4 犬槐(マーキア)
第9話 「あとちょっとだけ。だめ?」
先輩がキス魔だなんて、知らなかった。
集中講義がはじまって、授業は終わったのに大学に通う日が続いた。
所属しているゼミの希望参加者のみで行われるもので、大体朝から夕方まで。お盆の帰省前に行われる、毎年恒例のものだ。
先輩は塾講師のバイトをしているから、受験生向けの講義が増えて忙しい。特に夜の講義にはいっているため、先輩の家に気軽に行く時間はなくなった。
それでも約束の『電話』は毎晩しているし、時間があえばバイト前に講義終わりの僕と合流して一緒に食堂で夕食をとったりしている。
そうやって少しでも一緒にいる時間があるだけで、とても嬉しいしくてたまらない。
だけど、それはそれとして、困っていることも、ある。
授業がなくても、大学付属の図書館はそこそこ人がいる。
それは院生が詰めて研究していたり、単純に涼しいから図書館に来ている人がいるとかそういう理由だ。
メッセージには『三階の奥、72番の棚あたり』としか書かれてなかった。図書館が自分の学部棟から近くてよかったと思いながら、ゼミを終えて図書館内にはいってまっすぐ階段へ向かう。一階には勉強する人用の机があるから人の気配はあるが、上にいくほどだんだんと静かになる。
三階にたどり着いたとき、緊張から癖で左耳のピアスを触ろうとして、やめる。
三階は専門書ばかりで、試験期間ならまだしも今はほとんど人がいない。それでも手前側の書架には何人がいるようだけど、奥へと進むほど、それもなくなる。
一番奥の棚のちょっと手前。72番の書架のあいだをのぞきこむ。
周りに人はいなくても、図書館というだけで声をひそめてしまう。
「あおばせんぱい」
先輩は棚にもたれて、埃がかぶってないのが不思議なくらい古そうな本を読んでいた。
黒のVネックシャツに、スト―レトのグレーのボトムス。深めの紺色のスリッポン。アクセサリーもなにもない、シンプルな恰好なのにスタイルのいい先輩が着るとさまになる。
本を閉じた先輩はこっちを見て静かに笑う。
「おつかれ」
先輩も図書館の空気に合わせて小さい声で答える。
僕はそっと近づいて先輩が持っている本を覗き込む。
「なに読んでたんですか?」
「んー、なんかフランス語でかかれてる……なんか」
「なんですかそれ」
「俺もわかんない、読めないし」
静かな会話をかわしながら先輩は子どもみたいに笑って本を棚に戻す。
「今日の飲み会はこれそうなんですよね」
「バイト終わりだから途中からになるけどな。終わったら急いで行く」
今晩は久々に映研の飲み会がある。試験終わりと、合宿前ということで結構な人数が集まる。なので宅飲みではなくて、居酒屋を予約しての飲み会だ。
僕は今日はなにもないから最初からの参加だ。
ふっと沈黙が訪れる。
周りが見えない背の高い書架。他に誰も人がいないのではないかと思うほど静かすぎる空間。
たぶん、きっと今までなら逃げていたシチュエーション。実際いまだって、逃げたくなる衝動に襲われて、身体もひるみそうになる。
それなのに動けないのは、青葉先輩が動かないまま、ずっと僕のことを見ているから。
きっと、これから起こるだろうことは、人気のない図書館の奥に呼ばれた時点で予想がついていた。それを拒まなかったのは、慣れたというよりも、浅ましくても欲望を律しきれない心のせいだろう。
先輩が僕のほうに足を踏みだす。反射的に後ろに下がろうとしたら背中が本棚にぶつかった。
そのまま先輩は僕の顔の横に手をついて、ゆっくりと身をかがめる。
少しずつ視界に大きく広がっていく先輩の顔。長い睫毛までよく見えて。ほんの少し斜めに角度をかえて、前髪があたりそうになるころにぐっと目をつむった。
くちびるに感じる、先輩の唇。
薄くて、でも柔らかい。
すこしミントの香りがする唇でぼくのくちびるの形を確かめるようにゆっくりと食んで、軽く触れる。
こうやってキスをされるのは、はじめてキスされてから何度かあった。
それは例えば一瞬訪れた部屋で。誰もない学部棟の隅で。周りに誰もいない帰り道で。
機会があればキスをしかけてくる先輩に驚いた。先輩はキス魔なのかと本気で思うくらいには。
けれど正直、青葉先輩との唇をふれあわせるキスは脳内が溶けそうなくらい気持ちよくて何も考えられなくなる。
そのままただ唇同士を重ね合わせてふれあわせているだけだったら困らないかもしれない。
問題はここからだった。
先輩の左手は僕を閉じ込めるように本棚に手をついたまま、もう一つの手で、僕の左耳を触りだす。それに身体が過剰にびくっと反応するとその隙をついて先輩の舌が僕の口の中にはいってきた。
あたたかくて、やわらかくて、弾力のある液体をまぜあわせるように、先輩の舌が僕の舌をからめとる。
骨も歯もまるで感じさせない、ひたすらやわらかい粘膜のふれあい。何度も絡み合わせれば、柔らかいもの同士がひとつになるんじゃないかと考えているような動き。
それに合わせて、先輩は僕の左耳のピアスの輪郭を指でなぞる。
問題のひとつがこれだった。
先輩は僕と、いわゆる、深いキスをするとき、いつも僕のピアスを触る。先輩自身が僕に着けてくれた、深くて赤いピアス。
耳たぶの外側の輪郭を上から下へたどっていって、ゆっくりとピアスの裏側をくすぐるように触る。
その間もずっと口の中では、尖らせた舌先で敏感な歯のつけ根を沿うようにして舐めて、それを堪能したらまた舌を絡まされる。
僕はいつもこの時、どうしたらいいかわからない。体重を後ろの本棚にあずけて、弱く先輩のシャツの裾をきゅっと握るくらいしかできない。
先輩がキスするたびに僕のピアスを触るから。最近は、パブロフの犬のように、自分で自分のピアスを触るだけで先輩とのキスを思い出してしまうようになった。そのたびに顔が赤くなったり恥ずかしくなったりしてさんざんだ。
そうなることを狙っているように先輩はことさら僕の口の中を味わうように動くのと連動してピアスと耳を丁寧に触れる。
それでもそれをやめてほしいなんて言えない。お互いの粘膜が重なって、唾液が混ざり合って、もうミントの香りは消えている。ただ薄くて柔らかい舌と唇に与えられる感覚に支配されて、身体の力が抜けてく。激しくも、荒々しくもないのに、ゆっくりと時間をかけて口の中から先輩に侵蝕されていく感覚。どんどん頭がふわふわしてくる。先輩の唾液に麻酔の成分でもはいってるのかな、ってばかみたいなことを思いつくくらいには。
わずかな羞恥よりも先輩が与えてくれるものを少しでも感じたくて、神経を口内に集中させる。先輩の舌が器用に僕の舌の裏側をくすぐって、思わず息がもれそうになる。
その反応に気づいたのか、先輩は楽しそうに耳たぶをひっかくようにくすぐる。唇に集中していた神経が急な耳への刺激に敏感に反応して体が揺れる。するともっとと言わんばかりに先輩の舌が僕の上顎をかすめていく。
その感触に、自分のすべてをゆだねてしまいそうになるところで、残った理性のひとかけらがブレーキをかける。
与えられる刺激に、勝手に熱くなっていく自分の体、特に腰回りに熱が集まりはじめるのを感じて、僕は慌てるようにつかんでいたシャツを引っ張った。
問題のもう一つはこれ。
先輩とのキスは、うれしくて、本当に自分が甘受していいのかと思えるほどだけど、素直に反応する身体までは制御できない。
こんなところで、という以上に、そうしたあからさまに反応する自分の醜い欲を見られたくなくて、兆候が表れそうになったらストップをかける。
引っ張られて、暗に止められたことに気づいた先輩が唇を離す。
けれどその距離は眼鏡があったらぶつかるんじゃないか、というくらいに近い。
「……せんぱい、だれか、くるかも」
「こないよ」
散々いいようにキスをされて今更な発言だと思うけど、先輩はそれには触れず、音をたてないでなだめるように僕の額にキスを落とす。
相変わらず片手は僕の顔の真横に置いて、もう片方はピアスの石の滑らかさを確認するように触れたままだ。
「それに、あの、時間、せんぱい、バイト」
「んー……たしかにもうすぐだけど」
器用に手のひらで僕の左耳にふれながら指だけで僕の髪を梳く。髪が流れるところを伏し目がちに眺めている。そういう視線は見慣れなくて、いちいち心臓が反応するけど、今は見惚れている場合じゃない。
「ちこくしたら、その、だめじゃないですか、だから」
「オレはもっとコーヨーとキスしたい」
まっすぐな視線に射貫かれて、言い訳の言葉がとまる。
僕の髪を、先輩はそっとつかんで放す。
そのまま顔を近づけて僕のピアスにくちづけて。
「あとちょっとだけ。だめ?」
ささやく声が直接耳にふきこまれて。
ぞわり、と、足の先から頭へとふるえるような感覚が走って。
いま、なにかいえば、それは言葉にならない。きっとおかしな息しかでてこない。
そんなもの聞かせたくないから、ぎゅっと唇も眼もとじた。
真っ暗闇になった世界で、左耳に、薄い紙一枚はさんだくらいの、ふれるかふれないかの近さで先輩の唇が耳たぶの輪郭に沿ってうごくのがわかる。
耳が、あつい。
けれどそれはすっと離れて、左耳のまわりに冷えた空気がもどる。先輩が身体を離したとわかって、身をこわばらせる。いま、くちびるにキスをされたら、拒める気がしない。
ぎゅう、と握りしめていた手に力をこめる。
どくんどくんと、耳鳴りのように心臓の音がする。
けれど、予想に反して、キスが降ってきたのは頭のてっぺんで。
僕はゆっくりと眼をあけて、おそるおそる見上げる。
「じゃあ、続きは飲み会の後でな」
いつもの笑顔よりもどこか大人びたその微笑み方に、こくこくと頷くしかなかった。
ふっと笑われて、先輩が僕の頭をなでる。「じゃあ出るか」といわれて、ようやく力がぬけて、脱力したまま下を見てはっとする。
先輩のシャツの裾にとても皺が寄っていて。
自分がさっき、握りしめた時についたものだとわかって。
これだけ力をこめて服をつかんでいたら、僕の緊張も震えもきっと先輩には筒抜けだったろう。もしかして、僕がいやがっていると、そう、判断してやめたのかもしれない。
慌てて顔を上げれば、先輩は「ん?」と首を傾げた。
「あの、先輩、僕は」
先輩にキスされるのは嫌じゃないんです、ただ身体が性的に反応してしまいそうになるからやめてほしかっただけ。
そんなことを正直に言えるわけもなく、上手い言葉をつむげず口ごもる。先輩はすこし瞬いてから、楽しそうに笑った。
「なに、次はもっと激しくしてほしいって?」
「え、や、ちがっ」
「そうかーコーヨーは激しくされるのが好きかあ」
「ちょ、ちがいますって、そうじゃなくて」
「えーじゃあ激しくされたらイヤ?」
「イヤ、そんなことないです、や、えっと、いやだからちがくって」
もう何をどう返したら正解なのかわからなくなっている僕に、先輩はからかい顔のまま内緒話のようにささやいた。
「それじゃ、今日の夜どっちがいいか試そうか」
もうその言葉に、それ以上なにか言えるわけなんかなくて。僕はせめてもの反抗心で、後輩がしていい範囲の力で、先輩の背中に軽く拳をあてた。
◆
「今年は合宿くるんだってな、コーヨー」
「はい。今回いくとこは湖でしたっけ?」
「そうそう。ガチ班の監督のつてでコテージ借りれるんだって」
学生が利用するにふさわしい大衆居酒屋。一クラス分くらいのメンバーが集まっていて、大部屋を借りているのにだいぶにぎわっている。映研ってこんなに人数がいたものだったかと疑問がわく。だがそれでも名簿だけなら倍は登録しているはずだから、こんなものなのだろう。
目の前の先輩はカメラの助手としていくらしい。さっきガチ班の主要メンバーにはすでに挨拶にいったから、残りの時間は暇つぶしみたいなものだ。ぬるくなった手元のビールを飲む。
「あとな、今回は主演に演劇部のめっちゃ美人の三年女子を誘えてさー」
「へえ」
「反応うっす! いやマジで美人なんだよ、ほら見てみろって写真」
飲み会が始まってそれなりに時間がたっている。そこそこ酔いの回った先輩がスマートフォンを見せてくるけど、青葉先輩まだかな、ということばかり意識がいって「綺麗な人ですねー」と適当に返事をする。
そのとき、部屋の入口がざわめいた。
もしかしてもう着たのか、と期待を込めてそちらを見た。
そしてその期待は外れて、でもある意味では、当たっていた。
「えっ、三木センパイ!?」
「うっそ、本物?」
「レアキャラじゃん」
部屋に入ってきたのは、眼鏡をかけた男性だ。遠目からでもわかるくらいにその容姿は整っている。色素の薄い髪を無造作に束ねて、清潔そうなシャツを着ている。
彼はざわつく下級生達に愛想よく手をあげてこたえて、ガチ班が集まっているところにくる。ガチ班は僕の斜め後ろのテーブルに集まっていたから、『三木センパイ』が必然的にこちらへと近づいてくる。
近くで見るとなおさらよくわかる男性モデルみたいな顔立ち。瞳は少し青みがかっていて、たしかに男性だけどどこか中世的な雰囲気を漂わせている。
話には聞いていたし、存在も知っていた。なんならそれこそ写真で見たこともある。だけど実際に見たのは初めてだった。
すぐ後ろのテーブルで、快活でよくとおる声が響く。
「やぁー、ひさしぶりやなあ。今日は呼んでくれておおきにな」
「『伝説の三木センパイ』がきたいって言って、断れる人なんていますかー?」
「ははは。まあまあ、ボクのイトコが世話なってるさかいに、今回のガチ班に挨拶しとこ思ってな」
びっくりするくらいのイケメンなのに、どことなくうさんくさい関西弁に、ざわめいていた女子たちも一瞬驚いたようだった。だけど内心を読ませない笑い方と、その関西弁がなぜかマッチして、独特な魅力を出している。
この人が誰か、もちろん知っている。いや、名前だけなら映研の多くが知っているだろう。『伝説』なんて呼ばれるくらい、めったにこないけど、それでも人目を惹くその容貌はイケメンだ。
だけど僕が知っているのは、そればっかりが理由ではない。
『三木』センパイと、『イトコ』。
「なに、青葉のやつ、まだ来てへんの? ボクより遅くくるとか、あいつなにしとんねん」
『医学部にいるイトコ』と青葉先輩が呼んでいた、三木浅葱という、青葉先輩の実のイトコだから。
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