30:天から蜘蛛の糸に救いはない

 璃亜夢は片手にハンバーグ弁当、もう片手で茉莉花を抱え、昨日の今日で大黒の部屋にお邪魔することになった。

 璃亜夢が借りている部屋にはそもそもテーブルがないし、何より大黒を永延の部屋に上げたくなかった。もし、万が一、永延が訪ねてきた時のことを考えると吐きそうになった。

 大黒は璃亜夢に昨日同様クッションを勧めると、それぞれのお弁当を温める。

 その間に「茉莉花さんはお腹どんな感じかな?」と訊く。


「ホントついさっきミルク上げたところだから、今は大丈夫だと思う……」

 璃亜夢がそう言うと丁度温め終わったハンバーグ弁当を持って大黒が璃亜夢の前に置きつつ「うん、わかった」と頷く。

 湯気が薄っすらと上がる空腹を誘う良い香りに璃亜夢は表情を緩めるが、抱えていた茉莉花が寝返りを打つように動く。抱えたままでは食事もままならないものなのかと璃亜夢は驚く。昨晩は食べている間大黒が抱えてくれていたから大丈夫だったが、どうしたものか。

 璃亜夢が困っているとキッチンから大黒は顔を覗かせ「茉莉花さん、ベッドで寝ててもらう?」と声をかけてくれる。

 その言葉に璃亜夢は驚愕する。


 それはつまりベッドに茉莉花が上がるということ。

 ベッドを使うということ。


 それは璃亜夢がこのアパートに来てから禁止されていたことだった。

 永延は自分のベッドに他人が使うのが許せないと言っていた。男性は皆そういうものなのかと思っていた。

 あんぐりと口を開けて呆けている璃亜夢に大黒は不思議そうに「どうしたの?」と訊く。我に返った璃亜夢は恐る恐るベッドを指差す。


「良いの? 茉莉花を寝かせて」

「? 良いよ?」

「本当に? ベッド汚れない?」

「もしかして茉莉花さんお漏らししてた?」

「してない。さっき替えたから多分大丈夫」

「じゃあどうぞ」

 大黒はそう言いながら自分の分の唐揚げ弁当を持ってやってくる。

 璃亜夢は恐る恐る茉莉花をベッドに寝かせる。一瞬起きるんじゃないかと心配したが、そんなことはなく、茉莉花はぐっすりと眠っていたので安心する。

 その様子を大黒も見ていたが怪訝そうに「何か心配事でもあったの?」と聞きながら弁当のフタを開ける。

 璃亜夢も漸く弁当のフタを開けると少し視線を下げた。


「隣りの部屋は、人に借りてるって話したでしょ? ベッドは使っちゃいけないの。他人が自分のベッドを使うのが嫌って言ってた。男の人ってそういうものかなって思ってたからビックリしただけ」

 そう素直に答えながら、璃亜夢はハンバーグ弁当を食べ始める。

 その呟きに今度は大黒が驚く。

「じゃあ璃亜夢さんは何処で寝てるの?」

「ソファーか床」

 その解答に、大黒は箸で持っていた唐揚げを落として顔をしかめる。そして箸を一旦置くと、カバンから何かの書類のようなものを出してローテーブルに置き璃亜夢の方へと押し出す。

 書類の上には『出生届』と書かれていた。


「一応確認するけど出した?」

「……出してない」

「弁当食べ終わってから渡しに行こうと思ったんだけど、食べ終わったらそれを書いて。あと、役所に付き添うから市の支援を受けられないか相談に行った方が良い。璃亜夢さんの話を全部聞いてるわけじゃないから一概には何とも言えないけど、隣りの部屋主には良い印象を持てないし茉莉花さんと暮らしていくつもりがあるなら、君はあの部屋を出るべきだと思う」

 大黒は真剣な顔で呟く。

 その真っ直ぐな視線に璃亜夢は堪らず視線を下げた。


 大黒は優しく、何処までも真っ直ぐで真面目な人だ。

 その実直さに昨日から救われているが、その真っ白さに璃亜夢は卑屈になってしまうのだ。

 家出して身体を売って来た結果がこれだから。

 後ろめたさしかない。

 支援と言われても……十五歳の娘なんだから家に帰れと言われて終わりではないのか。


 とはいえ、あの部屋を出ることについては真面目に考えなくてはならない。

 璃亜夢としても好い加減永延との縁を切りたいと思っている。


「役所が私みたいなのを支援してくれるなんて到底思えない」

「それは」

「でも、出生届は書く。それは茉莉花にとって大切なものなんでしょ?」

 璃亜夢が問うと、大黒は頷く。


「それがないと、茉莉花さんが生きていく上で凄く困る」


 大黒も一先ず『支援』云々に関しては置いておくことにするようで、今はそれに関して追及はしないようだ。

 璃亜夢は「じゃあ食べ終わったら書くから、書き方教えて欲しい」と頼んだ。

 大黒は「僕も流石に出生届は初めてだからわかるところだけ」と苦笑した。

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