第29話 凄惨たる魔王
テネブリスの首元は、今にも握り潰されそうな程、強烈な握力で掴まれている。
徐々に呼吸も満足に出来なくなり、全身に力が入らなくなっていく。
しかし、意識を失いかけたであろう刹那、口から血を垂らしたテネブリスは僅かに口角を上げた。
今にも殺されそうな状況であるにも関わらず、不敵に笑みを浮かべたテネブリスに対して、グラシャラボラスは不愉快に思う。
「何、笑ってンだぁ……!?」
その問いかけに答える事はない。もはや声すら出せない状態だからだ。
だが、笑みを浮かべた表情は変える事はなかった。
だがそこで、グラシャラボラスはある異変に気付く。
首元を掴んだ手が動かないのだ。
正確には、ある一定の所でこれ以上の力が入らない、と言うのが正しい。まるで何かに守られているような感覚。
突如起きた得体の知れない現象に、グラシャラボラスは警戒する。
(何だ……何が起きてる…………!?)
直後、グラシャラボラスに襲いかかるように強大な魔力が溢れ出る。
その魔力は闇のように黒く、深淵のように深く、重力のように重い。
全身に感じるただならぬ威圧感。グラシャラボラスは胸に抱く感情全てを抑圧されるような畏怖を抱いた。
そしてふとテネブリスを見やると、先程まで負っていたはずのダメージがまるで別人になったかのように全回復している事に気付く。
それに加え、別人だと感じた変化はもう一つあった。
それは、双眸に宿した輝き。
グラシャラボラスを睨みつける鋭い眼光は、深い真紅の色を灯していた。
そう、この眼はまるで――――――。
本能が告げる魔力の正体。驚愕と恐怖でグラシャラボラスは言葉を失う。
そこへ、どこか懐かしさを覚える声色が耳に届いた。
口調、声色、雰囲気――そのどれもが、凄惨たる魔王の如く聞こえる。
「ふう……この
「なっ…………!?」
グラシャラボラスは反射的に全身の毛を逆立てた。
本能が告げている。
――逃げろ。
――戦うな。
――勝てない。
――跪け。
「どうした? グラシャラボラス。貴様が望んだ、魔王の顕現であるぞ」
グラシャラボラスは未だ愕然としたまま動けない。身体中の筋肉が言う事を聞かないのだ。それとは裏腹に、目の前で起きている状況を理解しようと目まぐるしい早さで思考を巡らす。
(な、何がどうなってンだぁ……!? 見た目は勇者そのもの……。だが、肌に突き刺さるような絶対的なこの魔力、それにあの眼…………これはテネブリス……様以外にありえねぇ……!)
グラシャラボラスは確信した。
この人間は――いや、この御方は凄惨たる魔王、テネブリスなのだと。
全身を伝う恐怖に身を震わせていたグラシャラボラスに対し、テネブリスは嘲笑したような表情で語りかける。
「ふん、そんなに不思議か? それとも、再び相見えた事に感動して声も出ぬか? フフフ……今の私はとても気分が良い。一つ、良い事を教えてやろう――――
魔王たる人物の口から出た職業スキル、という言葉。
それを聞いたグラシャラボラスは、全身に悪寒が走った。
テネブリスが凄惨たる魔王として恐れられる所以でもある、見る者全てを戦慄させる強大な魔力。しかしその魔力は普段、僅かばかりの表層しか現れる事はない。
あまりの強大さに、テネブリス自身も正確に御する事が困難だからだ。
深層に眠る強大な魔力の顕現。
それを可能にするのが、テネブリスの持つ
通常、
(
グラシャラボラスは、とめどなく襲いかかる恐怖に身を震わせながら逡巡する。このまま、目の前の魔王たる人物と戦い続けて良いものなのかと。
見た目は勇者ルクルース。だが溢れ出るその魔力は、確実に凄惨たる魔王の一端が滲み出ている。正面から挑んで勝てる見込みは――――限りなく低い。
しかしこれは逆に考えるとチャンスとも言える。
魔王に跪く代わりに交わした、あの時の条件。
『十年に一回、魔王テネブリスと一対一で戦い、その勝者が向こう十年、魔王を名乗る』
十五年前の前回の勝負では、まるで歯が立たなかった。
しかしあれから他の七魔臣相手に鍛錬を積み、身に宿す魔力も全身の筋力も遥かに向上している自負がある。それに、今の魔王たる人物は魔力こそ最大級の警戒が必要だが、肉体はただの人間そのものだ。
(さっきはあと少しの所まで追い詰めたンだ……今なら勝てるかもしれねぇ……いや、勝つしかねぇ! それに……)
グラシャラボラスの脳裏に、左半身と頭部を失った部下の無残な姿が蘇る。
憎しみと怒りの炎はまだ消える事はない。
目の前に顕現している絶対的な恐怖に向かって、心に抱いた激憤がグラシャラボラスを奮い立たせた。
「いくらお前ぇが強かろうが、お前ぇが魔王だろうが……俺が勝負を諦めていい理由にはならねぇンだよ!!」
「――ふん、戯言だ」
テネブリスはただ冷酷に嘲笑した。
圧倒的な魔力、見る者を畏怖で支配する恐るべき眼光。
その一切をグラシャラボラスに向けている。
恐怖に怯えた身体は、内に秘めた意思とは裏腹に動かない。
覆ることのない絶望的な格の差。グラシャラボラスは顔を歪ませながら痛感した。
もはや戦う事すら敵わないのか、と。
「どうした? 威勢が良いのは口だけか? ふん、まあよい……。せっかくだ、魔法の一つでも受けてみろ。それで、これまでの貴様の愚かな行いを帳消しにしてやる」
テネブリスは真紅の眼光を煌めかせ、右手をグラシャラボラスに向けた。
悍ましい魔力が、その手に凝縮されていく。
グラシャラボラスには、その詠唱を聞くまでの時間が永遠に感じた。早く詠唱してくれ、早くその一撃を見舞ってくれ、と懇願するほどに。
その一撃が、限りなく死に近いものである事をグラシャラボラスの脳髄は予知しているからだ。
そして――――それは告げられた。
「霊位魔法――
魔法の詠唱が言い終わると、一瞬にしてグラシャラボラスの視界に闇が広がる。
何も視えない。
何も感じない。
何も聞こえない。
何も出来ない。
――呼吸も、心臓の鼓動さえも。
生きているのか死んでいるのかすら、認識する事もできない。
(これは……何だ…………)
無限に訪れるかのような虚無。
しかしそれは、突如として崩れ去る。
急に視界に光が差し込んでいくのを感じ、グラシャラボラスは意識を取り戻した。
と同時に、全身に激しい痛みが襲いかかる。まるで今まで感じていなかった痛み、恐怖、その全てが一気に押し寄せてくるかのように。
グラシャラボラスはそこで、自身が一命を取り留めている事を知る。痛み、恐怖、怒り、絶望、ありとあらゆる感情と感覚が、生きている事の証明だった。
「うぐぁ……ぐっ…………」
あの御方は、愚劣な配下に慈悲を与えてくれたのだろうか。
殺す事も容易いはずの命。それをあの御方は生かしてくれたのか。
そんな畏敬の念で胸を埋め尽くされたグラシャラボラスは苦痛に表情を歪めつつも、その心はどこか澄んでいた。
先程まで義憤に染まっていた心情も、清々しい敗北の前にどこかに消え失せている。
有無を言わせぬ圧倒的な力の前には、野心も私怨でさえも何の意味も持たないのだ。
ただ許されているのは、かの凄惨たる魔王の前に平れ伏し、
グラシャラボラスはそれを改めて思い知る事となった。
初めて魔王に跪いた、あの時と同じように。
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