私は娘の恋人でお姉ちゃん

神薙 羅滅

第1話 母をお姉ちゃんと呼ぶ娘

「大好きだよ、お姉ちゃん」

「ええ。私も愛してるわ。清花」

 両腕で愛する妹を……いや、愛する娘を抱き締めて、胸の奥から湧いてくるやるせなさを必死に抑え込む。

 清花が私をお母さんではなく、お姉ちゃんと呼ぶようになって一ヶ月が経とうとしていた。

 そうなった原因を直視することは……母親として辛い、などという生ぬるい言葉では到底足りない。

 それは清花も同じで、現実から目を逸らし過ぎて、何もかもが狂っていた。

「お姉ちゃん……」

 お姉ちゃん。彩葉が発するその言葉には、家族に向けるのに相応しくない熱が込められている。

「お姉ちゃん……お姉ちゃんっ……」

 清花は左腕を私の首に回し、顔を近付け唇を重ねてくる。娘にお姉ちゃんと呼ばれながら、恋人同士のように……いやまさに恋人同士として唇を重ねる。

 そうすることに最初は嫌悪感を案じていたはずなのに。毎日のように繰り返している間に、そうした感情は鳴りを潜めた。

 代わりに湧いて来たのは、もうこの世にはいない……妹を恋人として愛していた娘、朱雀の思念だった。


 ※※※


 一ヶ月前の土曜日。その日はこれ以上ないくらいに太陽が輝いていて、娘たちは日焼けが気になるんじゃないかって心配しながら、休日出勤する準備で忙しなくしていたのを覚えている。

 姉妹で仲良く遊園地に行く。それは何気なく過ぎていく日常でしかなくて、今日は早く帰れる予定だから、たまには晩御飯でも作って、帰ってきた朱雀と清花も合わせて三人で晩御飯を食べる。そんなつもりだった。それが終わったら日曜日が来て、月曜日が来る。そしてまた土曜日が来る。

 そうした平凡だけど、それなりに豊かで幸せな日常が繰り返されると思っていた。

 二人は遊園地からの帰り道で、交通事故に巻き込まれた。清花は右足と左腕を骨折した。朱雀は……命を落とした。

 その時のことは思い出したくない。でも、清花に朱雀の死を伝えた時のことは鮮明に覚えていて、今でも瞼に張り付いたまま。

 最愛のお姉ちゃんの死を知った清花はショックのあまり気を失い、次に目覚めた時、私をお姉ちゃんと呼んだ。


 お医者さんに言われずとも、清花に何が起こったのかはすぐにわかった。

 事故があった日の記憶がすり替わっていた。朱雀の死という膨大なストレスから逃避するために。

 あの日、清花の記憶では私と遊園地に出かけたことになっている。そして事故に巻き込まれて、母である私が死んだ。

 朱雀が生き返るのなら、私は今ここで死んでも構わない。喜んで命を捧げられる。だけど、母と姉を比べて、母を死んだことにする清花を目の前にすると、涙を流さずにはいられなかった。


 私は事故で大切な存在を二つ失った。一つは大切な娘である朱雀を。もう一つは、母親としての自分。もっと言えば京香という私自身を失った。

 壊れた清花の前で母親として、京香という人間として、振る舞い続けることは出来なかった。

 最初は朱雀の死を納得させようとした。だけど諦めた。事実を伝えようとする度に、発狂したように病院の中で暴れ狂い、気絶して、徹底的に姉の死を母の死に置き換えようとする清花に疲れ果ててしまった。

 だから私は母であることと、京香であることを捨てて、清花のお姉ちゃんである朱雀として振る舞うことにした。

 そうすることでしか、私と清花は自分を守れないから。


 ※※※


 清花が退院して、初めて家の玄関をくぐったと同時に、娘はもう我慢出来ないといった様子で、私を押し倒した。

「お姉ちゃんっ……お母さん死んじゃって、私どうしたら……すごく寂しいよ……」

 最愛の朱雀に、母の死がどれほど苦しいかを嘆き、抱きつく清花。でもそれは全てが歪になった虚構の世界。

 本当に清花の目の前にいるのは母だ。それなのに私をお姉ちゃんと呼びながら、母の死を悲しいと泣きつく。

 ただでさえ私自身が朱雀を飲み込めていない中、私と朱雀の死を比較して、私を消した清花が、母の死を悲しいと泣き叫ぶ姿は、酷く欺瞞的に見えた。

 清花自身が筆舌に尽くし難い地獄にいるのだと納得しようと努力した。だけど、それで自分を納得させられるような、歪みではなかった。

 にもかかわらず、清花は更なる歪みを私に見せつけた。

「お姉ちゃん、いつもみたいにキスして」

 耳を疑った。何かの聞き間違いかと。長女の死と、次女の記憶改竄が、自分の精神を想像をはるかに超えて蹂躙していて、その結果聞こえた幻聴かなにかかと。

 時を止められたように動かない思考。清花の口づけが、止まった時計を動かした。

「ん! やめて清花っ!」

 反射的とはいえ、傷心の娘に向けて良いレベルをはるかに超えた拒絶。怒声をあげながら、清花を力の限り突き飛ばしてしまった。

 壁にかけていた額縁が落ちた音が響く。

「お姉ちゃん……ごめんなさい。こんな時に不謹慎だったよね。ごめんね」

 骨折した左腕をぶつけてしまったらしく、痛みで顔を歪めている。

 いくら娘にキスされたのが不快だったとはいえ、ここまで強く拒絶して、痛みを与えては正当防衛とは思えなかった。

 キスの熱が冷めて、頭が冷静になって、自分がどれだけ酷いことをしたのかがわかってくる。

「ごめんなさい清花。突然のことでびっくりしちゃって。何かご飯作るけど、何か食べたいものある?」

「何か作るって、お姉ちゃんオムライスしか作れないじゃん。それも卵破れたの。でも、まぁ、オムライスに文字書いて告白するために頑張って練習したんだからそれは凄いと思うよ。センスは絶望的に悪いけどさ」

 姉妹で付き合っているのが当たり前みたいに言い放つ清花。その嬉しそうな表情を見て、私はいかに娘のことを知らないかを思い知った。


 いけないことだとわかりながら、次の日から私は朱雀の携帯を使い始めた。自分の携帯を使うと清花が不審に思うのも一因だった。でも、本当の目的は朱雀と清花の関係を知るためだ。

 携帯に残された、朱雀と清花のやりとり。それはとても、親の私には言い出しにくいようなことで溢れかえっていた。

 大学生でアルバイトをしていた朱雀は、清花を連れてこっそり旅行に行っていたのを知った。

 朱雀はサークルの旅行だといって、清花は友達の家に泊まりに行くと嘘をついて。そのことを、過度にプライベートに干渉するのも、されるのも嫌っていた私は今まで知らなかった。

 朱雀の携帯に残された、旅先で撮った笑顔でいっぱいの清花の写真。自分が写っている写真はほとんどなくて、一部に誰かに撮ってもらったと思われる姉妹で写った物があるだけで、他は全て清花が被写体。風景写真はただの一枚もない。

 旅先の景色はおまけで、はしゃぐ清花こそを撮りたいという想いが伝わってくる、情熱というか魂がこもった写真たち。

 それらを見て、涙が溢れるのを止められなかった。姉妹同士の恋愛。本音を言えば気持ち悪いと思う。認める気にはなれない。

 だけど、ここまで真剣に付き合っていて、二人とも幸せそうで、この先誰にも認められないかもしれないけれど、二人の笑顔で溢れていたことだけは確かで。

 事故のあった日の写真もたくさんあった。ジェットコースターに乗ってはしゃぐ清花を下から写した写真。観覧車から街を見下ろして笑っている清花の横顔を写した写真。

 清花が朱雀の死を受け入れられないのは無理もないと思った。母親の私が今まで見たことのない清花の笑顔。そして、今この瞬間に感じている幸せをそのまま保存したような写真。

 朱雀と清花が付き合っているのを認めてあげることは出来ないけれど、守る価値があった……少なくともこんな形で奪われて良いような、いい加減な関係じゃないことだけは伝わってくる。

 清花が狂うのも無理はない。同じ目にあったら私も狂うだろう。清花を喪った朱雀など、想像したくもない。

 取り返しがつかないのはわかっている。だけど、奇妙なことに極まった悲劇のおかげで清花を誤魔化し続けることなら叶うかもしれない。

 嫌悪感とか、倫理とか、常識とか、そんな物よりも朱雀と清花のあるはずだった想い出を紡いで行くことの方が大切に思えた。

 自分を捨てることで、二人の幸せを守ることが出来るのなら、そのことの方が遥かに尊いものに思えた。

 

 朱雀として、清花のお姉ちゃんとして、振る舞う生活が始まった。全てが手探りで、清花が愛した、清花を愛した朱雀を自分の中に作り上げて行く。それがどこまでいっても、ただの虚像にすぎないと気付きながら。


 ※※※


「ありがとう、お姉ちゃん。毎日送り迎えしてくれるようになって」

 助手席に座る清花が、照れくさそうにしながら、感謝を伝えてくれる。

 清花は車に轢かれた恐怖で、外に出ることが難しかった。お姉ちゃんと一緒じゃないと外に出られない。一緒じゃないと外に出た途端、恐怖で竦み上がって動けなくなる。だから毎日こうして、高校まで送り迎えをしている。

「別に良いよ。それより学校はどんな感じ」

「何その質問、へんなのー。普通だよ、いつも通り。友達はお母さんが死んだのを心配してくれるし、怪我で苦労してたら手伝ってくれて、みんな優しいよ」

 清花の瞳が潤んでいるのがわかる。そこには確かに母親を喪ったことへの悲しみが込められている。

 その気持ちにどう寄り添うのが、朱雀らしいのかを考える。

 だけど答えは出ない。わからない。

「そう。それならよかった」

「……お母さんも誘って三人で旅行行きたいって話もしてたのに」

 ぼんやりと景色を眺めている清花が、そんなことを口にする。

「あんまりイチャイチャ出来ないけど、たまにはそんなのも良いかもって、思えるようになったのに……」

 どう答えたら良いのかわからない。二人がどんな会話をしていたのかなんて、想像もつかない。私のことをどんな風に思っていたかも、本当のところはわからない。

 ただ黙っているしかなかった。私が朱雀として清花と過ごしたこの一ヶ月では、登下校の間を埋めることさえ難しいままだった。

「……どうしたのお姉ちゃん? 最近口数減ったよね。何かあったの……ってこんな聞き方変だよね。ごめん」

 清花が私に不信感を募らせているのがわかる。いや、不信感という表現は正確ではない。自分の中で何かが狂ったことへの違和感が、表面に現れ始めている。

 自分で自分を守るために記憶を改竄させたのに、自分でその虚構を暴こうとしている。

 そんな清花を見ているのは、痛ましくて仕方がない。だからと言って誰にもどうしようもない。朱雀ではなく、私が死んでいた方が、今よりは、ほんの少しはマシだったのかもしれない。

 当たり前だけど、誰かの代わりになるなんて、誰にも出来るはずがない。ましてそれが、最愛のお姉ちゃんの代わりとなれば、なおさら務まるはずがなかった。

 姉妹で恋人同士。それは一体どんな距離感だったのだろう。相手の全てを知っていたりしたのだろうか。

 仕事で家を空けていることが多かったから、娘たちと触れ合う時間は少なかった。思い返せば、清花の面倒は朱雀に任せきりになっていた。

 朱雀は清花のお姉ちゃんでもあり、母親でもあり、恋人でもあった。だとしたら、仕方がなかったとはいえ、半ば育児放棄していた私が朱雀のフリをするなんて、無理があった。

「着いたよ清花。それじゃ行ってらっしゃい」

「ありがとうお姉ちゃん。お仕事頑張ってね」

 車から降りた清花が手を振りながら、友達の輪に入って行く姿を見送って、職場へと向かった。

 

 ※※※


 お姉ちゃん、放課後デートしよう。お昼ご飯を食べていると、唐突に送られてきた清花からのメッセージ。

 どうしようか迷った。誘いを受けることは可能だ。娘の病状を上司に伝えているから、送り迎えの為に定時で上がることは確定している。

 問題はそういう仕事の都合ではなくて、私と清花の関係それ自体。清花とデートなんてどこに連れて行けばいいのかわからない。

 そうした色恋沙汰とか人間関係に疎いからこそ、こうして一人で娘を育てることになったのだし。

 それ以前に、デートなんてしたら、ボロを出してしまいそうだ。朱雀のフリをしていたのがバレて清花に嫌われてしまうのは、とてつもなく辛いが、耐えられる。

 だけど、そうなった時清花は朱雀の死に向かい合うことになる。それは清花が耐えられない。

 そうした困難を飲み込んだ上で、デートをすることにした。日に日に強まって行く疑いの目を、どこかで大きくごまかしておかないといけない。このままだと築き上げた脆弱な虚構は崩れてしまうから。

 だからこれは賭けだ。清花の見ている幻をどこまで、持続させられるか。その長さを決めるための。

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