02:夜露の冷たさは家よりは辛くない
自分の身体を這いずる硬い感触に、璃亜夢は不愉快な気分で目蓋をあげる。
知らない天井だった。
何処だここは。
そんなことをぼんやり考えている間も、不愉快な感触が璃亜夢を襲う。
ゆっくりと視線を自分の身体に向けると、見知らぬ男が璃亜夢に覆い被さり彼女の腹を舐めていた。
気持ち悪い。
そう思って男を見るがそういえば昨晩、ご飯とかどう、と声をかけてきた男であるのを思い出す。夕飯の駄賃にこの男とホテルに入ったのだ。
璃亜夢はあまりの不快さに身を捩ると、男は漸く彼女が目を覚ましことに気が付いて機嫌良さそうに笑う。
「起きた? もう一回シよ」
「……お腹空いたからもう嫌」
璃亜夢はそう言って男を押し退かそうとする。
だけど男は自分に伸びてきた璃亜夢の手を掴みその指に唇を寄せ舐める。どうやら止める気がないらしい。
さっさと離せよ気持ち悪い。
もう無理にベッドを降りようとしたが、その瞬間、男はまるで見透かしたように笑った。
「ねえ、終わったらご飯食べに行こうよ、奢るから。何食べたいか考えといて」
そう言うと、男の手は璃亜夢の腹から滑るように足の付け根に移動する。
奢るから。
璃亜夢は財布の中に紙幣がないのを思い出すと、男を突き放そうと浮かせていた手をだらりとベッドへ戻した。
あと一回我慢すれば胃袋が満たされる。
不快感より食欲が勝った瞬間だった。
***
ホテルを出られたのはそれから一時間後だった。
一晩一緒に過ごす男によっては、さっさとトンズラするヤツも少なくないが、今日の男は約束を守るタイプらしい。
彼はホテルからそう離れていないファミレスに璃亜夢を連れてくると「好きなもの頼んでいいよ」と笑う。
璃亜夢は遠慮なくハンバーグセットとナポリタンを頼んだ。
昨晩と今朝、連続で食事にありつけるなんて運が良い。最悪もう今日と明日は食べなくて大丈夫だろう。
璃亜夢はやってきたハンバーグセットを遠慮なく食べ始める。
男も同じハンバーグセット、だがこちらはハンバーグが大きい、を食べながら不思議そうに璃亜夢は見る。
「璃亜夢ちゃんってさあ、幾つなの?」
「十八」
嘘、十五歳。
すると男は笑いながら「誘っといて何だけど身体が貧相だから幾つかなって思って」と茶化す。
失礼な言い方だ。
璃亜夢はそう思うが、今は目の前の食事の方が重要だから、黙々とフォークを動かす。
「まあ、でも、家出娘なのは確かだね、ホント誘っといて何だけど」
男は愉快に笑いながらハンバーグを切り分けて食べる。
家を出て、既に三ヶ月が経っていた。
出てくるとき、貯金を全部持ってきたが、世間知らずの娘が何も考えず使っていたらそりゃあすぐになくなる。
だからこうして、夜は身体を差し出す代わりに、夕食と寝る場所を確保しているのだ。たまに家出娘という境遇を哀れんで金をくれるヤツもいる。そういう時は漫画喫茶に泊まり身体を休めることもある。
男とホテルに入るのは正直嫌だった。
たまに暴力を振ってくるヤツもいるから。
でもそんなことより、夜に眠れる場所とシャワーが浴びれるのは有り難いのだ。
夜に璃亜夢のような若い女がウロウロしているともう補導対象だ。
そしたらきっと親を呼ばれ家に帰される。
家に帰るなら、こんな馬鹿みたいな生活を続けている方がマシだと思った。
家には絶対帰りたくない。
あの家のことを考えると、すぐさま母の顔を思い出した。
冷ややかな視線で、璃亜夢を見る母の顔。
「可愛くない」
そう言い放つ彼女を明確に思い出して、思わず奥歯を噛み締める。
……折角のご飯が不味くなる。
璃亜夢は、口の中にはナポリタンと一緒には苦々しい思い出を飲み込む。
思い出も一緒に消化して溶けてしまえば良いのに。
璃亜夢がハンバーグセットとナポリタンを食べ終える頃には、目の前の男も既に食事を終えていた。
彼は「デザートとかも頼んでいいよ」と笑う。
璃亜夢は「流石にもう入んない」と首を横に振った。
「璃亜夢ちゃん可愛いけどもうちょっと肉付き良くなれば俺好みなのに」
「はあ」
「俺が育ててあげようか」
冗談ぽく男は笑うが、正直面白いはずもない。
璃亜夢は水を飲みながら男の言葉を聞き流す。
ほぼ無視の状態だ、流石に男も機嫌を悪くするかと思ったが、男は楽しそうに笑ったままだった。その笑顔が逆に怖い。
「まあ、時間があえばまた遊ぼうよ」
男はそう言うとカバンから名刺を出す。
そこには『
確かに二食も奢ってくれて助かるが、また会いたい男でもなかった。
璃亜夢は「はあ」と気のない返事をする。
だけど永延は財布を出すと、その名刺の上に一万円札を二枚置いた。
その行動に璃亜夢は、思わず一万円札に釘付けになり息を飲んでしまう。
一万円札が二枚。
これだけで一人で眠れる日が数日賄える。
璃亜夢は恐る恐るテーブルの一万円札に手を伸ばす。
だけどその手は、一万円札に辿り着く前に永延に掴まれる。
永延は璃亜夢の手を掴むと、その指に唇を寄せて「ソースの味がする」と笑う。
その光景は朝にも見たもので、璃亜夢は既視感と不快感に襲われるが永延の好きにさせる。
永延は鬱陶しくリップ音を立てて唇を離すと、璃亜夢の手に一万円札と名刺を握らせる。そうして漸く彼女の手を離した。
璃亜夢はゆっくりと手を引き戻す。
今すぐおしぼりで手を拭きたいが、その衝動を我慢して永延を見る。
永延はやっぱり楽しげに笑っている。
何がそんなに楽しいのか。
「じゃあまたね、璃亜夢ちゃん」
永延はそう言うと、伝票を持って席を立つ。
そのまま会計をしてファミレスを出て行く。それを確認して、漸く璃亜夢は握込んでいたままの手を開く。
ぐしゃぐしゃになった名刺と二枚の一万円札。
璃亜夢はそれらと伸ばすと、思い出したように手をおしぼりで拭った。
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