06:審判の足音が聞こえる

 それから璃亜夢りあむにとって地獄のような日々が始まった。

 妊娠。

 その可能性について璃亜夢は露ほども考えていなかった。

 自分はまだ十五歳で、なんだかんだ、世間的には子供で。そんな自分が妊娠するはずがないと何処かで高を括っていた。この数ヶ月、不特定多数の男性に股を開いてきたにも関わらず……。


 その結果が、このザマだった。


 永延ながのぶは、そんな緩みきった璃亜夢に現実という名の爆弾を押し付けてきたのだ。それはもう、導火線に火がついているものを。

 早くどうにかしなくてはならない。

 本当の爆弾なら導火線を切るなり火を消すなりすれば終わるのだが、この現実はそんな安直な行動ではどうにもならなかった。


 自分の腹に、何かがいる。

 その事実は璃亜夢を恐怖させた。

 自分の少し膨らんだ腹の下、皮膚を越えて臓器の中に、それがいるのだ。

 今が、どれだけの大きさなのか到底検討もつかない。

 だって、そもそも妊娠なんて、璃亜夢にとって遠い遠い別世界での出来事のように思っていたのに、まさか自分の身に降りかかるなんてどうして考えられるか。


 誰か助けて。

 そんな言葉が、まるで夜の街灯に集る虫のように、璃亜夢の脳内を飛び交う。

 こういう時、どうしたら良いのか。今まで誰も教えてくれなかった。

 病院の存在はまず出てきた。

 だけどあそこは妊娠を否定するための場所ではない。

 勿論望まない妊娠をしてしまった女性を助ける場所ではあるけれど、大抵の女性は妊娠を喜ぶのだ。

 好きな人との子供を宿せたという、人体の神秘に喜ぶ場所なのだ。

 自分のような人間が赴ける場所ではない。喜びに満ちた女性の表情を見たら、彼女達との感覚の違いが気持ち悪くてきっと吐いてしまうような気がした。


 でもただ何もしないわけにはいかない。

 こいつは璃亜夢の腹の中で、璃亜夢の養分を無断で吸いながら成長しようとしているのだ。

 これ以上でかくなる前に何とかしないといけない。

 璃亜夢の頭の中で、腹に宿ったのが自分と同じ一つの生命だという認識はなかった。


 こいつは敵なのだ。

 自分を内から壊そうと脅かす敵以外の何者ではなかった。

 放っておけば、璃亜夢を肉体的に精神的に食い殺すだろう。

 そう信じて疑わなかった。


 璃亜夢は永延から妊娠の可能性を突き付けられてからというもの、漫画喫茶に引き篭る時間が長くなった。

 何もせず、個別ブースでただ丸まって座るだけの時間。

 どうにかしないと、何とかしないと。

 そう考えるけれどどうしようもない。

 妊娠した時のリセットの仕方なんて存在しないのだ。存在するのは、ただ自分の中で自分ではない生命が生きているという事実だけ。

 ただそれだけ。

 そう思うかもしれない。

 でもその『それだけ』の事実が、璃亜夢の精神を蝕んだ。


 無為な時間が過ぎていく。

 でも漫画喫茶にいる客たちは、大抵、他人のことには無関心だ。その無関心さが、璃亜夢には心地よくもあった。

 店内の音楽に混じって、本のページを捲る音、ネット利用の客がキーボードを叩いたりマウスをクリックする音、客同士の雑音のような話し声。

 すっかり慣れてしまった喧騒に、璃亜夢は埋もれるだけ。


 だけど、不意に、隣りのブースの話し声が聞こえてくる。

 今までなら耳が聞き流す話し声。だけど日増しに精神を病んでいく璃亜夢はその声を拾い、自ら更に精神を痛めつけようとする。

 隣りのブースには、若い女性が二人で使っていた。

 恐らく漫画を読みながら、互いの漫画の内容や感想を話していた。


 すると片方の女性が笑いながら、もう一人に話しかける。

「この妹、酷すぎない? お姉ちゃんに妊娠検査薬買いに行かせるって」

「えっ、何それ。ひどい」

「結局お姉ちゃん、買いに行っちゃうし」

 そんな会話が聞こえてきて、璃亜夢はまるでたった今目が覚めたように身体を起こす。

 妊娠検査薬。

 そもそも、璃亜夢は自分自身の妊娠が確定している事実ではないことを思い出す。

 これは、永延がそう言っていたから信じてしまっただけ。

 検査すれば、もしかしたら勘違いかもしれない。

 これは、ただ本当に体調不良と栄養失調。それで終わりだ。

 璃亜夢は慌てて個別ブースを出ると、今いる漫画喫茶から一番近い薬局へ向かった。


 店に入って目的の棚を探すと、意外にもいくつも妊娠検査薬の種類があった。

 違いなんてわからない璃亜夢は適当にひと箱掴んでレジに行く。

 きっとこういう時、他にも色んなものを買って隠してしまう人も多いのだろう。だけど璃亜夢はそこまで意識が回っていなかった。

 レジで妊娠検査薬だけを買っていこうとする若い女を、中年の女性が訝しむ様に見ていたが、そんな視線を意識できるだけの余裕が璃亜夢にはないのだ。

 早く検査をして、白黒はっきりさせたい。

 妊娠なんかしていないと否定されたかった。

 お前は永延に揶揄われただけなのだと、言って欲しかった。


 急ぎ足で漫画喫茶に戻ると、璃亜夢は女子トイレに駆け込んだ。

 箱の中には細かい字の説明書もあったが、それを確認する時間すら惜しかった。箱の裏に簡略化されて書かれている説明だけを読み、璃亜夢は検査に挑む。

 結果は一分から三分程で出ると書いていた。

 三分出なければ妊娠じゃない。

 妊娠じゃない、妊娠じゃない、妊娠じゃない、私は妊娠なんてしていない。

 そう祈るように、璃亜夢は三分間、女子トイレの個室で過ごした。

 妊娠検査薬をトイレットペーパーの台に置いて、目を瞑って信じてもいない神に願った。

 そしてどれだけの時間が経ったのか。

 一分かもしれないし、一分も経っていないかもしれない。

 だけど璃亜夢には途轍もなく長い時間だった。

 璃亜夢は大きく息を吐くと、ゆっくりと視線を横にあるトイレットペーパーの台へと向ける。

 妊娠検査薬を覗き込む。

 妊娠検査薬には、二つの溝があり、それぞれ横に『終了』と『判定』と書かれている。

『終了』の溝には、縦の線が出ていた。

 そして問題の『判定』の溝。


 そこにも縦の線が出ていた。

 つまり陽性。


 それが事実だった。

 璃亜夢は妊娠検査薬を個室の壁に投げつけると、自分の肩を抱きしめる。

 ああ、誰か、誰か!

 璃亜夢は壁にもたれるとそのままずるずると床に座り込んでしまう。

 信じたくない事実が確定してしまった。

 この腹には自分を揺るがす侵略者がいる。

 助けて、誰か助けて。

「助けて……」

 璃亜夢は誰にも届くことのない叫びを口にすると、女子トレイの個室で涙を流し続けた。

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