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 天音の意識はそこでぷつりと途切れた。


 不思議と痛みはない。

 即死だと痛みより先に感覚がなくなるのだろうか。

 いや、実際にそうなのだからきっとそういうことなんだろう。

 だとしたら、死ぬ苦しみを味わうことがなかった分、ラッキーだったのかな。

 同じ死ぬなら痛くない方が良いし。

 ……それにしても、ここはどこなんだろう。

 あの世にしては、何もなさ過ぎというか。

 真っ暗な空間。

 自分の姿さえ見ることができない。

 あ、いや。

 死んでいるなら肉体はないわけか。

 だったら明るくても見ることはできないのかな。

 魂の形ってよくわからないけど、それが見えるのだろうか。

 これからどうしたら良いんだろう。

 考える意識はあるのに、どこへ行ったら良いのか。そもそも移動できるのか。

 っていうか、日本で死んだら三途の川を水先案内人とかが導いてくれるんじゃなかったのか。


 遠くから人の歩く音が聞こえてくる。

 一人や二人じゃない。もっと多く、靴音もバラバラでいろいろな人が行き交っている様子が目に浮かぶ。

 靴音に混じってガヤガヤと声も聞こえてくる。

 何かを売っている声? 誰かに呼びかけるような声?

 少なくとも、天音に対してではない。

 それは雑踏としか表現できなかった。

 死後の世界にも街があるとは聞いたことがなかった。

 だが、その雑踏は徐々にではあるが確かに天音に近づいてきていた。

 それとも、天音の意識がそこへ向かっているのか。

 近づくにつれて、天音の意識も強くなっているのか。

 正直うるさいと感じるほどになってきていた。


 その感覚は、死んでいると言えるのだろうか。

 あるいは、まだ生きているのか。


 ただ何となく漠然とした違和感だけが募っていく。


 確かに天音はあの時車に轢かれたと思った。

 だけど、体に何か衝撃が起こるよりも先に意識が途切れたのだ。

 本当に轢かれたのだろうか。

 意識はしっかりしている。どこにも痛みは感じない。

 天音はそこでようやく指先に力が伝わることがわかった。

 今度は意識を頭に集中する。

 まぶたをゆっくりと開くと、暗闇の世界からやっと抜け出せた。

 辺りを目線だけ動かして確認する。

 周りには誰もいない。

 車も、人も。

 というか、そこは天音がよく知る帰り道の交差点ではなかった。

 薄暗い路地……?

 天音のいる路地を囲むのはレンガ造りの古い建物。

 湿ってかび臭い匂いが、この路地があまり人通りのある路地ではないと教えてくれる。

 雑踏は路地の出口、光が差し込んでくる方向から聞こえてきていた。

 ゆっくりと起き上がり、手足を確かめる。

 服装は制服のまま。学校指定の夏服。白のブラウスにグレーのベスト。赤いリボンタイ。紺を基調としたチェックのプリーツスカート。白いソックスには足首の辺りに学校のマークが小さく刺繍されている。革靴は茶色と黒が選べたけど、天音は暦ちゃんと同じ茶色にしていた。

 長いストレートの黒髪もまったく汚れていない。

 痛みを感じなかったのは当然だった。

 体のどこを見回しても傷一つ付いてはいない。それどころか制服だってまったく汚れていない。

 取り敢えず自分の状況が把握できたなら、次はここがどこなのか、だ。

 見覚えのある風景ではない。

 いや……正確にはどこかで見たような風景ではある。

 しかし、現実としてではない。

 アニメや漫画やゲームでよく見たことがあるような……。

 いつまでも路地にいても何かが起こるわけでもない。

 天音は意を決して光の差す方へ歩き出した。

 薄暗い路地から外に出ると、そこは大きな通りになっていた。

 そうは言っても日本の道路のように舗装されているわけではない。

 石畳の道。

 通りに面した建物は店が並んでいる。そのほとんどがレンガ造りの建物だった。

 道の広さはどれくらいだろう。

 唖然としながら見ていると、馬車が右と左からやってきた。

 歩いていた人たちが少し道の脇に避ける。

 馬車は丁度すれ違えるだけの広さがあった。

 いやいや、もはや問題はそんなことだけではない。

 その通りを歩いている人たちの格好だ。

 甲冑姿の戦士や黒いローブを身に纏ったいかにもな魔道士。そして、ゆったりとした服装に身を包んだ商人のような人が馬車に揺られている。

 中世ヨーロッパ風のファンタジー世界そのもののよう。

 興奮と感動が一遍に押し寄せてくる。

 だってこれは、この世界は、天音が妄想して止まなかった世界。

 アニメとかゲームで擬似的に体験することはあっても、決して現実として体験することなんてありえない。

 それとも、死ぬ直前に見ている夢なのだろうか。

 これほどの現実感を前に、天音はまだ自分が死んでいるのではないかという疑いを排除することができなかった。

 取り敢えず、ここでボーッと見ていても仕方がない。

 天音はその街を見て回ることにした。

 どうやら大きな通りは左側通行になっているみたい。

 人の流れに任せて、左側へ向かう。

 天音の格好はこの世界ではかなり浮いていた。

 ただ、道を行き交う人々は多く、誰も天音のことなど気にしてはいない。

 この街は結構大きな街なのかも知れない。

 日本だって田舎だと奇抜な格好をしてると目立つけど、東京じゃたいして目を惹くことはない。

 その通りに並ぶお店は、それほど地球とかけ離れた店ばかりではなかった。

 八百屋に果物屋に肉屋。

 どうやら、この辺りは食品を取り扱っている店が多いみたい。

 さらに進むと色とりどりの飴細工がショーウィンドウに飾られたお菓子屋、子供服を取り扱う店などが並ぶ。

 きっとこの辺りは子供のための店が並んでいるんだろう。

 その次は何となく想像が付く。

 思った通り、大人のための服屋が続いていた。

 そのさらに先、地球ではあまりなじみはないが、天音はよく見たことがある店が並んでいた。

 甲冑や盾やマントなどがショーウィンドウに飾られた、ゲームの防具屋そのもの。

 そして、その隣には剣や槍や弓が飾られた、武器屋。

 その隣には杖や本が飾られている。……一見何を売っているのか判断が難しいところだけど、多分お店の並びから考えると魔道士関係のものを取り扱っているんだろう。

 その通りの最後のお店にはガラスの小瓶に緑の液体が入った飲み物? のようなものや同じ小瓶に黄色い液体が入った飲み物? のようなものがいくつも並べられていた。

 天音たちの世界だと香水の入った瓶に見えるが、もっと実用的なものだろう。

 ゲームをよく遊んでいる人じゃないと理解できないと思う。

 いわゆる体力回復薬的な物なんじゃないかと思った。

 商店街の端まで来ると、さらに大きな十字路にぶつかった。

 今度は馬車が四台ほど通れそう。

 商店街の通りを大通りだと思っていたが、こっちが大通りと呼ぶに相応しい。

 ここもやはり左側通行なので、流れに任せるとそっちに進むことになる。

 しかし、左側を見るとその先は大きな門が見えた。きっとこの街の外へ続いている。

 そして、右側を見ると大きな城が見えた。

 商店街の通りを振り返ると少しカーブしているように気がついた。

 何となく、この街の全体像が見えてくる。

 城を中心に大通りが外に向かっていて、放射状かあるいは円形に街が広がっている。

 せっかくだから城を近くで見てみたい。

 天音は通りを渡ってから右側へ向かった。

 城へ歩いて向かっている人は少ない。

 ほとんど馬車で城へ向かっていた。

 商店街の通りから歩くこと十分。やっと城壁の門まで来た。

 門の広さは馬車二台がすれ違えるほど。

 開けっぱなしになっていて、馬車がひっきりなしに行き交っている。

 槍を持った門番が八人くらいいて、馬車に乗っている人が出す紙切れのようなものに目を通してから門の中へ入れていた。

 通行許可書とかだろうか。

 ゲームとかと違って誰でも入れるわけではないらしい。

 とはいえ、城の大きさは城壁の外からでもうかがい知れる。

 白を基調とした壁に緑色の屋根。先の尖った塔のような建物がいくつか重なっている。

 天音の世界で考えるなら、十五階建てのマンションくらい高いだろうか。


 ……さて、これからどうしよう。


 ファンタジー世界に来たことに興奮して思わずいろいろ見学させてもらったが、そろそろ現実的な問題から目を逸らすことができなくなってきた。

 まず、考えなければならないこと。

 それは天音が生きているのか死んでいるのか。

 これについては、さすがに自分の体のことだからもう結論は出ていた。

 心臓の鼓動や手足の感覚、歩き回ったことで得られた疲労感から生きているのだと実感させられていた。

 そして、この世界について。

 夢や幻などではない。いくらヴァーチャルリアリティが進んだ天音の世界でも、この圧倒的な存在感を表現する機械なんて存在しない。

 ここは現実に存在するファンタジー世界。もちろん、地球上にもその歴史上にもこんな世界が存在した記憶も記録もないわけだから、どこか別の……つまりは異世界ってことになる。

 ――総合的に判断すると、天音は流行りの異世界転生をしてしまったのだろうか。

 だとしたら、外見とか能力が特別な仕様になってないと納得がいかない。

 どう見ても、地球にいた頃と同じ。

 表情を隠すための前髪の長い黒髪はろくに手入れしていないまま。背も小さく、地味で目立たない容姿。

 何度見ても変わりはない。

 それなら中身は、と思いたいところだが、これといって運動神経がよくなったようには見えないし、魔法が使えるようにもなっていない。というか、使い方がわからないのだからそれを確認することすらできないのだが。

 そして、最大の問題は――。

 どうやって元の世界に帰ったらいいのか。

 いやそもそも、どうやってこの世界に来たのか。

 気がついたらこの世界にいたわけで、その方法はわかるわけがない。

 もし仮に、車に轢かれそうになったことが原因なら、馬車に轢かれそうになったら帰れるのか。

 とても試してみる気にはならなかった。

 間違えたら死んでしまうようなことはそう簡単にはできない。

 あるいは、この世界に魔法が存在するなら、魔法で元の世界に帰れたりしないだろうか。

 もし可能だったとしても天音にその魔法が使えるとも限らない。使える魔道士がいたとしても無料で天音のために使ってくれるなんてことがあるだろうか。

 何をするにしても、情報も金もなければ身動きなんて取れるはずはなかった。

 問題はそれだけじゃない。

 すでに日が傾きかけている。

 地球の日本だって夜に女が一人歩きするのは危険なのに、よく知りもしない異世界で夜を無事に過ごせる自信はなかった。

 行き場もなく、取り敢えず天音は自分がこの世界に現れた場所へ戻った。

 商店街の通りの路地裏。

 しかし、そこに戻っても何かがあるわけでもなく、ただ途方に暮れるしかなかった。

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