第87話 逃げた先に自由はない

 放たれた一発の弾丸は、俺の目の前でオズの身体を貫いた。

 ドサリと音を立てて、小さな体躯が地面に横たわる。


「……死んでは、いないか」


 弾丸はオズの脇腹を貫いていた。即死する傷ではないが、出血が激しい。オズはもう動けないだろう。


 遠くで隠れていたミゼに視線を注ぐ。

 ミゼは無言で頷き、BF28を抱えながらこちらへ近づいた。


「……わかんないよ」


 足元でオズが呻く。


「どうして28は、こんな風になっちゃったの……?」


「……さぁな」


 これでも機関のエースと呼ばれていた人間だ。

 その俺が、度重なる命令違反に、同僚との殺し合いまでしてみせた。オズが疑問に思うのも無理はない。


 ただ、悪い気分ではなかった。

 それだけは堂々と告げることができる。


 その時、ブブブとオズの傍で何かの震動する音が聞こえた。

 オズの外套から一枚の『通信紙』を取り出す。

 着信が入っている。


『いつまで続けるつもり?』


 耳元にあてた『通信紙』から、クリスの声が聞こえた。


『分かってはいるでしょうけれど、追い詰められたのは貴方たちの方よ。移動手段を失った貴方たちは、これから今まで以上に過酷な逃避行を強いられる。……貴方一人ならなんとかなるかもしれない。でも、殿下はどうでしょうね』


 反論の余地がない警告だった。


『仮に共和国まで逃げたとして……まさかそれで平和な日々を得られるとでも思っているの? 《叡智の道》は強力な魔法よ。殿下をただの人間として扱う国は、この世界の何処にも存在しない。逃げたところで、きっとまた同じことが――』


「――分かっている」


 クリスの言葉を遮って言う。


「そんなこと、とっくに分かっている」


 クリスとの通信を切断し、『通信紙』を足元に捨てた。

 オズは既に気を失っている。このまま放置すれば出血多量で死に至るが、先程の通信のタイミングから察するに、恐らく近くでクリスが待機しているのだろう。応急処置は彼女に任せればいい。


「トゥエイトさん……」


 ミゼが、不安気な顔で俺を見つめた。

 馬車を破壊され、荷台に載せていた食糧と薬も全て失った。

 ミゼだけでなく俺も体力の限界が近い。オズとの戦闘で心身ともに疲弊している。

 それでも、足を止めるわけにはいかない。


「……行こう」


 何処へ? とは、訊かれなかった。




 ◆




 王国を出た辺りから、薄々気づいていた。

 この逃避行が、無茶であることくらい。


 オズとの戦いが終わってから数日が経過した。

 地平線の彼方まで見える広い荒野を、もうずっと歩き続けている。水もなければ食糧もない。頭上から降り注ぐ陽光は暑苦しく、無慈悲に体力を奪っていった。


「……ミゼ、大丈夫か」


「……はい」


 殆ど飲まず食わずで歩き続けていると、次第に口数も減った。

 覚束無い足取りで、時折何もないところで躓きながら、俺たちは何処かへ向かう。


「……これを食え」


 地面を這っていた小さな蜥蜴を仕留め、串刺しにしたものをミゼに渡す。

 

「……いただきます」


 焚き火で蜥蜴を焼いた後、最低限の言葉だけを発してミゼが食事を始める。

 無言で肉を咀嚼するミゼの様子を暫く眺めた後、俺は手に持っている木の枝に、焚き火の炎を移してからその場から離れた。

 そして、岩陰に隠していた動物の死骸へ手を伸ばす。


 死骸に肉は残っていない。既に腐食も進んでおり、食べることは不可能だ。

 しかし、その死骸には大量の蛆虫が沸いていた。

 これを炙って、口に入れる。


 まだ体力は、俺の方が残っている。

 食糧はミゼに優先して回すべきだ――そう思った時。


 いつの間にか背後にいたミゼが、俺の掌から炙った蛆虫を奪い、口に入れた。


「ミゼ……」


「私だけ、楽をするわけにはいきません」


 そう言ってミゼは、半分ほど残った蜥蜴の肉を俺に差し出す。

 俺は皮ごと蜥蜴を噛み千切り、咀嚼しながら未来のことを考えた。


 ――こんな生活を、いつまで続ければいいんだろうか。


 言葉には出さず頭の中だけで呟く。


 分かっていたことだ。

 何処かへ逃げたところで、王国は永遠に俺たちのことを追い続ける。


 それでも、あの時。

 ミゼを連れて国を出たのは、このままじゃ駄目だと思ったからだ。


 あの時の選択はきっと間違っていないだろう。

 俺がミゼを連れ出さなければ、今頃ミゼは暗殺されていた。だから、あの選択に後悔はない。


 ――逃げるしか、なかった。


 あの時も、そして今も。

 たとえ希望が見えなかったとしても、俺たちには逃げ続けることしかできなかった。

 だがそれも――。


「……限界だ」


 俺も、ミゼも、体力の限界だ。

 石ころの模様が子供の顔に見える。風の音が赤ん坊の泣き声に聞こえる。

 幻覚と幻聴に意識を持っていかれたら終わりだ。失った正気を取り戻す体力はない。


 その時。隣を歩いていたミゼが、唐突に倒れた。


「ミゼ……?」


 ゆっくりと屈み体調を確認しようとすると、ミゼが両手で俺の顔を挟む。


「トゥエイトさん……もっと、もっと遠くへ、逃げましょう」


「……ああ」


「誰も知らないような、自由で、穏やかな場所へ……二人で、どこまでも、一緒に……」


 頼りなく笑うミゼに俺は唇を引き結んだ。

 今、確信した。


 ――逃げた先に自由はない。


 たとえ敵から逃げることはできても、襲われるという不安からは逃げられないのだ。

 それを……漸く理解した。


「逃げるのは……もう止めだ」


 ミゼを背負いながら呟く。

 エリシアを救った時、日常とは帰るべき場所なんだと気づいた筈だ。

 ならば、これが……この状況が、本当にその帰るべき場所なのか?


 ――違う。


 友と別れた。仲間を撃った。

 そんな日々が、俺たちの帰るべき場所なのか?


 ――断じて違う。


 そんな日々を帰るべき場所だとは思いたくない。

 俺もミゼも、そんな毎日を求めているわけではないのだ。


「どこかで、立ち向かわなくてはならない」


 倒れたミゼを岩陰に運び、そっと寝かせながら言う。


「自由は……堂々と、勝ち取らなければならない」


 水の入った小さな革袋と、蜥蜴の死体を幾つかミゼの傍に置いておく。

 立ち上がる俺を、ミゼは泣き出しそうな目で見ていた。


「何処へ、行くんですか……?」


「……ここで暫く待っていてくれ」


 もし俺が帰ってこなければ――という言葉は、飲み込んだ。

 俺が帰ってこなければミゼは死ぬだろう。その責任を放棄する気はない。


 頭の中で付近の地図を思い浮かべる。

 ここから共和国まで歩くには、あと十日ほどかかる。しかしアルケディア王国の都市は目と鼻の先だ。


 何もない荒野を早足で一時間ほど歩く。

 暑苦しい中、甲冑を纏った二人組の男を発見した。


「アルケディア王国の軍人だな?」 


「なんだ、貴様は?」


 今にも倒れそうな俺を、男の一人が怪訝な目で見た。


「ん? 待て。その見た目、何処かで……」


「お、おい。そいつ、まさか指名手配中の……」


 男たちが次第に困惑する。

 そんな二人の目の前で、俺は両手を挙げた。


「降伏だ。俺を……王のもとへ連れて行け」

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