9話 体力と石鹸
馬が速足で山道を進んでいる。
馬車はなく、馬は全部で10頭ほど。3頭にはターナ先生とマイナ先生、それに義母さんが乗っていて、残りの7頭には食料や壺、テントなどが載せられていた。
今日はこのまま『死の谷』との境目である稜線まで進み、そこに拠点を築いて、明日以降『死の谷』の奥にある泉にアタックするらしい。
僕はどうしているかというと、マイナ先生が乗る馬の横を走っていた。そして、オイルの塗りこまれた真新しい革鎧を着こんで、腰には短剣、背中には教科書が入ったカバンと短槍を背負っている。
おそらく貴族の嫡男というよりは、新人冒険者に見えるだろう。
装備はそれなりに重たいが、僕は意外に体力はあるらしく、走っても息が切れない。前世であればそろそろランナーズ・ハイが訪れてもおかしくないが、そんな気配もなく走り続けている。気温が高いのと、通気性がない装備のせいで、やたら汗をかいているのが不快なぐらいだ。
「イント君って、案外体力があるんだね。それに珍しい走り方してる」
マイナ先生が馬上から好奇心丸出しで声をかけてきた。体力に関しては、僕も驚いている。でも、珍しい走り方と言われても、前世ではメジャーだったストライド走法だ。ピッチ走法と並んで、体育の授業で誰でも教えてもらえる普通の走り方でしかない。
「そうかなぁ。みんなこんな走り方だと思うけど」
それでもまぁ、高校生だった前世より、リズミカルに走れている気はする。それもこれも、息が切れないおかげだろうが。
視線を感じて、少し離れたところを見ると、父上がこちらを見ながらまったく同じ走り方をしていた。
「ほら、父上も同じ走り方をしているでしょ?」
やっぱり珍しくない。マイナ先生は何を言っているのだろうか?
「うーん。感覚がおかしくなりそう。それもコンストラクタ家の秘法ってやつなのかしら」
マイナさんは、義母さんが馬上から赤い光線を放っているのをチラリと見て苦笑いする。今度は上空の鳥型の魔物を撃ち落としたらしい。あれは神術と言っただろうか。
村を出発してから見るのは3回目だけど、まったく接近を許さないので楽なものだ。同伴している狩人が、魔物を回収に向かったのを見届けて会話に戻る。
「まぁそれはそれとして、泉には何があるんですか?」
美容の研究と言っていたけど、『死の谷』という語感から考えても、魔物が集まるという特性から考えても、美容に関係がありそうだとは思えない。むしろ呪われそうだ。
「母は美容を専門にしてるの。美容には何が効くかわからないから、泉の水を手に入れてから調べるつもりみたい。温かい温泉って各地にあって、お肌がすべすべになったり、傷の治りが早くなったりするものもあるのよ」
なるほど。そういえば賢人ギルドは何かを研究している人の集まりなんだっけ。
「マイナ先生は何の専門なんですか?」
キレイで賢いマイナ先生と話せることが嬉しくて、ついつい質問を重ねてしまう。
「本当は数学を専門にしたかったんだけど、研究盗まれちゃったんだよね。それで冷めちゃったから、まだ考え中」
自嘲気味に言う先生の表情に、一瞬陰がよぎる。まずいことを聞いてしまったのかもしれない。
でも、だから心肺蘇生について領民に説明しようとしたら、盗まれると思って怒ったのか。
「じゃあ美容を専門にしたら良いんじゃないですか? 先生美人だし、美容ならお母さんに習えるんじゃないですか?」
手っ取り早かろうと思ったが、マイナ先生は馬上で器用に肩をすくめて見せた。
「美容ってめんどくさいんだ。身体を洗うのも、髪を洗うのだって時間がかかるし、その後の香油も時間がかかる。そんなこと毎日やるぐらいだったら、私は研究していたい」
おっと、そういうタイプの子なのか。なら、石鹸があったら身体を素早く洗えそうな気がする。
「身体を洗うのなら、石鹸があったら便利なんだけど、そういや見たことないなぁ」
「石鹸? 聞いたことがありませんわね」
僕の呟きに、離れた位置で馬を走らせていたターナ先生が反応した。美容関係に関しては地獄耳なのかもしれない。
だがまぁ、所詮石鹸なんてその場限りの思い付きだ。前世子ども会の体験イベントで廃油から作ったのと、高校の化学の実験で作ったことがあるが、細かい手順は覚えていない。
熱い油と熱い強アルカリ溶液を混ぜて、かき回して鹸化させる手順だったように思うが、油と強アルカリを手に入れる方法がまったくわからない。
「今度教えてくださいませ。イント様」
ターナ先生が近づいてきて、張り付いたような笑顔で見下ろしてきた。目がこわい。
「は、はい」
墓穴を掘っただろうか。石鹸は古代から存在していると、化学の先生の無駄話で聞いたことがある。だが、日本に入って来たのは戦国時代の末期だったらしい。
だから、こちらの世界に今石鹸があるかどうかは微妙だが、製法が単純なので存在していてもおかしくはないだろう。
多分、ターナ先生が知らないだけで墓穴とまでは言えないだろうから、作れるものなら作ってみても良いかもしれない。こちらの世界は手ぬぐいで身体を拭くだけなので、ちょっとベタつく。自分が使うのも良いかもしれない。
「隊長! 止まってください! 拠点予定地の樹上に飛猿の群れと、地上に骨喰牛が多数います! 闇豹の足跡も確認していますので危険です!」
突然、斥候役の狩人が進路上に現れて、両手を振りながら声をかけてくる。
それを合図に、馬の速足程度で進んでいた僕らは足を止める。向かっていた山の稜線を見上げると、てっぺんあたりの木が枯れているのが見えた。『死の谷』の木は一面すべて枯れているそうなので、おそらくあの稜線の向こう側が『死の谷』なのだろう。
「迂回は可能か?」
父上が斥候役に訊ねているのが聞こえてくる。ここまでの道も獣道に毛が生えた程度だったが、迂回するとなると道が険しくなるかもしれない。
「可能ですが、拠点設置予定地を変更するとなると、月桂樹が薄くなりますので、夜にアンデッドが出る可能性があります。拠点の設営のためにもこのあたりの魔物は掃討しておく必要があるかもしれません」
止まったことで、ジワリと疲労感がにじみ出てくる。
「どうしてアンデッドが出ないとかあるの?」
とは言え、話ができないほどの疲労ではなかったので、馬から降りたマイナ先生に小声で話しかける。
「月桂樹には、アンデッドが嫌う香りがあるらしいよ。コンストラクタの村にもいたるところに植えられていたでしょ?」
なるほど。木の種類なんか見分けがつかないけど、そんな便利な木もあるのか。確かに村は木でできた防壁にぐるりと囲まれていて、その内側に何本か木がはえていた。多分あれがそうなのだろう。
「へぇー」
やっぱり前世とは色々違う。前世は人類が生態系の頂点にいたが、多分こちらでは違うのだろう。危険な魔物がたくさんいる。
「群れからはぐれた骨喰牛が一体、前方から来ます!迎撃お願いします!」
ようやく息が整ってきた頃に、木の上で見張りをしていた狩人の一人が声をあげた。先行してた斥候と合流したので、20人ぐらいの大所帯になっているのだが、全員が一斉に武器を取ったので、一気に物々しくなる。
「骨喰牛って?」
「動物も魔物も、もちろん人もなんだけど、死んでから埋めたり燃やしたりしないとゾンビになって、最終的にスケルトンっていうアンデッド系の魔物になっちゃうの。骨喰牛はそのゾンビやスケルトンを食べるおとなしい魔物だよ」
マイナ先生は色々知識が豊富らしく、骨喰牛について立て板に水のように説明してくれた。しかし、ゾンビにスケルトンか。人間だけでなく、死んだら動物や魔物もアンデッド化するって、かなり恐ろしい世界かもしれない。
「おとなしいのに、何でみんな警戒してるの?」
「怒ると突進してくるの。しかもなぜか神術が効きにくくて、生きている間は斬撃も効きにくいから、厄介なのよ。だから槍で突き刺すか、殴るか、弓で射るか、そのどれかにじゃないと倒せない。あ、狩りが始まったら、絶対骨喰牛の正面に立ったら駄目だからね」
なるほど。でも何でわざわざ怒らせる事をするんだろうか?おとなしいならほっといても良さげなもんだけど。
「狩るのは大変だけど、今日はごちそうだね!」
マイナ先生はちょっと嬉しそうだ。ごちそうという意味は良くわからないが。
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