暗室

@illthy

第1話

暗室


 知覚される魂を覚えていて。それが私の生きる寄る辺なのだから。人の想いを忘れないでいて欲しい。ただ一つの貴方の支えなのだから。


#suspicion-


 知覚される外界は、暗い屋内、硬い床、湿っぽい空気などであり、心は虚しさの沼底に沈み込んでしまったような具合。他はとりわけ語る事もなく、無慈悲に流れる時間だけが私の頭の中の懸念事項であった。

……ここは何処なのか。四方に歩くといずれも壁へと安易に辿り着いた。それもどの壁から壁までも大体同じような時間で着いてしまうものだから、これはきっと正方形の一画に違いないのだと思われる。まったく訳が分からない。昨日、私は毎日の通り布団に入って、そうして馬鹿な顔を晒して寝ていたはずだが。それが今、こうして升のような硬い部屋に入れられて、私にはまったく状況の判別が出来ないのはどういう事だろう。まったく、それを使用する側だった筈がその中に入る事になろうとは、何とも滑稽な。それにしても、まさか、眠っている内に私は運ばれたのか。それとも、寝ぼけてここまで歩いてしまったのだろうか。だが、私の住処にはこんな間取りの部屋は存在しない。では、ここは私の家ではないわけだ。ならば、やはり今の私は何処か別の場所に移動した後、ということになるのだろう。でなければ、この狭い空間で私が目を覚ましたという事実を説明することは出来そうにない。

 そうか、やはり何者かが人の熟睡中をいいことにこの場へ私を連れ去ったのだ。その後、ここに鍵をかけて、幽閉を完了したといった所か。闇の中にやがてドアを触ったがそれはどんなに力をかけても開かなかった。いったい私を閉じ込めたのは如何な奴であろうか。それどころか目的、理由も不明であるし、現在の位置も分からないし、まったく何事の状況も掴めない。ああ、これはゴーダブリューイチエイチが分からないってやつ。暫くは様子を見るしか無さそうだ。

 それ以降、何の状況の変化もなかった。ある時、壁の向こう側に何か鳥が鳴いているのが分かったが、それからは微細な物音一つとして音沙汰なく、私を閉じ込めた奴は私をこれからどうするつもりなのか。もしかするとこうして私を封じ込めておくだけで、悪党共の目的は果たされている? そうなら何とも腹立たしい。他人のどうでもよい思惑に私の身体が操られているのは何とも悲しい思いがする。

 なんて考えてたな最初は。ほんと私はどうなるんだろうな。もうコンクリートの床は飽き飽きした。柔らかな布団の上で寝たい。昨日までは普通に学校に行っていたというのに。明日も同じ一日が始まるものと、そう思って布団に入ったというのに。もう今日は明日になっているだろう、さっき鳥が鳴いていた訳であるし。やはり誘拐されたということなのかな。けれど……それなら犯人は何処から家の中へと侵入者したのか? 寝る前は私、そして親もまた戸締まりを確認するのだが……はて、人の通れる抜け穴などあったかしら。あ、まさか偶然にも戸締まりを忘れていた? とは考えにくいが……どうであろうか。

 犯人がそもそも家の中に居たのだとしたら。


#fuel-


 この思案の内容については大いに有り得ると言える。朝になれば家族は出勤なのだから、鍵は開けなければならない。その僅かな空隙を狙う侵入者だったとして、部屋のいずれかに身を潜めていたのならば。はたまた、最初から家の住人という立場にある者ならば。可能性は如何様にも考えられそうだ。

 とにもかくにも、問題はここに連れて来られて身動きがとれないことにある。腹も減ればやがて力無くなる。このままではいけない。この空間から解放されるかどうかも怪しい。何か行動を起こさなければ、私は何の意味や理由、因果を理解することなくここで犬死にを迎えるかもしれない。それだけは避けたい。

 この場には何も無い。生活を感じさせる家具も学校を思わせる文房具も部屋を明るく照らす電灯の明かりも、何一つ人間的なものを感じない。床は硬い、壁も同様、そして冷たい。建物の中にいることくらいは判る、だけれど何の建物かも皆目見当がつかぬし、ここがどれ程自宅から離れた所かも分からぬし、そうだ……現在の私は全く自分の所在すら判別しない。この暗い中に息を潜めてどれくらいの時間が経過した? 私の親は何をしている? 今頃私は社会で失踪の身の上だろうか。ハハハ、参ったな……その身の上であるなら、それはまだ幸いと言えよう状況だろう。これから先、私を待ち受けるものは何だろうな。このままという事態も半ば冗談では済まないかもしれない。餓死は嫌だ。


#fearness-


「おーい、扉を開けて、漏れてしまうよ」

 膀胱が臨界直前だった。開きそうもない分厚い鉄板を何度も叩いた。無機質な音が向こうを遠くまで這って行った。寂しい音はいやに明瞭に響いて、しばらくその嘆きを耳に残すと、最後は溶けるように消え失せた。これは、限界かもしれない。その場にうずくまると、何だか胸の内から悲しみのようなものが沸いてきた。日々の人間的な生活を封じられて、この狭い空間の中で、自身から排出される不浄なものをまざまざと知覚せねばならないその不快の感覚や恥辱を受けるにも似た悲哀の感情。清潔を奪われて、自身の身体で以って自身の周囲を汚さねばならない真実。自身の人らしい高潔を剥奪され、裸になった肉体の、所詮私も動物に相違ないのであるという現実を突きつけられる恐怖。しかもその恐怖は自分に向かってくる。以前なら想像することもなかった生理的嫌悪感が迫ってきて、ただ不安で恐ろしく、この部屋から一刻も早く出して欲しいという強迫感に心はいつの間にか鷲掴みにされていた。扉を叩く音響の騒々しさに自ら驚き、気付けば焼け付くように痛む右拳は、感情の奔流に歯止めが利かない自分自身を含意していて、そこからまたしても底無しみたく深い恐怖が延々と湧いて出るかのように、暗い、怖い、部屋だった。

「誰か……誰か……開けて……」

足の付け根の中心部へ手をやり、必死に生物的な衝動を抑える姿は、とても陽光の下に晒せるものではない。理性が薄らぎ、身体の奥から迫り来る欲求をそれでも何とか堪えようと、自然な呼吸も忘れて必死に悶える姿は、幸いこの暗闇のおかげで誰も見る者はなかった。懇願すらまともに叶わず、他に人が居るのかも分からぬ扉の向こうへ弱々しいすがるような声を出すのは、我ながらお粗末であると、頭にはその事が辛うじてあったのだが、もはや自分を操るほどの余裕はなかった。それにずっと、暗がりで独りジッとしていたものだから、注目すべきものがなく、何だか恥の概念だとか自意識だとかが霧散しつつあるようだった。私はこうも簡単に人としての品性を失くしてしまうのかと、そこについてはまだ羞恥を抱く人間性はあったが、しかし、その思いすらも、時間をかけてこの魔に満ちた暗室に溶け出してしまうのかもしれない。そうして終極ともなれば、その時既にこの身からは社会的な懸念が失われた後で、そこに残るものは人間の顔をした人間らしき生物なぞに成っているのではないか、なんていう恐ろしい考えをしたものだから、つい動揺で私の膝下は濡れてしまった。

 悲しみの滴も混じって、本当にけがらわしい水たまりだった。


#truth-


あの日見たのは、ガラスの向こうで真っ赤に燃える夕日のきらめきだった。時は放課後、興味の持てない全くもって退屈な授業の数々がようやく終わりを迎えた頃、校舎の渡り廊下を箒で掃いているとその夕日がどこか格別に、神々しく映えていた。目を細めると、睫毛の合間から煌々と七色の光輝が差し込んで来て、そのまばゆさに私はひどく昂揚したことを覚えている。昂揚と言っても、それは快活なものではなくて、どちらかと言えば静かに身震いしているようなそんな心の蠢動だった。夕日など珍しくもなんともなく、この時間にさえなってしまえば、山の上で勝手に光り輝いているというのに。何故か記憶にあるあの日の、あの夕日は特別に映ったのだ。

 掃除は適当に済ませ、早々と学校を後にした。長い影が佇む帰宅路を私は半ば放心の状態で歩いていた。疲れて穴だらけになったむしろの心に紅い光線が差してきて、その内奥が朧げにされてしまうようなそんな感覚だろうか。時の前後も忘れて、ただ家へと向かうことばかりを体が覚えていて、私はその付き人よろしく歩を進めていた、と思う。そんな記憶、何故か忘れることの無い記憶。他に覚えるべき事はあるだろうに、こんな記憶、人生の何の道標にもなりはしないだろう。

 今になって、その帰り道が思い出される。心の枯れていくこの暗闇で、あのまばゆい幻想的な橙色の街並みが宝石のように輝いて見える。いつもなら無味乾燥としか呼ばないようなあの景色が、突然に光明として感じられるのは、私の身に迫る非日常の深刻さ、その裏返しともみえる。こんなもの、見ていては駄目なのだ。見れば見るだけまやかしに引き寄せられて、現実的な処置が施せなくなってしまう。下らない幻の光に魅入られて余計にもっと暗い穴ぼこに落ち込んでしまう。まさに悪魔の囁きだ。そう言って相違ないものだ。どうしようもない孤独の影に思いを馳せていても仕方がない。それよりもここから脱却することを念頭に置かなければ。そう、気を強く持たなければこの状態にある私は生き絶えてしまうのだ。幻に取り憑かれる暇などどこにも無い。


「おい、開けろ」

もう一度、扉に向かってこれまでで最大の音響を発した。すると、微かに音がして数秒後、扉は突然に開かれた。

「なんだ、あんたもちゃんと吠えられるじゃない」

それは私の見知った顔、母親の顔に相違なかった。私は唖然として、座り込むことしか出来なかった。

「その扉、引き戸だから」

えっ、と心が喋った。

「あんた、押してばっかだもん。頭かたいね、引くだけでよかったのに」

「ど、どうして、こんなこと……」

「いや、あんまり間抜けな顔だったから」

「なに、それは……」

「すぐ怠けるの、やめた方がいいよ」

そう言い残すと、母は仄かに明るい廊下を、奥へ奥へと、遠ざかっていった。


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