10話 石鹸生成実験計画


「狩るのが大変?」


 目の前には、真っ黒に少し茶色い毛が混じった牛が倒れている。前世の牛と比べると、倍ぐらいの大きさがあり、頭を覆う太いツノが特徴的だ。


「そう聞いていたんだけど……」


 マイナ先生は引き攣った笑顔で、横たわる骨喰牛を見ている。


 狩りはわずか20秒ほどで終わった。


 遠くから骨喰牛が近づいてくるのが見え、草むらに潜んでいた草まみれの狩人がその横に飛び出したかとと思うと、木の上から執事姿のパッケがひらり飛び降りた。


 見えたのはそれだけだ。後は骨喰牛の断末魔の声が聞こえて、巨体が横倒しになって痙攣。あっさりとしていて、マイナ先生が言うほど大変そうには見えない。


「足に絡んでいるのはボーラね。ボーラで足を止めて、致命傷は眼を細剣で深く一突き。し、信じらんない手際ね。ハ、ハハハハ」


 マイナ先生が引き攣り笑いのまま、骨喰牛の周りをグルグルしながら何か言っている。確かに骨喰牛の足には、重りのついたワイヤーが巻き付いていていて、目からは今も血が流れだしていた。


 マイナ先生が言うように、最初に狩人が両端に重りがついたワイヤーを投げつけて足に巻き付かせて足を止め、パッケが木から飛び降りて目を突き刺して仕留めたのだろう。本当にこちらの世界の人は身体能力がスゴイ。


「ターナ殿とマイナ殿は、解体・食事班と一緒にここに残ってください。我々は拠点予定地を制圧してきますので、それまでは自由にされると良いでしょう」


 マイナ先生に声をかけてきた父上を見ると、何やら剣を2本とベルトにナイフを数本つけていて、物々しい雰囲気になっている。


「僕は?」


 そもそも僕が何のためについてきたのかも良くわかっていない。


「イントは先生方と一緒にいなさい。ここはアブスに任せるから、依頼主を退屈させないように」


 アブスというのは、村の狩人頭の名前だ。話したことはないけど、父上が軍隊にいた頃の部下がそのまま移住してきたそうだ

 父上は、先生がたのもてなし担当としては、彼より僕のほうが適任だと思ったのだろう。


「うん。わかった」


 僕が頷くと、父上は近くの草むらに視線を向けた。


「アブス、5人残すから後は任せた。何かあればいつも通りに」


 父上が視線を向けた草むらから、先程骨喰牛にワイヤーを絡ませた狩人と同じ格好の男が出てきた。気配が全くないところから人が現れて意表を突かれたのか、隣のマイナ先生が小さな悲鳴をあげる。


 一瞬草の山が動いていると思ったほど草まみれで、顔も緑の布で覆われている。それでも立ち上がるとマッチョとわかるので、相当鍛えられているのだろう。


「わかりやした、隊長。闇豹にお気をつけて。おいお前ら、とっとと作業に入るぞ!」


 アブスと呼ばれたマッチョが、少し離れた位置の草むらに声をかけると、間隔をあけてゾロゾロと狩人たちが立ち上がる。みんな恐ろしくその場に溶け込んでいて、身動きした時の違和感がすごい。


「これがあのコンストラクタ男爵の闇討ち部隊ですのね。噂以上ですわ……」


 ターナ先生が感嘆の呟きを漏らしている。確かに狩人さんたち、すごいと思う。闇討ち部隊というのはわからないが。


「それじゃ行ってくる」


 父上と義母さん、それにパッケが同伴していた狩人の半分を連れて、走り去って行った。残された狩人たちは周囲に集まってきて、偽装用の草が挿された外套を脱いで木の枝に引っ掛けている。


「そいじゃ、儂らはそこの牛を解体してるんで、坊ちゃんは別嬪さん方と思う存分お勉強でもしててくだせぇ」


 アブスが顔に巻いていた布を取ると、汗まみれの暑苦しい初老の男が姿を現した。親しげに冷やかされて、苦笑いする。多分村の住民は全員僕の事を知っているが、僕は見覚えぐらいしかないのだが。


 僕が頷くと、そのままバカでっかい牛を近くの木にぶら下げる作業をするために、去っていく。何百キロあるかわからないけど、あの人数でなんとかなるものだろうか。

 

「では、さっき言っていた身体を洗う『せっけん』について、お聞きしたいですわ。それはどういうものですの?」


 ターナ先生が目をギラギラさせて、早速石鹸に食いついてきた。今も娘のマイナ先生とは姉妹にしか見えない若さを維持していて、それでも新しいものに興味を失わないのは、さすが美容の研究家といったところか。


「これくらいの塊の身体を洗うもので、お湯で濡らして布につけると泡立つんです。その布で身体を洗うと、簡単に身体をキレイにできるんですけど……」


 ここらは田舎なので見たことがないが、さすがに都会には石鹸ぐらいあるだろう。そう思って必死に説明するが、不思議なことに伝わっている手ごたえがまるでない。


「気になりますわ。どうやって作りますの?」


 作ったことはあるので、作る事はできるかもしれない。だがうろ覚えなので自信はない。せめて、作り方が載っていた教科書が手元にあれば良いのだが。


『石鹸であるか? 叡智の書、いや教科書であったか。あれにあるのであるな』


 どう答えたものか悩んでいると、どこかから声が聞こえた。この声、この喋り方は、いつぞやの自称天使か。


『確か高校の化学なのである。「鹸化」についてであるな』


 背中の荷物の中から、教科書が空中に滑り出してくる。中学の保健の教科書だったはずだが、ペカッと光ったかと思うと、一瞬で表紙が化学に変わった。そして目の前に浮かんだまま、パカリ、とページが割れ―――


『ああ、このページであるな』


 「鹸化」のページが開かれた。どこから聞こえてるかわからない声に、宙に浮く教科書、こっちの世界は驚くことばかりだ。


「どうしましたの?」


 教科書を読んでいて返事を返さなかったためか、ターナ先生が怪訝そうに聞いてくる。


「え? わかりませんか?」


 宙に浮かぶ教科書が目の前に浮かんでいても、マイナ先生は驚いている様子がない。


「ええ。わかりませんわ。泡立つとか、ワクワクしますけど」


 そっちか。宙に浮く教科書は普通なんだろうか。


「石鹸の作り方はアルカリ性の水溶液と油を混ぜて、加水分解して石鹸とグリセリンを作る、だそうです」


 ターナ先生とマイナ先生は、身を乗り出して聞いてくれるが、そんな大した話をしてるわけではない。教科書に書いてあることを説明しただけ。


「油はわかりますわ。もう一つのアルカリ性の水溶液っていうのは何ですの?」


 本当にわかっていないようだ。マイナ先生は中学生ぐらいの年齢だから、まだ知らない可能性はあるとして、ターナ先生は大人だから知っていないとおかしいような気がする。まして、研究職の人だ。


「アルカリ性の物質が溶け込んだ水のことだよ」


 まったく知らない人に何と説明したものか、改めて考えると戸惑ってしまう。

 

「アルカリ性って何ですの?」


 案の定伝わらない。リトマス試験紙でもあれば、目に見えるんだろうけれど。


「酸性の反対の性質のことかな。強いアルカリ性はタンパク質を溶かして、強い酸性は金属を溶かすんだけども」


 ターナ先生とマイナ先生も戸惑ったように顔を見合わせる。


「どうも私たちには難しいようなんだけど、実際に作って見せてもらうことはできる?」


 教科書に一応実験手順は載っていた。油脂と水酸化ナトリウム、混ぜて沸騰しない程度に熱し、あとはエタノール少しだけ混ぜてひたすらかき混ぜれば良い。その後、飽和食塩水で塩析させる。


「油とアルカリ性の何かと、あとお酒があればできるかも?」


 教科書を見ながら答える。だが、そんなものがどこにあるというのだろう?


「油なら問題ないですわ。そこで解体されてる骨喰牛の脂身から質の良い油が取れますの。お酒ならこの香水のベースがお酒ですわ。アルカリ性の何かっていうのはわかりませんけど……」


 ターナ先生が言いながら考え込む。あれ?まさか実際に作ってというのは、今すぐここでという意味だっただろうか? 教科書にある水酸化ナトリウムは塩を電気分解したら作れるらしいけど、村ではそもそも塩が不足しているし、電気分解がすぐできるわけもない。


「ううん。アルカリかぁ。難しいなぁ……」


 狩人たちは、すでに骨喰牛を逆さ吊りにして、血を抜く作業に入っていた。その他の手が空いた狩人たちが、石を拾ってかまどを作るのを横目で見ながら、僕は前世の記憶を探っていく。


 先生たちは、悩む僕を興味深そうに見ていた。


 そうだ。先生といえば、前世の先生は授業中の無駄話で、石鹸の起源について話していたっけ。確か、サポーの丘というところで生贄を丸焼きにしたところ、こぼれた油が灰と混ざって誕生したのが最初の石鹸だったらしい。石鹸を意味するソープという英語は、サポーが語源という説もあるのだそうだ。


 もう一つ、アルカリという言葉自体も、アラビア語で植物の灰という意味だと中学校2年生の科学の教科書に載っていた。


 つまり何が言いたいかというと、灰はアルカリ性で石鹸の材料になるということだ。


 ならば材料はそろった。ちょうど待ってるだけでやることもないし、少しぐらい実験してみても良いだろう。


「アルカリは灰で何とかなります。でも固めるには塩が必要ですね」


 ターナ先生とマイナ先生はまた顔を見合わせた。本当に石鹸に心当たりがないのだろうか?


「へぇ。灰で何とかなっちゃうの?そういえば洗濯に灰を使ってる地方があるとか、聞いたことがあるなぁ。身体も洗えるのね。イント君すごいねぇ」


 マイナ先生が感心した様子で頭を撫でてくる。子ども扱いされるのは久々だけど、こんなかわいい子に撫でられるなら悪くないかもしれない。

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