第一章 異世界転生!?

1

「照日天音」

「……はい」

 担任にして数学の教師である尾山先生に呼ばれ、天音は気付かれないようなため息交じりに返事をした。

 今日の授業はいつもほど退屈ではない。

 ――だけど、ある意味ではそれ以上に憂鬱だった。

 教壇で待ち構えている先生の前に行く道すがら、クラスメイトたちも天音と似たような表情をしていた。

 何人かは喜んでいる。

 天音もそうだったらいいなと思う反面、きっとそうはなれないだろうと予想できた。

「ほら」

 そういって差し出されたのはテストの答案用紙。

 ぱっと見だと丸が多いような気がする。

「中間テストの時よりは、まあ……よくはなってるが、油断はするなよ」

「はぁ……」

 先生の言葉に肯定とも否定とも取れない曖昧な返事をして自分の机に戻った。

 中間テストは五十五点だった。そして、今回の期末テストは六十点。

 先生の言う通り点数だけ見れば確かによくなっている。

 ただ、平均点は前回が五十五点で今回は六十点。

 つまり、順位はまったく変わらない。平均点そのもの。

 まるで個性の乏しい天音の人間性を表しているかのような点数だった。

「ねえ、天音ちゃん。ため息漏れてますよ」

 椅子に座って机に置いたテスト用紙を眺めていると、後ろから肩をちょんちょんと叩かれた。

 天音の後ろの席に座っているのは中学の時からの友達――月永暦ちゃん。

 眼鏡に三つ編みお下げ。天音と同じで背も低く地味であまり目立たない。

 テストを持って振り返る。

「そりゃ、私は暦ちゃんと違ってこの点数だからね。ため息も出るわ」

「え? あ、でも中間の時より良いじゃないですか」

「……それって、あまりフォローになってないよ」

「……ごめんなさい。ちょっと見せてもらって良いですか?」

 天音が平均点しか取れていないと言うことからすぐに暦ちゃんは失言の意味に気がついた。

「……ここ、計算ミスしてますね。……それからこっちも。解き方はあってるのに、イージーミスで損してます」

「別に、テストの時焦ってるわけじゃないんだけどね。前回も似たようなミスがあったし、今回は三回も確認してたのに気がつけなかった」

「う~ん。こればっかりは天音ちゃんが気をつけるしかありませんから。私からアドバイスできることじゃないですね」

「うん、わかってる。ところで、暦ちゃんは何点だったの?」

「数学はちょっと苦手なので、九十五点です。記号書き間違えてしまって……」

 肩をすくめてそう答えた。

「それじゃ、私のミスとたいして変わらないじゃない」

「それもそうですね。自分のことを棚に上げて何か言える立場じゃありませんでした」

 クスクスと笑いあう。

「まあそれでもさらっとそういう点数取れちゃうってのは凄いけどさ」

「いいえ。たいしたことじゃありません。ちゃんと予習と復習をしていれば誰だってこれくらいのことはできます」

 その事を苦痛だと思わずできると言うことが暦ちゃんが成績優秀であるゆえんだと思った。

 天音にとって勉強は退屈で面倒な時間だった。そんなことに使う時間があったらもっと有意義なことに使いたいが、天音の妄想癖もとても有意義な時間の使い方とは言えなかった。

 暦ちゃんは中学の頃からテストの総合順位で十番から落ちたことはない。

 ただ、不思議なことに一番になったことはなかった。

 一度暦ちゃんに一番を目指さないのか、悔しくないのかなと思って聞いてみたことがあった。

 暦ちゃんは一番に立つような人たちは自分とは違うと言っていて、あまり気にしてはいなかった。

 天音にとってはどちらも雲の上のようなものだけど。

「そういえば、今年の夏休みは何か予定立ててるんですか?」

 暦ちゃんは天音にテスト用紙を返しながら聞いてきた。

「ううん、特には」

 天音は部活に入っていない。暦ちゃんも同じく帰宅部だった。

 だから去年の夏休みは一緒に遊ぶことが多かった。

 高校ではまだ友達もあまりできていなかったこともあって、お互い他に誘う相手もいない。

 この様子だと今年も去年と同じような夏休みになりそう。

「それじゃ、一緒にお祭り行きましょう」

「やっぱり、去年と同じ過ごし方になりそう」

「……嫌ですか?」

 ボソッとつぶやいたつもりだったけど、暦ちゃんには聞こえてしまったみたい。

「そういう意味じゃないの。ただ、代わり映えのない毎日ってやっぱり退屈だから」

「そりゃ、現実は天音ちゃんが想像しているような冒険なんて起こりませんから」

 暦ちゃんは天音が授業中に机に出している二冊目のノートとそれに書かれている妄想についてよく知っている。

 想像と表現してくれたのはせめてもの配慮だろう。

 自分でもあれが自分にとってご都合主義的な妄想だと理解はしている。

「勉強が好きな暦ちゃんが羨ましいわ。学校にいる限り退屈なんてしないでしょ」

「そうでもないですよ。体育の授業がある日は憂鬱です」

 そういえば、成績優秀な暦ちゃんにも一つだけ弱点があったっけ。

 体育というかスポーツ全般が苦手。運動神経がそもそもよくないらしい。

 体格は天音とたいして変わらないからそこに差があるわけではない。

 努力家の暦ちゃんなら努力で乗り越えるのかと思いきや、勉強と違って予習も復習も効果がなかったと言って早々に諦めてしまった。

「つまらないことを聞いたわね。取り敢えず、お祭りね。いつだったっけ?」

 テストの返却が終わってせっかく楽しい夏休みの話をしているのに暗くなるような話をするのもバカバカしい。天音は無理矢理話を戻した。

「確か来週の日曜日じゃなかったか」

 答えたのは暦ちゃんじゃなかった。

 テストを受け取って席に戻った男子が天音の話に割り込んできたのだ。そしてそのまま天音の右前の席に座る。

 彼の名前は佐野孝史(たかし)。天音はちょっと苦手なタイプの男子だった。

 短めの黒髪は手入れなどしていない。身長は百七十センチを超えていて引き締まっている。おまけに日焼けした肌が佐野君がスポーツマンであることをよく表している。がさつだけど、明るく誰とでも分け隔てなく話すのでクラスの人気者だった。

「お前ら二人で行くのか?」

「佐野、どうしたんだよ」

 天音が答えに困っていると、佐野君の友達が佐野君の席に集まり始めた。

「いや、何か女子二人で祭りに行くっていってるから、俺らも一緒じゃダメかなーって」

「え……」

 何がどうしてそういう話になるのか。嫌だと言いたかったが、言えるはずはなかった。

「そりゃ俺たちも行く約束はしてたけどさ、野川(のがわ)さんたちのグループと行く約束だっただろ」

「だから、その中にもう二人くらい一緒でも良いじゃねーかってことだよ」

 こっちが答えてもいないのに佐野君たちのグループが勝手に盛り上がっている。

「あの、佐野君」

「え、あ、何?」

 凛とした声ではっきりと暦ちゃんが盛り上がる佐野君たちの話を遮った。

「私たち二人で行く約束をしてますから。一緒に行くつもりはありませんよ」

 丁寧だけどきっぱりと断ってくれた。

「おーい、注目!」

 テストを全て返し終えた先生が手を叩いてクラス全員に呼びかける。

 佐野君は何か言いたそうだったけど、さすがに何も言える状況ではなかった。

 佐野君の友達も皆一斉に自分の席へと戻った。

「これで一学期も残すところあとわずかになったわけだが、二学期には選択授業が始まる。今年の夏休みはただ遊ぶだけじゃなくて、自分の将来や進路についてよく考えておくんだぞ」

 尾山先生はテストを返している間に天音たちが夏休みの話題で盛り上がっていたことをちゃんと聞いていた。

 その上で本気で釘を刺してきた。

 選択授業と言われても天音はまったく考えていなかった。

 そもそも天音が平均点しか取れないのは数学に限った話じゃない。

 体育まで含めて全ての教科で平均点しか取れなかった。

 得意だと言える教科も、不得意だと言える教科もない。

 かといって、好きな教科も嫌いな教科もない。

 しいてあげるなら、勉強そのものが退屈だと言うこと。

 これでどの選択授業を選べばいいのかなんて判断できるはずがなかった。

 進路だって同じ。

 授業中に妄想に耽っているのに、将来何になりたいかなんて考えているわけなかった。

 それこそ、異世界から悪魔でもやってきて天音が何か特別な力にでも目覚めたらすぐにでも自分のやるべきことが決まる。

 ……なんて考えている時点でこの問題は片付くはずはなかった。

 ただ――一つだけ。

 どんな道を進むにしても暦ちゃんと離れたくないとは思っていた。


 夏休みの前日。

 学校は終業式と通知表を配るだけで終わり。

 部活に入っている生徒はこれから弁当を食べて部活らしいが、天音と暦ちゃんには関係のない話だった。

 だから天音はいつもと同じように暦ちゃんと帰る。

 高校から最寄りの駅までは十分くらい歩く。

 終業式の日だからと言っても、特に変わりはない。いつものように人通りはまばらだった。

「ねえ、通知表はやっぱり体育以外はオール五だった?」

「え? ああ、はい」

 何だろう。歯切れが悪い。

 天音の成績も聞かれるかと思っていたのに、それで話が途切れてしまった。

 まあ、聞かれても毎回同じ。オール三なんだけど。

 聞く必要がないという意味なら、わからなくもない。

 暦ちゃんとは中学一年生の時に一緒のクラスになってもう五年。

 クラス替えや高校受験もあったのに一度も暦ちゃんと違うクラスになったことはなかった。

 だから、もうお互いのことはだいたいわかっている。

 こういう、考え事をしているときの暦ちゃんの邪魔はあまりしたくない。

 天音たちの地元は電車で二駅先。

 何人か同じ制服を着ている見知らぬ生徒と一緒に降りる。

 改札を出てもまだ考え事を続けている暦ちゃんを引っ張って天音は帰り道へ向かった。

 駅から天音の家までは二十分くらい。

 その途中にあるマンションが暦ちゃんの家だから、そこまでは一緒だった。

 とはいえ、今日はとても話しかけられる雰囲気じゃなさそうだけど。

 駅から真っ直ぐに進むとちょっとした坂にぶつかる。

 その左手に十階建てのマンションがある。

 さすがに黙ったまま別れるのも悪いと思ったので、一応挨拶だけはしておくことにした。

「暦ちゃん。私こっちだから、またね。お祭りの日じゃなくても遊びに行くから」

「天音ちゃん!」

「へ?」

 暦ちゃんに背を向けた途端、急に大きな声で呼び止められた。

「ど、どうしたの?」

「あの……進路のことどう考えていますか?」

 ずいぶん深刻に考えていると思ったら、そんな事かと思った。だって、文系も理系も選び放題の暦ちゃんが迷うことなんてないと思ってた。

 それとも、ある意味天音とは逆に選び放題だから選べないのかも。だったら贅沢な悩みだ。

「進路って、二学期の選択授業のこと?」

「はい」

「特に決めてないけど、強いていうなら暦ちゃんと同じコースに行こうかなって思ってる」

「……天音ちゃん、それは多分……難しいと思います」

「え?」

「私は将来誰かの役に立つ人になりたいと思ってます。私の能力で誰かの役に立つにはどう使うのが一番有効なのか。医者になって病気で苦しんでいる人を助けるのか、あるいは弁護士になって困っている人を助けるのか。いずれにしても――」

 暦ちゃんは少しだけ悲しそうに言葉を続けた。

「天音ちゃんは自分の進むべき道を自分で考えるべきだと思います」

 何か言葉を返す余地もないほどの正論だった。

 そもそも暦ちゃんは常に学年の十位をキープする成績の持ち主で、高校よりもさらに成績で選定される大学まで一緒のはずはなかった。

 もし、暦ちゃんが天音に合わせて大学のレベルを下げるようなことがあったら、それは止めなければならない。

 天音は暦ちゃんに言われるまで、そんな大事なことにさえ気がついていなかった。

 暦ちゃんの能力は確かにこの世界のどこでも活躍できるほどのものだろう。

 平均点しか取れない天音のような人間とは違う。

「……あははっ……やだなぁ、冗談だって。私だって自分のことはよくわかってるから。そんなことより、人のことを気にしすぎて成績落としたりしないでよ」

「……ええ」

「それじゃ、お祭りは一緒に行くってことで良いんだよね」

「はい」

「迎えに行くから。時間とかは後でライン送るね」

 天音はそう一方的に言って今度こそ暦ちゃんに背を向けた。

 ここから自分の家に帰るには坂を下りていかなければならない。

 坂の上のマンションに入っていく暦ちゃんと、そこで別れて坂の下へ降りていく自分の姿が、まるでこの先の自分たちの関係を表しているようで寂しかった。

 坂を下りると十字路にぶつかる。

 信号がある交差点だけど坂になっていて見通しが悪いのか、一年に三回くらいは事故が起こる場所だった。

 車の急ブレーキを踏む音が響く。

 ああ、また事故でも起こるのかなと思った。

 音のする方をゆっくりと見上げる。

 黒い車体が滑りながら天音に向かってきていた。

 一瞬、何が起こったのか理解できなかった。

 逃げなければ、運転手は何をやっているのか、自分は今どこにいるのか。

 天音の視界に入った信号機は車が通っている方向が青になっていた。

 ――つまり、天音は気付かずに赤信号の交差点へ進入していたのだ。

 世界の全てがスロー再生のように流れていく。

 運転手は天音の姿に驚きながらも必死にハンドルを回していた。

 天音もただそれを見ていただけではない。

 何とか車の方向から逃げようとする。

 少しでも身軽になろうと、持っていた鞄を放り投げた。

 だけど、全てがスローの世界では天音の体だけが特別に速く動けるわけではない。

 車のブレーキ音だけが無慈悲に鳴り響く。

 タイヤが道路で摩擦を起こし、焦げるような匂いが立ち込める。

 天音はそこで悟った。

 この絶望的な状況から逃れる術はない。

「ごめん、暦ちゃん。お祭り……一緒に行けないや」

 それを直接伝えられないことだけが、心残りだった。

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