きみのこえ

藍沢篠

きみのこえ

 残暑もだいぶ落ち着いてきた九月の半ば、私たちのクラスは十月に控えた合唱コンクールに向け、いろいろ話しあいを始めていた。

「じゃあ、ソプラノのソロパートを歌うのは中川(なかがわ)さんだね。これでいいよね、歌澄(かすみ)?」

 ピアノ伴奏を務める千愛(ちあ)が、ソプラノのパートリーダーの歌澄に問いかける。歌澄はどこか納得がゆかないような様子ながらも、

「……多数決だし、それでいいんじゃない。まあ、決まった以上はがんばってよ、律(りつ)」

 そういって、苦笑いを浮かべながら私の方を見つめてきた。私は驚きながら訊ねる。

「でも歌澄、本当に私なんかでいいの?」

 すると、歌澄は少し怒ったようにいった。

「多数決だっていっているでしょ。みんながあたしじゃなくて律を選んだんだからね」

 やはり歌澄はどこか納得しきれていないみたいだ。私がソロパートを歌うことがそんなに嫌なのだろうか。よくわからなかった。

「男子ー、指揮者とソロパート決まった?」

 この話はこれで終わりとでもいいたげに、歌澄が男子に声をかける。男子の方から、

「決まったぞー。ソロパートはパートリーダーが担当で、指揮者は響渡(ひびと)がやってくれるってさ。まあ、こいつの声が混ざったら俺らが歌いにくいし、ちょうどよく決まったぜー」

 そんな声が上がり、それに続くように、男子たちがげらげらと笑う声が聞こえてきた。

 私が男子の方を見やると、笑っている男子たちの中でひとりだけうつむいている、パッと見では女の子と見間違えそうな、小柄な男子の姿が目に入る。その子はいまにも泣きだしそうな所を、ぐっとこらえているみたいに見えた。私の薄い胸へと鋭い痛みが走る。

 歌澄は男子の声にくすくす笑いながら、

「なら、指揮者は鳴子(なるこ)くんね。このあとで打ちあわせをしたいから、残ってもらえる?」

 小柄な男子に向けて、そう声をかけた。小柄な男子は声をださずに小さくうなずく。

「よし、全部決まったし、これでいくよ。中学校最後の合唱コンクール、がんばろう!」

 歌澄がそう締め、話しあいを終わらせた。

 クラスメイトたちがそれぞれに帰り支度を始める中、私は小柄な男子の方をちらりと見やる。小柄な男子はまだうつむいたままだ。なにか声をかけようかと思ったけれど、歌澄が彼のもとへ歩いてゆくのが見えたので、

(あとで、響渡とゆっくり話をしてみよう)

 考えを切り替え、荷物をまとめてバッグに詰め込んだ。なんだか気分がもやもやした。


 その日の夕方、回覧板を抱えた私は、お隣の家のチャイムを鳴らしていた。玄関口には『鳴子』と書かれた表札がかけられている。

 しばらくののちにドアが開けられて、幼馴染の響渡が、恐る恐る顔を覗かせてきた。

「律か。回覧板、持ってきてくれたの?」

 これまた恐る恐るといった感じで、響渡が私に訊ねてくる。私はにっこりと笑って、

「うん。いつものことじゃない。まあ、きょうはついでの話が少しあるんだけれどね」

 努めて明るく応じる。だけど、響渡の表情が晴れることはなかった。響渡がつぶやく。

「ついでの話って、その、学校でのこと?」

 暗い表情と口調に、私の胸がまた痛んだ。それでも、訊かないわけにはゆかなかった。

「響渡、またみんなからいじめられたんじゃないの? 合唱コンクールの話しあいで」

 今年に入ってから、響渡は暗い表情でいることが多くなった。その理由を知っている私は、少しでもなんとかしてあげたかった。

 だけど、なにもできないのもまた事実だ。

「……こればっかりは仕方ないよ。ボクの声が全然変わらないのがいけないんだから」

 隣の家の幼馴染――鳴子響渡は、もう少しで十五歳のいまも、声変わりがきていない。まるで女子のような高い声に、これまた女子みたいな外見が相まって、そのことをネタにいじめられるようになってしまったのだ。

 身体的な特徴をあげつらってバカにするのは、最低だと思っている。本人が望んでいないのに特徴的な身体になってしまうことばかりは、どうしたって避けられないのだから。

「元気だしなよ、響渡。響渡にもいつか、ちゃんと大人の声になる時がくるはずだから」

 そう声をかけるのが精いっぱいだった。

 私の言葉を聞いた響渡は、むしり取るように回覧板を奪う。小さな、でも高い声で、

「用が済んだのなら、もう帰りなよ。三浦(みうら)さんにいわれた通り、指揮の練習も少ししないといけないから。じゃあ、また学校でね」

 そういい残して、乱暴にドアを閉めた。

 玄関口に取り残された私は、響渡の力になれない自分自身をしばらく恨んだ。どうすれば声にコンプレックスを抱く幼馴染の力になれるのかが、全然わからないままだった。


 次の日から、さっそく合唱の練習が始まった。まずはそれぞれのパートごとに練習をしてゆく段階だ。音程取りから始め、ある程度音が取れてきたら、今度は他の子や別パートとのバランスを考えて歌わないといけない。

 ソプラノはこの曲の主旋律を張るパートになるし、歌澄との打ちあわせや指揮・伴奏の練習もあるとのことで、ソプラノのパート練習には響渡と千愛が加わってくれた。それでも全体の指示をだすのは、歌澄の役割だ。

「律、少しだけど音程がずれているよ。鳴子くん、千愛、いまの所をもういちどお願い」

 その指示を聞き、響渡の指揮にあわせて千愛のピアノ伴奏が流れだす。私は音程に気をつけつつ、みんなにあわせるように歌った。

 歌澄はどうも、私にだけ厳しい気がしてならない。ソロパートも担当しなければいけない私にだからこそかもしれないけれども、なんだか私は指摘を受ける回数が多いように感じる。それだけ歌澄は、合唱コンクールにかける思いが強いということなのだろうか。

「じゃあ、このあたりでみんなは少し休憩。律はソロパートの練習をするから残って」

 他のみんなが休憩に入る中、私は歌澄の所に残る。ソロパートの練習はまた別枠だ。その部分は歌澄とマンツーマンで練習するしかない。ましてや初めてのソロパートだ。どんな感じで歌えばいいのかがわからなかった。

 ソロパートを決める時、私は歌澄がいいと思った。実際、歌澄はソプラノの中でも飛び抜けて歌が上手だし、前にもソロパートを経験しているからだ。だけど、他のみんなは歌澄ではなくて私がいいといってくれた。選んでもらった以上は、しっかりやりきりたい。

「律、また音を外した。もっと集中して」

 歌澄の厳しい声が響く。これはもっと気を引き締めて練習をする必要がありそうだ。

 私と歌澄の様子を、少し離れた所から響渡が見つめていた。ビシバシとしごかれている私を心配してくれているのかもしれない。時折、私に厳しい声がかかるたびに、びくりと身を震わせるくらいなので、相当のものだ。

「あたしが歌ってみせるから、よく聴いて」

 歌澄は少し苛立った様子で、アカペラのままソロパートをきれいに歌い上げた。練習の段階ですでにこれだけの差があるのだから、本番までに歌澄との差を埋めるのは楽ではないだろう。歌い終えた歌澄は厳しくいう。

「最低でもこれくらいは歌えるようになってもらわないと、本番で映えないと思ってね」

 直後、ため息をつきながら歌澄がぼやく。

「……絶対、あたしの方が上手いのに……」

 小さな声だったけれども、妙に胸へと刺さるような言葉だった。やはり歌澄は自分がソロパートを歌えないことが悔しいのだろう。

「ちょっと休憩にしよう。律も少し休んで」

 それだけいい残して、歌澄は音楽室からでていった。私が立ち尽くす中、周りから仲間たちがひそひそと話す声が聞こえてくる。

「……中川さんがソロパートに選ばれたのが気に食わないからって、あんまりだよね」

「三浦さん、自分がソロパートを歌うんだって、信じて疑っていない感じだったから」

「あんな自分勝手な奴がパートリーダーって時点でおかしいのにね。先生に選ばれていなかったら、みんな中川さんを推していたよ」

 周りのみんなの声に、私は反対の意を唱えたくなった。私なんかでは、どう考えてもパートリーダーが務まるわけがない。それよりは実績のある歌澄に任せてあげたかった。もちろん、ソロパートにしても同じ考えだ。

 みんなが歌澄に対する陰口を叩く中、不意に制服の袖を引っ張られた。こうしてくる相手は他にいないので、誰なのかはわかった。

「どうしたの、響渡? なにか不安なの?」

 そう応じると、袖を引っ張っていた響渡はとても小さな声で私へと話しかけてきた。

「ケンカはしないでって、みんなに伝えて」

 それだけをしゃべると、私のもとからすぐに離れていった。こころなしか、響渡の表情がいつもに増して、曇っていたようだった。


 その日の夕方、家に帰る道の途中で響渡を見かけた。周りを他の男子たちに囲まれた響渡の小柄な身体がひときわ小さく見えた。

「響渡、よかったなぁ。指揮者をやるんだったら、お前の声で俺たちが混乱しなくて済むし、お前だってその恥ずかしい声で歌わなくて済むもんなぁ。そうだろう、オカマ?」

 ひときわ大柄で太い声の男子が、響渡のことを嘲笑うようにいう。他の男子たちもそれぞれげらげらと笑い、揃って響渡をバカにしているみたいだった。なんだか腹が立ってきたので、私はその男子たちに向かって叫ぶ。

「こらー男子ぃ! 響渡をいじめるなー!」

 私の声を聞いた男子たちは、それぞれに自転車を走らせ、響渡の所から逃げていった。あとに残された響渡は、この間、合唱コンクールの話しあいをしていた時と同じように、うつむいてなにも言葉を発しないでいた。

「響渡、大丈夫?」

 私が声をかけると、響渡は静かに応えた。

「……別に、気にしていないよ。全部全部、ボクが普通の男じゃないせいなんだから」

 確かに、外見も声も一般的な男子とは違うけれど、響渡はれっきとした男子だ。でも、外見はともかくとして、まったく変化の兆しが見えない「声」に関しては、響渡自身にしてみてもかなり強いコンプレックスになっているのだろう。他の男子がみんな声変わりを終えてもなお、響渡にだけは声変わりがきていないのだから。強がっているように見えても、内心では相当に傷ついているはずだ。

 それなのに、私は響渡になにひとつ手助けをしてあげられない。ただでさえ男子と女子で声質が違う上に、私たちの年ごろというのは、男子と女子が一緒にいるだけであらぬ噂を立てられてしまうものだ。幼馴染の響渡となら別に構いはしないけれど、響渡が私をどんなふうに思っているかまではわからない。

「元気だして、響渡。響渡だっていつか、あの男子たちを見返してやれる時がくるよ」

 私の言葉に、珍しく響渡が食いついた。

「……本当?」

 私は努めて明るい表情を作り、応える。

「本当だって。響渡には響渡の強みがあるんだからさ。どこかで必ず見返す時がくるよ」

 私の言葉を聞いた響渡は、微かに笑った。

「ありがとう、律。ボク、負けないから」

 その笑顔を見られただけで十分だ。私は響渡と並んで自転車を押し、家へと帰った。


 それから一ヶ月近くの間、合唱コンクールに向けた練習は続いていった。歌澄と続けていたソロパートの練習もだいぶ形になってきたため、私は途中から歌澄の力を借りずに練習をするようになった。ただし、伴奏がないと少しだけ不安だったために、ピアノ伴奏担当の千愛の力を借りてではあったけれども。

 合唱コンクールの本番が三日後に迫る中、私はソロパートの練習を続けていた。やはりソロパートがきれいに決まらないと、曲として映える感じがしないので、うまく歌い切りたいと思い、空いた時間を練習に使った。

 この日だけで何回めになったかわからないくらい、同じ部分を延々と歌っていたので、のどが渇き始めていた。そろそろ休憩だ。

 ピアノ伴奏をしてくれていた千愛へと、

「千愛、ちょっとだけ休もうよ。千愛もピアノを弾きっぱなしだし、休んだ方がいいよ」

 そう声をかける。千愛はうなずき、こちらへ歩いてきた。千愛が楽しそうに口を開く。

「中川さん、すごく上手になったよ。みんなが中川さんを選んだのは正解だったかもね」

 音を聴き分けるのが得意な千愛にそういってもらえると嬉しく感じる。私は応えた。

「歌澄がきちんと教えてくれたおかげだよ。もちろん、練習につきあってくれた千愛のおかげでもあるから。ありがとうね、千愛」

 千愛は照れくさそうに笑みを浮かべた。

「このあとは全体練習だね。ようやく全員の歌声が聴けると思うと、なんだかわくわくする。わたしは聴くだけなんだけれどもね」

 私としても、初めて全員の前でソロパートを披露する時がきたのだ。緊張はするけれども、がんばってやり遂げるしかない。選ばれなかった歌澄の分までもやりきりたかった。

「あ、そうだ。中川さん、そろそろお昼ごはんにしない? のどにいいお茶を持ってきたから、それを飲んでいい歌を聴かせてよ」

 私はうなずき、バッグからお弁当を取りだす。千愛はお弁当の他に水筒を取りだした。

 千愛は水筒のふたを開け、中身のお茶をカップに注ぐ。どんなお茶なのかが気になったけれども、千愛が「のどにいいお茶」といっていたのだ。よく効いてくれるに違いない。

「じゃあ、お茶をごちそうになるよ、千愛」

 私は千愛にそういって手をあわせ、カップの中身をあおった。ウーロン茶のような味がするお茶だ。ちょっと濃いめに煮詰めてあるのか、風味が強く感じられた。このお茶がどのようにのどに効くのかはわからないけれども、きっといい声をだすのに役立つだろう。

「ありがとう、千愛。全体練習もお互いにがんばってゆこう。私、がんばってみせるよ」

 千愛はお弁当を食べている最中だったためか、どこか苦笑いのような表情を浮かべ、

「うん。午後の練習を楽しみにしているよ」

 それだけを応えてくれた。私の中でますます、がんばってみせようという気持ちが膨れ上がる。みんなに託されたソロパートを、いちばんの形で聴かせてあげたかったのだ。


 午後に入り、いよいよ全体練習が始まる。

 指揮台に上がった響渡は、小柄な体格が相まって、あまり指揮者っぽくは見えない。そもそも、声をバカにされて指揮者を選ばざるをえなかったのだから、仕方ないだろう。

 それでも、響渡の指揮にあわせて千愛がピアノを弾きだすと、みんなきちんとそれぞれのパートにあわせるように声をだしていた。もちろん、私たちソプラノも同じだ。ソプラノは主に歌澄が中心になって歌っている。

 やがて、最後のソロパートへと差しかかった。バスから順に、テノール、アルトと続いて、最後に私がソプラノのソロパートを歌って締める。ソプラノが映えれば、非常にきれいなできになるのがこの曲の特徴だった。

 私の歌う番になる。しかしその時、のどの奥にわずかな引っかかりのような違和感を覚えた。声がかすれ、響渡が指揮を止める。

「いまの所をもういちど。少しかすれた」

 響渡が珍しく私に指示をだすので、私はもういちど同じ所を歌った。だが、先ほどよりも声のかすれがひどくなった。私自身でもこれはおかしいと思ったけれども、響渡に、

「ごめん。いまの所、もういちどいい?」

 そう訊ねる。響渡は首を縦に振り、指揮棒を動かしだした。千愛の伴奏が響き渡る。今度こそはと思い、私は全力で声をだした。

 だがその時、不意に声が詰まった感じを覚えた。うまく声がだせない。でてくるのは、がさがさにかすれた声とせきだけだった。

「律!」

 珍しく大声を上げた響渡が私の所へ駆け寄ってくる。その間、私はせきを繰り返した。

(なんで? こんなに声ががさがさにかすれるなんて、いままでいちどもなかったのに)

 わけがわからないままで、私は激しくせき込む。お昼に食べたごはんを戻しそうになったけれども、ギリギリの所で耐えきった。

「保健室に行こう。明らかになにか変だよ」

 響渡の声が聞こえる。私は首を縦に振り、響渡の華奢な肩にもたれかかる形で歩いた。

 ピアノの近くから、千愛が青ざめた表情でこちらを見ている。歌澄もどこか心配そうに私のことを見つめている。なにか大変な事態が起きてしまったような、そんな気がした。


 響渡に連れられて保健室へと向かい、養護教諭に診てもらった所、私ののどはかなりひどいレベルに荒れているとのことだった。

「無理をしすぎたのもあると思うけれど、これは普通の荒れ方じゃないわね。高い声や大声はしばらくだせないわ。合唱コンクールのソロパートをやるって聞いているけれども、それは誰か代わりのひとに頼まないとね」

 養護教諭の無情な言葉に、私はがっくりと肩を落とした。響渡が養護教諭に訊ねる。

「先生、いまからでも間にあう方法はないんですか? あと三日しか残っていないのに」

 養護教諭は首を横に振り、静かにいう。

「現状を見る限り、ここで無理をしたら完全にのどが潰れて、一生ずっと声がおかしくなるわ。そうなったら大変よ。しっかり元通りになるまでは、のどを休めるしかないわね」

 なにかいいたかったけれども、その言葉すらもがさがさにかすれて声にならない。響渡が懐からメモ用紙とシャーペンをだしてくれたので、私はそれに伝えたい言葉を書いた。

〈諦めるしかないっていうことですか?〉

 養護教諭は残念そうにうなずき、応える。

「そうなるわね。こればかりは仕方ないわ。じゃあ、少し職員室に行ってくるから、静かに休んでいて。大きな声はださないでね」

 そういって、保健室からでていった。あとには私と響渡だけが残され、沈黙が流れる。

 不意に、響渡が悔しそうにつぶやいた。

「ごめん、律。律の調子がよくないのに気づけなくて、こんなことになってしまって」

 私はすぐにメモ用紙へ走り書きをする。

〈響渡のせいじゃないよ〉

 メモ用紙を見た響渡が、目を見開いた。私は少し長い文章をメモ用紙に書き、見せる。

〈本当は最初から気づいていたよ。歌澄がソロパートに選ばれていたら、こんなことにはならなかったはずだって。それに、傷つけてしまった相手は、歌澄だけじゃないからさ〉

 その時、保健室の扉が乱暴に開かれ、ひとりの少女が息を切らして駆け込んできた。私はその少女に向けて、無理やり声をかける。

「……そうだよね、千愛」

 がさがさにかすれてしまった私の声を聞いた千愛は、私のもとへ駆け寄ってくると、涙を浮かべながら私の手を取り、謝ってきた。

「中川さん、ごめんなさい! わたしが中川さんに飲ませたお茶、あれは煮詰めたウーロン茶だったんだよ。ウーロン茶はのどの脂分を流しちゃうから、歌う時に飲むとどんどん声がでなくなるの。本当にごめんなさい!」

 泣きじゃくる千愛に、私は走り書きのメモ用紙を見せた。千愛の泣き声が大きくなる。

〈わかっていたよ。歌澄のためなんだよね〉

 千愛はまだ涙を流しながらもうなずいた。

「……歌澄、おばあちゃんが昔に音楽の先生をしていたんだって。それで、ついいってしまったらしいんだ。合唱コンクールでは自分がソロパートを歌うんだ、って。それなのに中川さんが選ばれちゃったから、わたしがどうにかしたくて……歌澄、泣いていたし」

 歌澄やみんなにとって、中学校最後の合唱コンクールになる今回は、歌澄には最高の舞台になるはずだったのだろう。だけど、私がソロパートに選ばれてしまったせいで、すべてが崩れてしまった。千愛はそんな状況をどうにかしたくて、私ののどを潰す作戦にでたのだ。歌澄がソロパートを歌えるように。

 その時、再び保健室の扉が開き、今度は歌澄が入ってきた。どこかショックを受けたような表情を浮かべている。まさか、千愛がこんなことをするとは思わなかったのだろう。

「律……声がでなくなったって、本当?」

 私は歌澄に対して、かすれた声で返す。

「……本当。こんな声じゃ、ソロパートはまず歌えないよ。他のパートも無理だけどね」

 メモ用紙にさらっと走り書きし、見せる。

〈それでなんだけれどもね。ソロパートの代役を誰に頼むかという話になるんだけれど〉

 歌澄はバツが悪そうに、私から目を逸らした。自分の身勝手のせいで、仲間から選ばれたソロパートを潰してしまったことに対し、相当に重たい責任を感じているのだろう。

 代わりに、千愛が私に話しかけてくる。

「でも、どうするの? 中川さんと歌澄以外には、ソロパートの練習をしていた仲間はいないんだよ。みんなから選ばれた中川さんができなくなった以上、歌澄しかできないと思うけれど……歌澄、嫌われているからね」

 その言葉に、歌澄が肩を落とした。どれだけ自分が仲間から嫌われていたのか、ようやく気がついたみたいだ。自分がソロパートを歌いたいがために私に無理をさせたのも、本当にひどいことをしてしまったのだと思っているようだった。気まずい沈黙が落ちる。

 こんな形で、私たちの合唱コンクールが危機を迎えるとは思ってもみなかった。ましてや、中学校最後の合唱コンクールなのだ。いちばんの思い出にしたいのに、それぞれの考えがすれ違ってしまったせいで、誰にとっても得にならないという、最悪に近い事態になってしまった。みんな表情が暗いままだ。

 不意に、歌澄が小さく泣き声を上げた。その泣き声はだんだん大きくなり、私たちのこころを揺らしてゆく。歌澄は泣きながら、

「みんな、ごめん……あたしが自分勝手だったせいで、全部を台無しにしてしまって……あたし、パートリーダー失格だよね……」

 私はメモ用紙に走り書きをして、見せる。

〈仕方がないよ。歌澄には歌澄の事情があったんだから。そればかりは責められないよ〉

 歌澄がびくりと肩を揺らす。私がまったく歌澄を責めていないことに、驚いているみたいだ。歌澄は涙を拭いつつ、静かにいう。

「どうしよう。あたしじゃダメだし、律は声がでなくなったし、千愛は伴奏をしないといけない。誰がソロパートを歌えばいいの?」

 再び沈黙が落ちる。確かにその通りだったからだ。他に高い声を持っていて、ソロパートも把握しているひとがいるのだろうか。

 その時、私の脳裏をあるアイディアが駆け抜けていった。とっさにメモ用紙を取る。

〈ねえみんな、こんな案ならどうかな?〉

 私はメモ用紙にその案を書いた。三人の視線が集まる。みんな、驚いたように目を丸くしていた。特に歌澄の驚きが大きかった。

「これ、本当にやってみて大丈夫なの?」

 歌澄は私に問いかける。私は微笑みながらメモ用紙にペンを走らせ、短い文を書いた。

〈大丈夫だよ。ちょっと驚きかもしれないけれども、これがきっといちばんいい案だよ〉

 私の書いた言葉に、歌澄はうなずいた。

〈あとはみんなの承諾がもらえるかどうかだよ。そのあたりは歌澄に任せる。頼んだからね、パートリーダー。楽しんでゆこうよ〉

 私の書いたメモ用紙を胸に抱いた歌澄は、これまでに見せなかったくらいに、きれいな笑みを浮かべていた。きっと、ソプラノの他のみんなをきちんと説得してくれるだろう。

 千愛は私に対してまだ罪悪感を覚えているみたいだったけれども、自分の果たすべき役割をしっかりと認識したのか、私の両手を握り、歌えない私の分までがんばるという意志を見せてくれた。これなら大丈夫だろう。

 そして響渡は、私が先ほど提示した案について、思いを巡らせているみたいだった。

 しばらく前に響渡へかけた言葉が、私の中でリヴァーヴを起こしている。その言葉が、もしかしたら本当になるかもしれないのだ。

『元気だして、響渡。響渡だっていつか、あの男子たちを見返してやれる時がくるよ』

 きっと響渡もいま、あの時の言葉を頭の中で繰り返している。響渡はいま、自分自身にとっていちばんの悩みだった部分を、強みに変えようとしている所なのだ。まだ少しだけ迷いを見せているみたいではあるけれども。

 私の案がうまくはまってくれたなら……響渡は自分の中で、殻を破ることができる。響渡をバカにしていた男子たちに、目にもの見せられる。私はそれを信じてみたかった。

 やがて、響渡がこちらを向いていった。

「わかった。律の考えた案で行こう。みんながそれで納得できるのなら、ボクもそれに従うよ。みんなでいちばんの合唱をしよう」

 響渡はその小さな手を握りこぶしにして、私たちの目の前に突きだしてくる。そこに涙を拭った歌澄が、同じように握りこぶしを重ね、ピアノを弾くひとの手とは思えないほどに小さな、千愛の握りこぶしも重ねられる。私が握りこぶしを重ねた所で、それぞれに強く力を込めた。ちょっと痛かったけれども、これが私たちなりの結束の形なのだと思い、とても嬉しい気分になった。合唱コンクール当日もきっと、この結束は乱れないだろう。


 そして、合唱コンクールの当日になった。

 私はもちろんのこと、響渡にも歌澄にとっても、それぞれに納得のゆく形でこの日を迎えられたことがとても嬉しい。これならば最高のパフォーマンスが披露できるだろう。

 私がソロパートを歌えなくなったことはすでに男子にも伝えていたけれども、代役を誰が担当するのかはまだ教えていない。その方がおそらくサプライズ感がでていいのではないかと、ソプラノのメンバーの意見が一致したからだった。このあとまでは、秘密だ。

 前のクラスの演奏が終わる。いよいよだ。

 指揮者として最後尾に座っている仲間に向けて、走り書きをしたメモ用紙を見せる。

〈いよいよ私たちの出番だね。がんばろう〉

 その子は私の方を向くと、微かに笑みを浮かべながら、小さな声でひと言だけ応えた。

「うん」

 その直後、司会を担当する音楽の先生のアナウンスが体育館いっぱいに響き渡った。

「では、最後のクラスの発表になります。三年D組のみなさん、準備をお願いします」

 アナウンスが終わると同時に、バスを担当する男子から順番に、私たちはステージへと上がった。私のあとから指揮者が登壇する。

「指揮は鳴子響渡くん。伴奏は十和田(とわだ)千愛さんです。それでは、三年D組の発表です!」

 指揮台の上で響渡が観衆の方を向き、深々と礼をした。体育館全体から拍手が起こる。響渡は私たちの方へ向き直ると、少しだけ緊張したような面持ちで、指揮棒を構えた。

 響渡が静かに指揮棒を振りだし、それにあわせて千愛のピアノ伴奏が始まる。最初のメロディーを歌うのは、私たちソプラノだ。

 歌澄のよく通る声に引っ張られ、ソプラノのきれいな歌声が響いてゆく。徐々にアルトやテノール、バスが重なり始め、やがて私たちの歌声はひとつに溶けあった。いままでの練習でいちども聴けなかったくらいに、美しいハーモニーになっているのがわかった。

 声がだせない私は口パクでしか参加できないけれども、それでも構わない。一緒に練習してきた仲間たちの歌声を、すぐ近くで聴いていられるだけで、十分に嬉しいからだ。

 そして最後の見せ場、それぞれのパートのソロが始まる。バスのパートリーダーの男子が、低く太く響く声でソロパートを歌った。ソロパートを歌った男子に拍手が送られる。

 続いてテノール。女子のそれほどではないけれども、軽やかで聴き心地のよい歌声に、またしても拍手が起こった。アルトもしっとりとした歌声で、観衆を惹きつけてきた。ソロパートには千愛の伴奏が花を添えている。

 次がついにソプラノのソロパート。最後のサビに当たる部分だ。観衆の視線が集まる。

 歌澄が一歩だけ前に踏みだす。おそらく誰しもが「やっぱりか」「つまらない」「なんであんな奴が」と思ったに違いなかった。

 しかし、歌澄はさっぱりとした笑顔を浮かべて、指揮台の上を指さしただけだった。

 直後、それまで指揮をしていた響渡がくるりと観衆の方を向き、ソロパートを歌った。その歌声に、観衆だけでなく、一緒に歌っていたクラスメイト、特に男子たちから大きなどよめきが起こった。みんなが目を丸くしているのを見つめて、私は嬉しくなった。

 響渡の歌声は、歌澄よりも、そして私よりもはるかに高く、透明に澄み渡っていた。まるで本業のソプラノ歌手みたいに、どこまでも響いてゆくような、きれいな声だった。

 男子の声域がだせないのなら、女子のパート、しかも普通の男子にはまずだせないであろう、ソプラノを歌ってしまえばいい。それが私たちのだした、いちばんの答えだった。

 観衆の側を向いている響渡の表情は見えなかったけれども、きっと笑顔で歌っているだろう。いままで「声」がコンプレックスでしかなかった響渡にとって、最高の強みが生まれた瞬間なのだから。私はそれを信じたい。

「ララーラー……ララーラー……ラー……」

 響渡が最後のメロディーを歌い終える。

 体育館全体から、この日いちばんの大きな拍手が、素敵な歌声を持つ少年に送られている。私たちの方へと向き直った響渡は、私が思った通り、滅多に見せない笑顔だった。

(きみの「声」がキセキを起こしたんだよ、響渡。これからも自信を持ってがんばって)

 指揮台の上で弾けた、幼馴染のきらめくような笑顔を、私はきっと忘れないだろう。


〈了〉

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