとか声出して逃げるとかしたら追わなかった。……でも璃亜夢ちゃんは俺についてきた。ねえ、どうして?」
最後の、ねえどうして、という永延の声が重く浴室で響く。
どうして。
どうしてってそれは。
永延が声をかけたから。
そう思うが、璃亜夢はまだ整わない呼吸のせいで、何も言葉がでない。
返事をしない璃亜夢を永延は咎めるかと璃亜夢は恐るが、永延は何もしなかった。
だけど話を続けるのだ。
「璃亜夢ちゃんって自分のことがどれだけわかってる? 自分の行動の理由をどれだけ理解できてる?」
この男は時々難しいことを語る。
璃亜夢は息を繰り返しながら、やっぱり何も答えることができないまま永延を見上げる。そんな璃亜夢に永延は嘲るように笑いながら「わかってないんだ、本当に馬鹿だな」と肩をすくめる。
「璃亜夢ちゃんはさ、お母さんに『可愛くない』って言われたから、『可哀想』になりたかったんじゃないの?」
「ぇ」
「自分は可哀想だからこんな目に遭っている。可哀想だから誰か同情して。そう思ったことない?」
「そんなこと」
「思ってない? 本当に? じゃあどうして今日付いて来たの? 絶対良い事が起こらないのはわかってたでしょ、これまでの経験上。じゃあどうして? ねえ」
「それは」
思考が軋む。
どうしてって理由を訊かれても、そんなのわからない。
……でも予感はあった。それをこの男は見透かしているのだ。
永延は璃亜夢を嗜めるよう結論を出した。
「璃亜夢ちゃんはさあ、今夜可哀想な目に逢いたかったんでしょ? 大黒くんの気を引きたくって。これまで誰の気も引けなかったからね。可哀想と思ってくれてもそれだけ。自分を見て、自分を助けてくれる人なんていなかった。お母さんもそう。君が可哀想な目に遭ってたら助けに来てくれるかと思ったよね。お母さんだもの。大切な娘を探してくれると思った、だけど助けになんてこなかった。でも大黒くんが現れた。自分を助けてくれる存在、自分を見ていてくれる存在だって考えたでしょ? だけどそれがいつまで続くかわからない。だから璃亜夢ちゃんは更に可哀想になるために来たんでしょ? 大黒くんの気が引きたいために」
そうでしょ?
そう言われて、何を言ってるんだこいつは、と思うと同時に血の気が引くような感覚に陥る。
それは、永延の言葉を否定できないことに起因する。
永延の言葉の全てを肯定する気はないが、璃亜夢の中では確かに大黒の気を引きたいという気持ちはあったのだ。
大黒にもっと可哀想だと思われたい。
そしたらもっと世話をやいてもらえるかもしれない。
一緒にいてもらえるかもしれない。
守ってもらえるかもしれない。
そんな打算的な感情があったことに璃亜夢自身気がついていた。
でも改めて言葉にされて指摘されてぞっとしてしまう璃亜夢。そんな彼女を見下ろしながら永延はまるで馬鹿にするように続けた。
「だけどその思惑は成功しないよ」
「え」
かなり呼吸は落ち着き、璃亜夢はさっきよりも自然に声を漏らす。
永延の言葉に璃亜夢は不快に感じる。まさか、この男、大黒に今の話を聞かせるつもりか。だけど大黒のことだ。それでもきっと璃亜夢を『可哀想』と思ってくれるはずだ。きっと見捨てないはずだ。
そんな妙な勝算を璃亜夢は感じていた。
だけど永延は違った。
「璃亜夢ちゃんはわかってないね。大黒くんはそういうのが通用するタイプじゃないでしょ」
「それってどういう」
「俺もちゃんと話したことないから絶対とは言わないけど、大黒くんって『大人』なんだよ、『真人間』って言い換えても良い。ああいうタイプってただ『可哀想』とか『不幸』とかそういうのが通用する人種じゃないよ。璃亜夢ちゃんが泣いて懇願しても裸で誘惑しても絶対落ちないと思うね。試してみたら?」
永延は嬉々として呟く。
今の言葉の意味は、璃亜夢にも理解できなかった。
それはどういう意味なんだ。
璃亜夢が呆然としていると、永延はゆっくりと身体を起こして立ち上がる。
そしてタイルに横たわる璃亜夢を跨ぐと、彼女の濡れた服を乱暴に脱がせ始めた。
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