151:「なんという幸せ」

 ふわり、と光が灯る。照明に照らされ、部屋の中の暗闇は薄まった。

 広い空間の中心に品の良い椅子が据えられ、そこに一人の女性が座っているのが見えた。

 その姿を見た瞬間──瑪瑙は呼吸を忘れた。

 

 こんなにも、美しい女性がこの世にいたのか。

 

 すべての調和が完璧に整っている。それが第一印象だった。

 切れ長の目の中できらきらと輝くコバルトブルーの瞳。

 豪奢な金細工のごとく目を彩る長い睫毛。

 優美な曲線を描く眉。

 ほっそりとした高い鼻。

 薄く、艶やかな唇。

 一つ一つを見ても最上級と言えるパーツが、たおやかな細面の中に同居することでより全体の美しさを際立たせている。ほっそりとしたしなやかな体も、言うまでもなく完璧なバランスを保ち──仕上げのように、光を受けて煌めく長い金髪がその美しさを完全なものにしていた。

 およそどんな華美な服装でも自然に着こなせるだろう美女であるが、その身に纏っているのは極めてシンプルな純白のワンピースである。しかし、それがかえって素材としての人体の質の高さを強調し、神々しいという次元まで雰囲気を高めていた。

 女性の頭には植物の蔓で編んだらしい輪が乗せられている。百合に似た花がいくつも咲き誇り、まるで彼女を讃えているようだった。

 

「…………」

 

 中途半端な距離を保ったまま、瑪瑙は息を呑んで立ち尽くしていた。

 暗闇の中で声を聴いただけでただならぬ魅力を感じ、その姿を見ただけで圧倒されてしまったのだ──これ以上近づくと、自分がどうなってしまうかわからないという恐怖を感じたのだった。

 女性はそんな瑪瑙を見て、ふわりと微笑む。

 

「はじめまして。今日は実に、良い日ですわね」

 

 天上の音楽と間違うような美しい声で、女性はそう言った。

 自分の予想が正しかったことを瑪瑙は知った。単なる挨拶にも関わらずすっかり平静を乱され、どぎまぎしてしまったのだ──頭が真っ白になって何を答えてよいかわからなくなり、瑪瑙は間の抜けた返答をした。

 

「こ……こんな地下にいて、天気が分かるのですか?」

「天気? 天気ですって?」

 

 女性は心底面白そうに、ふふふと含み笑いをした。

 

「天気のことを言ったのではございませんわ。私はただ、あなたの心情に寄り添っただけ──あなたは生まれて初めて、今日というこの日に私に出会えた。あなたにとっては幾十年を経ても思い出の中に燦然と輝く良き日になるでしょうと、そう言ったのです」

「な……なるほど」

 

 確かに、女性は瑪瑙が今までの人生であった誰よりも強い魅力を持った人物ではあったが──まさか真正面にそれを肯定されるとは思わず、瑪瑙は強い困惑を感じると同時に少したじろぎが薄まるのを感じた。

 

「私はフェノメナ・アストルム──人は私を指して、実に様々に呼称されます。『超世の傑』……『大いなる存在』……『万能の偉才』……『全人類の救世主』……『聖女』……『人型じんけいをとった天意』……『龍眼女帝りゅうがんじょてい』……『弄世妖傑ろうせいようけつ』……『天魔』……他にも数えきれないほど。それらすべての異称・敬称を残らず足し合わせ、さらに100倍すれば──おおむね、私の実像と釣り合うかもしれませんわね」

 

 フェノメナと名乗るその女性は、にっこりと微笑んでそう言った。

 異常なまでの自信──実際の魅力と釣り合ってしまっているから滑稽でこそないのだが、いずれ尋常の性格ではない。その強い個性が却って現実感を失わせ、瑪瑙は激しく揺らいだ理性を少しだけ取り戻し、いくらか冷静になることができた。

 

「枕庭──枕庭瑪瑙、と申します。どうぞよろしくお願いいたします、フェノメナ様」

「ほほ、そう畏まらなくとも良いですわ。私は偉ぶるつもりはございません──どうぞ気安く、極めて手軽で簡便に、『神様』と呼んでくれて構いませんわよ」

「か、神様……」

 

 驚きながらも、瑪瑙は頭を下げる。そこでようやく、直立不動の姿勢をとったまま隣に立っているアスラの異常に気付いた。

 話好きで陽気なアスラが押し黙って、しかも小刻みに震えていることに。

 

「神様──」

 

 一言呟くなり、アスラはばったりと倒れた。

 いや──倒れたのではない。平伏したのだ。両手を前に投げ出し、額を床につけて──およそ自らの尊厳を投げ捨てるような格好で、しかし歓喜に満ち溢れた幸福そうな震え声でアスラは叫んだ。

 

「この世の何物と比べるべくもない、大いなる神様! 本日も神様が天顔麗しく、ご壮健であられるという至上の幸いについて、砂粒の如きちっぽけなこの私より全身全霊のお慶びを申し上げることをどうかお許しくださいませ────ッ!!」

 

 瑪瑙は心底驚いてアスラを見やる。

 今まで一言も喋らなかったアスラについて、フェノメナと何度も接触している内にその魅力に慣れ、受け流し方を覚えているのかと瑪瑙は考えていた。しかし実際には違った──逆にアスラはフェノメナにすっかり心酔し、もはや強固な信仰が彼女の中で形作られていたのだ。黙っていたのも、感極まっていたのか。

 面食らって思わずフェノメナを見やると、彼女は困ったように肩をすくめた。地に伏したアスラに声を掛ける。

 

「立ちなさい、アスラ」

「はいッ!」しゅばっと立ち上がったアスラは、呆然と見ている瑪瑙に顔を向ける。「メノちゃん、あんたどういうつもりで神様の前で立っとるんや? 立場を弁えなあかんで──地上の万物よりもはるかに偉大な神様に失礼は許されんのやから」

「え、あの……」

「そうまくしたてなくともよろしくてよ、アスラ。誰でもあなたのように、私の目の前に至れば最大の礼を尽くし敬いたくなるのは、言葉にして伝えるまでもない当然の前提──天地の理は殊更に問いたださずとも、そこに確かに在ることに変わりはないものです。彼女はおそらく、突然目の前に押し寄せたあまりにも大きな感動を身の内で処すことができず、固まってしまったのでしょう──それを無礼と呼ぶには不憫ですよ」

「はいッ! 仰る通り、愚かな振る舞いでございましたッ──どうか至らぬ私を、蒼空の如き広く大らかなお心にてお許しくださいませ!!!」

「許します──人はもともと愚かで不完全、道に惑って間違いを犯すばかりのちっぽけな生き物。そんなあなた方人間を、私は愛しましょう」

「ああッ──なんという幸せ!! 私は神様を生涯称え、その偉大な愛を恵まれたことへの感謝を忘れずに生きてまいります!」

 

 アスラが感動に打ち震えながら答える。すでに瑪瑙の尊敬する、気さくで何事にも物怖じしない先輩の面影は影も形もなかった。

 しかしまあ、アスラには感謝しなければならない。瑪瑙はそう思った。

 抗しがたいフェノメナの魅力に飲み込まれ、敬虔な信徒と化したアスラの姿を眺めることで瑪瑙は少なからず冷静になることができていた──自分一人でフェノメナと相対したら、今のように客観的な視点に立ち返る暇はなく、遅かれ早かれ自分も同じようになっていただろう。

 敬意を払うことはもちろん悪いことではないが、少なくとも警戒すべき相手であることは確かなのだ。アスラ自身が言っていたように、相手は規格外の能力者なのだから。

 フェノメナを眺めているだけで危うくなりかける理性を保つことに苦心しながら、瑪瑙は自分の務めを再確認した。

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