14話 溶解度曲線と夫婦仲


 稜線から見下ろした『死の谷』の景色は、思っていたより雄大だった。


 山腹を切り裂いたような巨大な渓谷は、見渡す限りほとんどが白い。


 谷の木々は真っ白く立ち枯れ、温泉のものと思われる白い湯気が至る所から上がっていた。


 地面も白く、あちこちに白い骨でできたような魔物が、鈍く這っているのが見える。まだ太陽が出ているが、あれはアンデットだろうか?


 真っ白な世界の中、何百頭いるのかわからない骨喰牛の群れだけが、色彩を持っている。

 

「やっぱり、魔物の密度が違うねー。あれは翼竜かな? 獲物がたくさんいそうだし、もっと大物もいるかも」


 隣にやってきたマイナ先生が呟く。食物連鎖というやつか。だが、そんなことより気になる単語が出てきた。


「翼竜?」


「そう、翼竜。上も気を配らないと危ないよ?」


 見上げると、鳥ではなさそうなシルエットの生き物が2羽、円を描いて滑空している。縄張り争いなのか、時折お尻から炎を吹いて急加速したり、それを翼を立てて急減速してかわしたりしていた。遠いから詳細はわからないが、前世風に言うとロケットエンジン付きのプテラノドンと言ったところか。


 ここにもし一人だったら、あっという間に魔物の餌食になって、彷徨う骨になっていただろう。


「こわっ」


 背筋に寒気を感じて、思わず腰の短剣の位置を確認する。前世と違って、生き残るだけでも大変そうだ。


「落ち着いたみたいで良かったね」


 マイナ先生は、また優しく頭を撫でてくる。髪の毛がベタベタなのが、どうにも気になった。服も汗まみれになったし、お風呂に入って着替えたい。


「とりあえず、灰をいっぱい集めて来ましたわ。これで石鹸を作りますわよ!」


 まったりしようとしていた僕らに、ターナ先生が声をかけてくる。両手に灰が入った壺を抱えている。


 話を聞くと、義母さんが神術で火柱を作った一帯の樹木が灰になっていたらしい。ターナ先生はそれを集めてきたのだ。おそらく、これだけあれば実験できるだろう。


「えーと、こっからどうするんだっけか」


『ふむ。木灰であるか。確か中3の科学にあったであるな』


 再び、どこからともなく自称天使と教科書が浮かび上がってきて、勝手にパラパラとページがめくられる。

 開かれたページには、『酸・アルカリの言葉の由来』というコラムが掲載されていた。『酸』は「酸っぱい」から、『アルカリ』はアラビア語で「植物の灰」という意味だと書かれている。このあたりは記憶の通りだ。

 続くその後には、植物を燃やした灰と水を壺の中に入れてかき混ぜて作った灰汁には、衣類などの汚れを落とす働きがあり、これは炭酸カリウムのおかげだと書かれている。


 つまり灰の主成分は炭酸カリウムで、水溶性という事だ。


「じゃあ水入れるか」


『ふむ。ではこれなんかどうであろうか?』


 今度自称天使が引っ張り出してきたのは、高校の化学の教科書に載っていた溶解度曲線だった。水溶性の個体は、水の温度が高いほど多く溶けるというアレである。二酸化炭素とかの気体だと、冷えている方が溶けやすかったりするけど、今回は個体だから大丈夫だろう。


「で、煮ようかな」


 僕が空中に浮かぶ教科書とにらめっこしながら、ブツブツと呟いている間、先生たちは僕の方をじっと観察してたらしい。視線に気づいて、慌てて咳払いする。


「灰を煮たらどうなるの」


 僕の呟きが聞かれていたらしい。マイナ先生が不思議そうに聞いてくる。


「僕もやったことないから自信ないんだ。理論上は、灰の成分の中に含まれる炭酸カリウムは水に溶ける性質があって、煮るとたくさん溶けるようになるんだ。だから煮て炭酸カリウムをたくさん溶かした後に、布で灰を漉して、炭酸カリウムの水溶液を取り出そうってわけ」


 マイナ先生はきょとんとしている。おかしいな。溶解度曲線は中学の教科書にも出てたはずだから、マイナ先生ぐらいの年齢だともう習っているはずなんだけど。


「良く分からないけど、炭酸カリウムとかいうのを取り出すために、煮れば良いのね?」


 僕の説明が下手だったのか、理屈は伝わらなかったけど、やるべきことは伝わったらしい。

 マイナ先生そこら辺の石で簡易版のかまどを作り、ターナ先生はかまどの上に壺を載せる3脚を借りに行き、僕は近くに落ちている薪になりそうな枝を拾い集めた。


 すぐに灰と水が入った壺が火にかけられる。狩人さんたちもそうだけど、やたら手慣れているなぁ。

 小学校の頃に何かのイベントで飯ごう炊さんをやったけど、みんなこんなに手慣れてなかった。


「おーい。あっちから翼竜来たから気をつけろー」


 壺の中身を2、3回かき回したところで、通りかかった父上が空を指さしながら声をかけてくる。


「は?」


 あまりに緊迫感がない言葉だったので、反応が一瞬遅れた。だがすぐにマイナ先生とターナ先生が脱兎のごとく木の裏側に隠れるのを見て我に返る。


 父上が指さしていた方向を見ると、翼竜が翼を畳んで急降下してくるのが見えた。ご丁寧にお尻からバーナーのような炎が噴き出していて、猛烈な勢いで加速してくる。


 転生してから変な生き物に襲われすぎだ。スタンガンみたいな狼、鎧を着ているかのような牛、滑空する猿に、今度はロケットエンジン付きのプテラノドン。もう帰りたい。


「よっと」


 翼竜の狙いは明らかに父上だったのだが、父上は翼竜が近づいてくると滑るように踏み込んで、上空に向かって剣を鋭く振った。

 とは言え、まだ剣の刃が届くような位置ではない。プテラノドンは急降下から滑空に入るために翼を広げようとしていたところで、まだ2、30メートルぐらいは離れている。


 にもかかわらず、翼竜は父上の剣の一振りで首と羽の一部を落とされて、少し離れた稜線の向こう側の斜面に勢いよく墜落し———


 ドォォンッ!!


 次の瞬間、稜線の向こう側で大爆発が起こった。あまりの轟音に耳が痛くなり、空からパラパラと小石が降ってくる。


「ええええ」


 自分の目で見たものが信じられない。まず、何で剣が当たってもいないのに首を落とせたかが謎だし、翼竜が大爆発する理屈も謎だ。


「あああああ! せっかくの翼竜なのに、何してんのよヴォイド! 勿体ないじゃない!」


 すぐに義母さんが駆けて来て、父上の頭を思いきりはたく。


「す、すまん! わざとじゃないんだ!」


 父上は義母さんにペコペコ謝っている。父上でも怒られることがあるらしい。


 それにしても、父上は爆心地に一番近い位置にいたはずなのに、ダメージを受けた様子がまるでない。それどころか、服も汚れていない。どういう仕組みなのだろう。


「ホント、ここは何もかもが規格外だわ。今度は仙術って……」


 木の影から戻ってきたマイナ先生も同じように驚いているところからみて、あれが普通ではないのだろう。仙術という言葉は初めて聞いたかも知れない。


「仙術って何?」


「うーん。仙術は隣国のナログ共和国からさらに海を渡った先の、東方諸国で使われている術らしいわ。私も見るのは初めてだけど」


 神術と何がどう違うのだろう?まぁそれは今は良いか。


「ちゃんと肉も革も拾うから!もう勘弁して!」


 父上と義母さんは、ぎゃーぎゃーと楽しそうに言い合っている。


「もう粉々になってるじゃない! 黒焦げじゃない! 翼竜の皮膜欲しかったのに! 肉美味しいのに!」


 まったく、仲の良い夫婦だなぁ……

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