仙人
あべせい
仙人
「では、他人の心を読む術。それをいまから、あなたに伝授しましょう」
ここは、東京都の外れ、隣県との境に接する国道沿いの古びた賃貸マンションの一室だ。
古びたといっても、並みの古さではない。
築60年以上という代物で、すでに解体が決まっていて、入居者は2人きり。そのうちの1人が、いま声を出した老人だ。
彼が話している相手は、もう1人の居住者の男性、名前は「タチ」。
解体が決まっているのに、解体工事はまだ始まっていない。それは、建物の所有者と土地の所有者が異なり、更地にした後の土地の利用方法をめぐり、もめているためだ。
所有者が異なるといっても、2人は父と娘。マンションの所有者が父で、その娘がマンションの敷地の所有者である。父親が、解体後は、そこに50階建てのタワービルを建てるといえば、娘は、東京ドームの、10分の1程度の土地だが、童話の主人公が中心の、テーマパークを開設したいと考えている。
マンションの解体が決定してから、3年が経つ。80世帯余りいた入居者は転居先を求め、次々と出て行った。
2室を除き、入居者が退去してほぼ1年が経過したとき、ライフラインがストップした。勿論2室に通知してのことだが、電気、水道、ガスが全く来なくなった。
それでも2室の居住者は、退去しない。ひとりは最上階の11階に住む、冒頭の老人。もう1人は、その真下、10階に住んでいる30代半ばのタチだ。彼には、かつて妻も子どももいた。
しかし、妻と2人の子どもは、新幹線で2時間余りかかる妻の実家に戻った。すなわち、彼の妻は、転居の必要ナシという夫に愛想を尽かし、離婚という選択枝を選ンだのだ。
電気が来ないから、エレベータは動かない。そのことが、彼の妻に離婚を決めさせた最も大きな要因だった。
タチには「立端士朗(たちはたしろう)」という立派な名前がある。しかし、老人とつきあいだしてからは、ただ「タチ」と名乗るようにした。老人の名は「泉仁(せんじん)」。これも異名であり、戸籍上は「箸蔵千児(はしくらせんじ)」。
ライフラインが来なくなってから2年が経つ。しかし、2人の暮らし向きには、あまり変化がない。水は、20リットル用ポリタンク1つを持ってマンションから徒歩5分余りの公園に行き、水道水を詰めて来て使う。飲み水をはじめ、食器洗い用、水洗トイレ用などに、だ。ユニットタイプの浴室はあるが、浴槽を満タンにするのはたいへんなので、その際はもう1度公園の蛇口で20リットルタンクを満たして、空の浴槽に入り、そのなかでタンクの水を使い、体を拭くことですます。それ以外に、半年に1度だけ、銭湯に行く。
料理用の火は携帯コンロ。明かりは消費電力が少ないLED電球のランタンを天井から1個吊るし、手元にもう1個を置いて、乾電池で灯している。
この方法は、泉仁老人とタチが2人で徐々に情報交換しながら、思いついたやり方だ。だから、2人の生活の仕方は、ほとんどといっていいくらい、似通っている。
不便がないとは言えない。電話は携帯電話があるからいいが、中古のパソコンは充電池の容量が小さいため、すぐに使えなくなる。このため、懇意にしている近所のガソリンスタンドでその都度充電させてもらうのだが、ここに新たな問題が発生している。というのも、そのスタンドの店長をしている女性とタチがややこしい関係になりつつあり、師匠の泉仁は2人の関係が発展しないうちに、と目下、別の充電先を探している。しかし、これがなかなか見つからない。
ガソリンスタンドの店長は、年齢32才。結婚歴はなく、男嫌いとして評判の美女だ。
泉仁とタチは元々親しかったわけではない。入居者が次々と転居していくなかで、2人だけが取り残されたため、自然と口をきくようになったに過ぎない。
だから、最初から師匠と弟子の関係ではなかった。そういう関係になったのは、タチが、ガソリンスタンドの店長、可曽美(かそみ)を見初めたのが始まりだった。
可曽美は男なら振り返りたくなるほどの美形。35才バツイチのタチは、いまだ可曽美を誘ったことがない。誘えないのだ。それには理由がある。
タチが彼女の好みのタイプというのでは決してない。タチが乗っていた車のせいだ。人気のスポーツカーだった。勿論、タチの車ではない。たまたま、ガソリンを入れてきてくれと頼まれた、高校時代の同級生の車だ。ツーシーターで、色も可曽美の好きなイエローだった。
タチは、そのスタンドに初めてその車を乗り入れたとき、遠くにいた可曽美が、車に引かれたのか、駆けるようにして寄って来て言った。スタンド自体、小規模で、店員は可曽美を除くと、2人しかいない。1人が休むと、可曽美が店員と2人で切り盛りしなければならない。
「満タンですか?」
友人は金の持ち合わせがないので30リットルだけでいいと言ったが、タチは初めて会った可曽美のふるいつきたくなるようなボディを見て、つい、
「満タン!」
と言ってしまった。しかし、金は30リットル分しか、預っていない。しかも、ガソリンは、満タンで45リットルも、入ってしまった。
タチは、不足する15リットル分の金、約2千円をどうしたものかと、そのとき頭脳をフル回転させた。そのとき、タチは日頃話をしている11階の老人の顔を思い出した。
老人は日ごろ、口癖のように言っている。
「困ったときは、周囲をよく見ろ。きっと何かが見つかるはずだ」
と。ただ、なぜか、その可曽美のいるガソリンスタンドには近付くなと警告していた。
タチは藁にもすがる思いで、車内を見渡した。すると、運転席の座席の下にカードがあった。それは、まぎれもないクレジットカード。持ち主がうっかり落としたのだろう。
彼の財布の中には、現金は硬貨しかない。タチは躊躇なく、
「これで……」
と言って、可曽美にカードを差し出した。これは犯罪か……。
可曽美が事務所に行き、精算している間、タチの頭の中は、こみあげてくる不安がグルグルと渦巻き、生きた心地がしなかった。
ところが、可曽美はすぐに戻ってくると、笑顔で、
「はい、サンジさん」
と言って、カードをタチに戻した。あとでよォくカードを見ると、所有者の氏名として、「YAMAI SANJI」とあった。15、6年も昔の高校時代のことで名前ははっきり覚えていなかったが、ヤツの名前は「山井」だったのか。タチには山井との思い出が全くなかった。
その後、タチは可曽美と1度、スタンド帰りの彼女とすれ違っている。
「きょうは車じゃないの?」
と聞かれたから、
「いま修理に出しています」。
こんなウソがすぐに出るのは、タチが元来ウソ付きだからなのだろう。
可曽美のいるガソリンスタンドに行きたいが、会いたくても乗りつける車がない。車の所有者である山井は、1週間後その車で事故ってしまい、あの世に行ってしまった。
そして、以後、タチはカードを使うことなく、集合郵便受箱の自分用の箱の奥にそのカードを隠した。
盗難届けが出ていれば、例え持ち主が死亡しても、問題にはなるだろう。まァ、そのときは、拾って、そのまま忘れてしまったとでも言い訳するか。元々はあの車の中にあったのだから、こちらに責任はない。タチはこんな論理で自らを納得させていた。
しかし、可曽美に会いたい。会って話がしたい。そういう気持ちが募って、タチはDVDのレンタル店でバイトをしていても、ミスを繰り返すようになった。
山井の死亡記事を新聞で見た数日後、タチより、古いだけで年下の店長から、帰り際、「これ以上、ミスが続くようでは、やめていただくしかありません」
と言われ、タチは力なくマンションの玄関をくぐった。
すると、泉仁老人が埃とゴミだらけの階段周辺をうろうろしている。
タチはそのまま行き過ぎようとしたが、他人のカードを使ったことが負い目になっていたのだろうか。つい、声をかけてしまった。
「どうかされたのですか?」
「いや、カードをなくしたらしくて……」
「カード!?」
タチは一瞬、耳を疑った。あのクレジットカードは、泉仁老人のものだったのか。ありえない。山井の車の中にあったのだから。
すると、老人は痴呆、それもかなり重症の痴呆ということになる。
「アッ、そうだ。いや、あなた、タチさん、いや立端士朗さん…」
タチは慄然とした。いつも「タチさん」としか呼ばれないのに。老人はおれのフルネームを知っている。階段脇の集合郵便受箱には、部屋番号しか書いてない。なのに、どうして、わかったのだ。
タチは薄気味悪くなり、無言のまま、老人を見つめた。
「私があなたの名前を知っていることに驚かれているようだが、郵便受に届く役所からの封書の宛名を見ただけです。違法なマネをしたわけではない」
なるほど。そうか。そう言えば、住民税の督促状が来ていた。
「立端さん、先日、あなたがお使いになったクレジットカードの持ち主がわかりました。それで、探していたところです」
「エッ!?」
言っている意味がわからない。この老人は、おれがこっそり他人名義のカードを使ったことをどうして知っているのだ。しかし、老人は、何かの手蔓で知ったのだ。ここでしらばっくれていると妙なことになる。タチはそう思い、
「あのカードでしたら、郵便受に……」
と言うと、老人が鋭い目付きで振り向いた。
「そうだ。この前、ここですれ違ったとき、あなたは郵便受を気にしていた。それで、わたしはあなたがカードをこの辺りに置いたのじゃないかと、この付近のゴミを取り除いて探していたンです。そうですか。郵便受ね。じゃ、わたしに渡していただけますか?」
タチは「1005」と表示のある郵便受の扉を開けた。以前、居住者がたくさんいた頃は、チラシの類いでいっぱいだったが、いまはチラシ配りにも見放されたのか、中は空っぽ。カードがあるようには見えない。ただ、受け箱の奥のほうに、葉書大のアルミホイルが敷かれている。
それを見た泉仁老人は、ようやく思い当たったようすで、
「そうか。そのアルミ箔が私の透視の邪魔をしたのか」
タチは、観念した。アルミ箔をめくり、その下に隠しておいたクレジットカードを取ると、老人に差し出した。
「そォ、これこれ。このカードの持ち主がだれか、ご存知でしょう?」
「エッ?」
タチと高校時代同じクラスだった「山井監事」だ。すると、老人が、
「この山井という方は、先日私のところに、ある相談に見えられたのですが、その帰り際、ポケットからこのカードを落とされたようなのです……」
ということは、山井は老人の部屋に行く前に、マンションの玄関でタチを見つけ、ガソリンを入れてくれと頼んだことになる。
老人の話は続く。
「私のところに最初来られたときは『山井』ではなく、『居山』と名乗っておられた。何か事情があって、本名が言えなかったのでしょう。ところが……」
ところがッ! 何ごとだ。ガソリンスタンドでカードを使った事がバレているのか。タチは、それだけが気がかりで、老人の目を見つめた。
「昨日、警察の方がおひとり見えられて、「山井監事」という人物について、いろいろと聞かれました。山井という方は、3日前、高速道路を走行中に、中央分離帯に激突して急死されたというのです。しかも、彼の車の中から、違法薬物が大量に発見されたため、死亡前後の足取りを追っているとのことでした」
山井監事は犯罪者だったのか。タチはそんなこととは知らず、彼の名前をカタり、可曽美に接近しようとしている。もう、やめだ。本来の立端士朗に戻ろう。可曽美には、友人に頼まれてガソリンを入れた、と正直に言えばすむことだ。
「ですから、このカードは証拠品として、警察に届けなければなりません。まさかとは思いますが、あなたは、このカードを使ったということはないでしょうね」
「い、いいえッ、そんなこと……」
と言ってから、タチは、どうせバレるのなら、正直に話したほうがいいか、と思い直した。
しかし、よくよく考えてみると、タチが山井に頼まれてガソリンスタンドに行ったのは10日前。山井の死亡は3日前だ。山井が自分でガソリンスタンドに行ったことにしておいても問題はない。警察だって、そこまでは調べないだろう。ただ、あの可曽美がどう証言するか、だ。
タチ、いや士朗は、「山井」という男をよく知らない。高校時代の山井は、金持ちのぼんぼんという印象しかなく、ほとんど話をしたことがなかった。山井の家の事情も知らない。
10日前の正午頃、マンションの玄関で集合郵便受箱を見ていると、外からやってきた。珍しいヤツが来たと思っていると、
「よォ、久しぶり。ガソリンスタンドがこの近くにないかな?」
名前はすぐに思い出せなかったが、高校時代の同級生だということは覚えていたが、何か、心に引っかかるものがあった。
「スタンドなら、2分も走れば……」
「じゃ、申し訳ないけれど、おれ、このマンションで用事をすませている間、これで入れてきてくれないかなァ。お礼は後でするから。ちょっと急いでいるンだ。悪い……」
士朗はそう言われ、差し出された3千円を受け取り、引き受けた。そして、車内で見つけた山井のカードでガソリンを満タンにしてマンションに戻ると、山井が玄関で待っていて、
「ありがとう」
とだけ言うと、車のキーを受け取り、そのまま走り去った。
「お礼は後でするから……」という言葉に釣られて引き受けたのに、あの男は「ありがとう」の一言で片付けた。単に忘れたのか。お礼をするつもりなど、ハナからなかったのか。そして、その7日後、高速道路で事故死している。
士朗は、だから、カードを使ったことに、あまり後ろめたさを感じなかった。あのカードがあの男のものだったら、尚更だ。
「立端さん、ちょっと私の部屋に寄りませんか。このカードのことで、お話したいことがあります」
老人はそう言って、階段を登り始めた。エレベータはあるが、解体が決まってから電力が供給されていないから、11階までは歩くしかない。これが何よりも、いちばんつらい。妻がいやがったのも頷ける。
士朗は10階。老人はまだその上の11階まで上らなければならないのに、息を切らすことなく、同じ足取りで階段を上っていく。
「箸蔵さんは、毎日部屋の掃除をされているンですか」
士朗は、この日初めて老人の部屋を訪れたのだが、余りにも整然としているのに驚かされた。
これまでにも2人きりの居住者として老人を訪ねているが、いつも玄関先で話をすませていた。
間取りは、3DK。1人には広過ぎるが、このマンションの標準的な住まいだ。
「ここに座って。いまお茶を淹れるから……」
泉仁老人は畳敷き6畳間の座卓の前を勧め、自分はキッチンに消えた。まもなく、いい香りがしてきた。
と、
「きょうはあまりいい豆がなくて、まァこれで我慢してもらいましょうか」
と言って現れ、卓に陶製のコーヒーカップを並べた。カップからは湯気が立ち上り、うまそうなコーヒーの香りが漂って来る。
「いただきます」
タチは一礼してから、伊賀焼を思わせる渋い茶色のカップを持ち、口に運ぶ。うまいッ! うなりたいほどの味だが、タチは敢えて表情を変えなかった。いまから、何が始まるのか、その不安が大きいからだ。
「立端さん、このカードは盗難品です。ですから、使うと罪になります」
老人は、自らもうまそうにコーヒーを飲みながら話す。しかし、話していることは穏やかではない。
「盗まれたカードだと言うンですか。ぼくはマンションの外で拾っただけです」
タチは事実を言うのは、まだ早過ぎると感じている。
「先にも言いましたが、ここに刑事がひとりやって来て、もしカードが見つかったら寄越すように、と言いました。しかし、あの刑事は偽物です」
「エッ、ニセ刑事ですか!」
どうなっているンだ。
「立端さん、あなたはご存知だったンでしょう。亡くなった山井さんには、双子の弟さんがいることを……」
双子!? そうか。このマンションの玄関でやつと15、6年ぶりに再会したときの違和感は、やつには双子の兄弟がいることを、意識下で思い出していたためなのか。
タチの同級生は、先に生まれた兄の監事で、後にうまれた弟は、違うクラスにいた。監事の弟の名前は「参事」。双子なのに、性格が対照的だった。
監事は生意気でいつもいきがっていたのに対して、弟の参事は大人しく、何事にも控え目だった。恐らく、両親の子育てに問題があったのだろう。
そうだッ! カードの名前は、「YAMAI SANJI」だった。監事は弟のカードを無断で使っていたのか。
「ところがです。事故で亡くなったのは、山井監事ではなく、弟さんの山井参事ということがはっきりしました」
「エッ、待ってください。ちょっと……」
タチは、頭が混乱した。新聞の地方版だが、事故で死亡したのは、「山井監事」と記されていた。
「山井家は半年前に、当主の山井季一郎が亡くなり、その遺産相続が行われました。相続権を持つのは、2人の息子だけ。2人の母親はすでに亡くなっています。ですから、2人は仲良く、父親の遺産を等分した。遺産の中身は、土地と、ここと同じ規模の賃貸マンションで、現金に換算すると、ほぼ2億円ほど。ですから、2人で1億円づつ手に入れたことになります」
タチは、老人の話を聞いていて、不思議な気がしてきた。この老人は、どうして、身内でもないのに、他人の家の事情にこんなに詳しいのか。
そうかッ。「監事」は交通事故で死亡する1週間前、このマンションに来て、老人に会っている。そのとき、いろいろ打ち明けられたのか。
「あなたの、ご想像通りです」
「エッ。ぼくは何も言ってないのに……」
わかるのか。おれが何を考えているのか、この老人には……。
「もう隠していてもしようがないからお話します。私は、このマンションの所有者で、山井家とは、この辺りが田畑で埋め尽くされていた頃からのおつきあいです。季一郎が亡くなったとき、遺産相続でもめるのではと心配しましたが、監事と参事は仲良く2等分した。しかし、監事は浪費家だ。賃貸マンションを処分して得たお金は、半年で使い果たした。それで、私のところに来て、『金を貸して欲しい』と言いました。私にはこのマンションしかない。預貯金は余りありません。そう返事をすると、彼はガソリンスタンドを経営している娘に会いに行ったようなのです」
「エッ……ガソリンスタンド、って、可曽美さんの?」
老人は頷く。
待ってくれッ。士朗は、わけがわからなくなった。
このマンションの解体が遅れているのは、建物の所有者と土地の所有者が異なり、更地後の土地利用をめぐってもめていると聞いている。だから、士朗はまだここで暮らせているのだ。
泉仁老人と可曽美が親子なら、難しい話ではないはずだ。話し合いはつくだろう。
「ところが、あの娘は頑固で、なかなか譲ろうとしない。つきあう男が次々と逃げて行くのも仕方ありませんが、妥協ということを知りません。本来ガソリンスタンドの土地建物は私の所有だったが、娘の生活を考え、娘に生前贈与しました。このマンションの土地もそうです。私は先が長くないから、マンションの建物だけを所有することにして、その家賃収入で暮らすことにしたのですが……、なかなかことは思ったようには運ばない。そのうち、私は妙な能力があることに気がついたのです。人間は、年を重ねると体質が変わると言われますが、私はある日目覚めると、突然、目の前の人物の心が読めるようになっていました」
「エッ、そんなことが……あるのですか!」
士朗は、老人が泉仁と名乗る理由が理解できたと思った。老人は泉仁ではなく、仙人のつもりで、泉仁と名を変えたのだ。
「泉仁」と書いて、「せんにん」と呼んで欲しいのだろう。
「これから、どうされるのですか? 師匠、ぼくにもお手伝いをさせてください」
可曽美という美女との結婚は無理だとしても、この老人にくっついていれば、生活に困ることはないはずだ。
「いいえ、そんな甘い考えでは困ります」
「エッ……」
士朗は、考えを読まれている。そう気がつくと、何も考えられなくなった。何も考えるなッ! そんなことを自分に言い聞かせても、できるわけがない。
「立端さん、あなた、可曽美と結婚してくださいませんか」
「エッ、そんなこと……」
おれはゲス野郎だ。他人名義のクレジットカードを無断で使って、知らんぷりを決め込んだ。両親は山形で健在だ。兄は2人いて、2人ともすでに結婚している。東京に出てきたのは、おれだけ。それには、両親がおれだけを、そのつもりはなかったのだろうが、ヒステリックな祖母に預けたため、おれは高校を出ると、家にいるのがいやで、すぐに故郷を飛び出した。
東京ではデザインの専門学校に通ったが、ものにならず、結局フリーターのまま、いまに至っている。
あと10年もすれば、実家でも相続の問題が起きるだろう。そのとき、おれは、両親に対する恨みを訴えるのだろうか……。どうして、あんな気違いじみた祖母に預け、幼いおれに恐怖心を植え付けたのか、と……。
「よォくわかりました。あなたの小さい頃のことは。もっともっと、言いたいことはおありでしょう。うちの娘も、あなたと同じような体験をしているようです。責任は父である私にあるのですが……。だから、士朗さん、あなたが腹を割って娘と話をすれば、2人はきっとわかりあえると思います」
「泉仁さん、あなた、本当にぼくの考えが読めるのですか」
老人は深く頷く。
「いつもいつもというわけではありませんが、きょうは特別に体調がいいらしい。だから、手に取るように、あなたの心が見えます。ところで、このクレジットカードですが……」
老人は、卓の上のカードを手に取り、
「監事は、弟の参事が高速道路で死亡したことを幸いとして、弟の身代わりになって、『参事』として、生きているはずです。監事は、参事の身元を確認する際、『山井監事』だと何食わぬ顔をしてウソの証言したのでしょう。ですから、探偵でも使って、このカードを手に似入れようとしている。亡くなった『参事』さんには、相続したほぼ1億円の資産がありますから、監事は必死のはずです……」
「泉仁さん、いや、仙人、ぼくにその心を読む術を教えていただけませんか。そうすれば……」
「可曽美が口説けるというのでしょう」
老人には何もかもわかっているようだ。士朗は、深く頭を垂れ、卓に両手をついた。
「では、他人の心を読む術。それをいまから、あなたに伝授しましょう」
仙人はそう言うと、この世のひととは思えない優しい笑顔で、士朗を見つめた。
(了)
仙人 あべせい @abesei
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます