第1章
シノ
世界一の美少女になるため、俺は紙おむつを
風呂あがりで汗をかいたのか、それとも水気をちゃんと拭き取れていなかったのか、裏面のふんわりエアリーシートが肌に張りついた。
体にフィットする速乾素材のTシャツを着る。
ペラペラな素材のバックパックを背負う。中にはハイドレーションパックを仕込んである。チューブをショルダーハーネスのクリップで留める。すこし首をひねれば飲み口に吸いつけるよう調節する。中身はただの水だ。本当なら地元名物のハトムギ茶を入れたいところだが、利尿作用があるので長丁場には向かない。
これで準備は完了。下半身おむつ丸出し、スポーティーな変態の誕生だ。
親には見せられないこの姿。VRやってるときは部屋に来るなと言ったら「最近のゲームはたいへんねえ」なんて言われた。「これはゲームじゃない」と何度言っても聞かない。
それは人生。あるいは暗黒の欲望。
部屋は片づけられていて、俺の動きを邪魔するものはない。家具といえばキャスターつきの椅子と壁に立てかけられた折りたたみマットレスくらいのものだ。服や仕事用の鞄はクローゼットに放りこんである。生活感なんてものは俺の子供部屋に必要ない。俺の生活は、こことは別の世界にある。
外部カメラから取りこまれた部屋の映像を背景に、アイコンが浮かんでいる。俺は手を伸ばしてその内のひとつをタップした。
目の前が白一色に塗り潰され、見慣れたロゴが回転しながら飛んでくる。
sublime sphere®
ログインしています・・・
一面の白が後方に流れていき、闇に包まれる。
おかえりなさい、シノ@SheKnows0125
闇の中に一人の少女が立っている。緑色の瞳がまっすぐに俺を見つめる。胸がドキドキする。俺はログインするたび、あらたな気持ちで彼女に恋をする。
彼女はゆったりと体を揺らしている。それに合わせて淡い紫色の髪も揺れる。鳥の羽根でできた髪飾りが架空の風を拾ってそよぐ。
でかいおっぱいが下着みたいな黒のビキニで覆われている。その上に丈の短いベストみたいなのを羽織っているが、おっぱいのボリュームのせいで前を閉じられるかどうかは不明だ。下はフリルつきのミニスカートにニーソ。足元は厚底サンダルだ。
今日はお出かけなので、指を虚空でスライドさせ、メニューを開いてコスチュームチェンジする。
白いブラウスと、肩ストラップのついた胸まで覆うタイプの黒いスカートにしてみた。デザインしてくれたぱおぱお氏は「サロペットスカート」と呼んでいた。ブラウスの透け具合は絶妙で、モデリングの腕にあらためて感心してしまう。
俺はニッと笑い、舌を出した。目の前の彼女も笑い、小さくてかわいい舌を出す。俺が右目をつぶると彼女もつぶる。HMDのセンサーが顔の動きをしっかり感知している。
グローブのはまった手を動かす。手首を曲げ、肘を曲げ、肩をまわす。指を一本一本動かす。目の前の彼女が俺の動きに追従する。
頭をすこし前に傾け、足踏みすると、彼女が歩きだす。俺はややガニ股だが、彼女は膝が外に向かず、女の子らしい歩き方に調整されている。ジャンプすると、彼女もジャンプする。スカートがふわっと舞いあがり、あらかじめ設定していたところまで太腿があらわになる。
声を出してみる。
「ボクって今日もカワイイ」
はいカワイイ。ボイチェンはいい文明。理想の声を出すため、アプリの数値いじるのに10日を費やした。変声期が一生に一度って誰が決めた?
これで事前のチェックは完了した。メニューを開き、「スタート」をタップすると、彼女が迫ってきて俺と一体化する。俺は実家暮らしのしがない会社員
周囲が明るくなる。殺風景な部屋の真ん中にシノは立っている。リアルの部屋では紙おむつおじさんが突っ立っていて、これは殺風景を通り越した何かなのだが、シノには関係ない。
彼女のいまいるホームスペースは中が殺風景なうえに窓からはとなりのビルの壁しか見えないクソ物件だ。無料で借りているから仕方ない。無料といえば、このサブライム・スフィアも利用は基本無料だ。俺は毎回心の中で「いいンスか、ホントに?」と言いながらログインしている。
ホームスペースは単なるリスポーン地点にすぎないので、速攻で外に出る。エレベーターで地上におりると明るかった。抜けるように青い空を鳥の群れが渡っていく。
通りはシノのホームスペースに負けず劣らず殺風景だ。むかしのポリゴンでできてるみたいなビルの谷間で、見るべきものは何もない。無料ホームスペースが集まる「貧民街」だから仕方ない。月額いくらの高級住宅街は街路樹があったり路面が石畳だったりでなかなかおしゃれらしい。俺はそんなところに住みたいとは思わない。VR空間に何を求めるかの差だろう。
俺の求めるのはもっとわかりやすい快楽だ。
歩道を行くアバターは金曜の夜ということもあってかなり多い。このあたりは女性アバター使いが集まる地域だ。皆リアルではありえない髪の色をして、キラキラしていて、それぞれにかわいい。
それでも俺はシノがいちばんかわいいと思う。気のせいか、通り過ぎる者たちがこちらに熱い視線を注いでいるように見える。
髪の処理とかガビガビな女性アバターがシノに近づいてきた。おそらくそこらに転がる無料モデルを拾ってきたものだろう。
「リアルでいますぐ会える女の子? だったらハッピーメイトVR!」
Tシャツの胸からマッチングアプリのホログラム広告が浮かびあがる。業者の使っている広告botだ。
シノはそれを無視してメニューを開き、無料のレンタスクーターを呼び出した。物質転送機で送られてきたみたいに、突如路肩に出現する。
スクーターにまたがり、走りだす。まわりに合わせてのんびり行く。VRであっても事故は御免だ。
視界の端に窓が開いて、メッセージやニュースが流れる。
購入履歴からのおすすめ
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サブライムから、俺のクローゼットを監視しているのかというジャストなタイミングでおすすめされたので、紙おむつを注文する。
サブライム・スフィアの運営母体であるサブライムは世界最大のEC企業だ。SNSのサブチャットや動画投稿配信サービスのサブストリームも運営している。サブライム・スフィアがローンチされると、それらの各種サービスは統合され、すべてVR空間内で利用できるようになった。もちろん本家サブライムでの買い物もスフィアの中で行える。
おすすめ動画は以前ちょっとかじっただけのゲームなのでいまいち興味がわかない。
全国のニュースもローカルニュースもスルーだ。
今度出るBoW4は気になっている。
初代BoWは俺の人生を変えたと言ってもいい名作ゲームだ。3からはサブライム・スフィアに対応してVRゲームになった。しかも基本無料でプレイできる。これにもかなりハマった。
「あれは何年前だったかな」
シノがつぶやくと、視界の端で窓が開いた。
「ブリッツ・オブ・ウィッチクラフト3」(Blitz of Witchcraft 3)は、2030年10月28日に世界同時サービス開始されたシューティングゲームである。略称はBoW3。
オンライン辞典・サブレキシコンがシノのことばに反応してBoW3の項目を開いてくれた。
「2030年ってことは、もう3年前か……」
あの頃は、就職してまだ半年で、スフィアにはゲーム目当てでインしていて、アバターはまだシノじゃなかった。なんだかすごくむかしのことのように思える。
スクーターで走っていると、片側二車線だったのが端に押しこめられ、一車線ずつになっていた。おかげで小さな渋滞が発生している。
黒いバンが車道の半分を塞ぎ、銃を持ったアバターが交通整理を行っていた。歩道に人だかりが見える。
シノは路肩に停車した。スクーターを降り、何かを取り囲むようにしているアバターたちを搔き分けて進む。
ビルの隟間、路地の奥に人が倒れていた。地面に血溜まりがひろがる。人が死ねば死体はすぐに消滅するはずだから、おそらく現場検証のための再現ホログラムだろう。
スフィアはクラスタによってルールがちがう。むかしは「クラスタ」といえば同じ
いまシノのいるクラスタは
アカウント復旧不可能というのは、退会した場合に顧客の情報を完全に消去しなければならないというヨーロッパかどこかの個人情報保護法を法的根拠にしているらしい。これをスフィアでの死と結びつけた人間は頭がいいが、確実に性格は悪い。
シノの背後で野次馬たちはひそひそ話をしている。
「強盗かな」
「スフィアじゃアイテム剝げないからちがうでしょ」
「痴話喧嘩じゃないの?」
死体のまわりでは黒い野戦服を着てアサルトライフルを手にした者たちが動きまわっている。
緑髪ツーサイドアップの美少女アバターが銃を胸の前で抱えたまま近寄ってきた。
「さがれ」
シノはまわりを見た。いつの間にか、野次馬集団の先頭に立ってしまっている。
「キョロキョロするな。おまえだよ、おまえ」
PSG隊員が迫ってくる。
シノはさがるどころか一歩前に出た。
「ボクに指図するな」
大きなおっぱいを相手に押しつける。身長170cm設定なうえに厚底サンダルを履いているので、チビッコPSGの顔と銃がおっぱいで隠れてしまった。
PSGも、路地で転がっている人を殺した奴も、きっと何かのロールプレイなんだろう。銃を振りまわして、警察ごっこや殺し屋ごっこをしている。俺には理解できない。VRというのはもっと自由でいい。せっかく何にでもなれる場所なのだ。他人に縛られるのも、自分で自分を縛るのもつまらない。
シノは自分を押しとおす。そのためのかわいすぎるアバターだ。
強烈なおっぱいプレッシャーを受けたPSGは一歩退いた。
「貴様、名前は?」
「ひょっとしてナンパのつもり?」
シノが笑うと、PSGはきまり悪げに目を逸らした。
「もう行け」
「だから指図するなって」
シノは
そういうのでいいんだ、VRってのは。
アカシ・ストリートを北上していくと、殺風景なビルの間に、日本の景色の悪いところを全部集めたようなギラついた建物が見えてきた。
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