169:「私の常識を破るほどの使い手ではないようだ」
「芭佐間っ!」
迂堂は芭佐間に駆け寄り、抱き起こした。六十代も半ばに差し掛かっている老執事の体は枯れ木のように軽かった。
芭佐間は小さく呻いて、うっすらと目を開ける。
「旦那……様……」
「何があった? 誰にやられたのだ?」
「わかりません……気配を感じる間もなく、背後から……はは、こんな不覚を取るとは私も老いたものです……」芭佐間は弱々しく微笑んだ。「この体たらくでは……もはや旦那様のお役に立つことも……」
「弱気なことを抜かすな、七十にもなっとらん若造が」
力強く叱咤した迂堂は、語気とは裏腹に優しい手つきで芭佐間を再び床に横たえた。素早く立ち上がり、周囲を警戒する。
「出血はすでに止めた──立ち上がれそうにないならそのまま安静にしていなさい。なあ芭佐間……お前、ついこの間初孫が生まれたばかりだろう? 可愛いもんだと惚気ておったじゃないか──少なくともその子が立派に成長するまでは死ねんだろうが」
「旦那様……」
迂堂はあたりを見回す。ここは廊下の突き当り──もっとも近い窓や部屋にも数メートルの距離がある。そしてそのどちらも開いた形跡はなかった。
迂堂は物音の後すぐに駆け付けた。芭佐間を襲った犯人が発見できていない以上、可能性は二つだった。
一つ目は──瞬間移動の類か、あるいは壁や床、天井を透過して潜行する能力。そして二つ目は姿を消す能力。どちらかを有した者の犯行である。そしてどちらだとしても、犯人は未だこの周囲に留まっているはず──なぜならこの屋敷に侵入する者の目的は、間違いなく迂堂廻途本人のはずだからである。探すまでもなく姿を現した標的に痛撃を加えるべく、侵入者は機を窺っている。
「鈍重が過ぎたな、曲者」迂堂は挑発する。「目的を遂げるためには、私が物音に注意を惹かれた時点で不意討ちを叩きこむのが最上の手だった。貴様は最高の機を逸したのだ──態勢を整えさせてしまった時点で、袋の鼠よ」
言い終わるか終わらないかの内に、迂堂は右耳の後ろにふわりと風圧を感じた。ほとんど反射的な速度で後ろに跳び、同時に魔術の構成を組み上げる。
「“Svana, verideadat. Rapncona ol rchanc, moudy”──魔術、『
引き裂かれるような音と共に、空中に深紅の点が無数に出現した。それはまるで天の川のごとく、帯のような形をとって空中に軌跡を描いている。
「裂けば血が出るか。ふん──『クロウリー街の悪鬼』の正体は、やはり人間だな」迂堂は壁を背にしたままマイペースに呟く。「ここで一つ、教えておいてやろう。『姿を消す』能力は確かに暗殺に適しているが、無敵ではない。今までの人生で、その程度の能力者は数えきれないほど倒してきているのだよ」
襲撃者は答えず、血の軌跡を空中に描きながら突進してきた。
乱打──迂堂の背後の壁の漆喰が次々と凹み、亀裂を生む。すべての動きを冷静に見切って、迂堂は猛攻の隙間をするりと抜けて背後へ回った。襲撃者は動くたびに新たな血の点を空中に生み出すが、迂堂にはその現象は起きない。
すべては、『
「『姿を消す』能力──魔術であれ蠱術であれ、そういった能力は認識している対象にのみその効果を及ぼす。その『対象』がどこまでのものを含むかというのは、能力者の認識に依存するわけだが──私の経験上、自分の体から離れたものは『対象』とはならないことが多いのだよ。例えば体の一部を切り飛ばした場合、それは透明化した自分自身でなく単なる『物体』となるとかな。まあ、体の一部くらいなら引き続き『対象』となり続ける場合もあるが、流れ出た血液一滴一滴にまでその効果が及んだケースにはお目にかかったことがない」まるで講義をするかのように余裕綽々で迂堂は語る。「そして貴様もまた、私の常識を破るほどの使い手ではないようだ。見なさい、私の生んだ楔に付着した血液が貴様の位置を知らせてくれている。ふん──たかだか姿を消す程度の能力者にやられるような私なら、百年以上も生き残れはせんよ」
迂堂は血の点が集まる場所に向けて、ゆるやかに手を薙ぐ。空中に発生した不可視の鞭が唸りを上げて見えない襲撃者を打ち据え、そのままぐるりと巻き付いた。
鞭は振り下ろされた際に空中の楔から血液を絡め取っている。赤く染まったそれは拘束具の役割に加え、とぐろを巻く蛇のような像を浮き出させて襲撃者の位置をさらに詳細に示す目印となった。
大した危険も労力もなく侵入者を無力化した迂堂は、ちらりと床に寝そべっている芭佐間を見やる。『
「…………?」
ふと、迂堂の胸中に疑問が浮かぶ。
視線を移す──凹んだ壁が目に入り、疑問はさらに膨らんだ。
「おかしい……」
迂堂は呟き、襲撃者に視線を戻す。
赤黒い蛇に巻き付かれた不可視の襲撃者は、今もなお戦意は喪失していないと言わんばかりに傲然と立っていた。
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