第9章 4

 塑像の如く凍ったセレナの肩を強い力で鷲掴みながら、ハルは再び口を開いた。

「……魔帝まていの腹づもりは‘紅蓮月夜の間’で聞いた。父上の知り合いの話も、理解はした。だから……次はフィルナの……コーザの真意を聞きたい。いや、聞かなきゃならないんだ」

 重い言葉とともに流れた空気に、黒と銀の長髪がざわりとなびく。その鮮やかな残像は、まるで不吉なしるしを告げる旗のように闇を刷いた。

「……正直、分からねぇ。俺はどうするべきなのか、どうしたいのか。どれだけ考えても、答えは出ねぇよ。でも……もう、そんな事は言っていられない」

 見開かれた翠緑玉に映った己の貌は、笑い出したくなる程に歪んでいて。

 血糊と……そして煩悶に塗れた己が虚像と向き合いながら、ハルは言葉を絞り出した。

「だから、俺はフィルナへ戻る。自分の取るべき立場を、決めるために」

「…………」

 兄が曝した胸の内に、却って心が鎮められたのか、平生の落ち着きを取り戻したセレナが、躊躇いがちに視線を上げる。その奥底に宿る憐憫にも似た色と、裏に仄めく冷徹な理性とを一緒くたに受け入れながら、ハルは微かに視線を落とした。

「お前は、ルナンここで色々なものを見たはずだ。残るというなら、それでいい。でも……叶うなら、一緒に来てほしい。俺がどの道を選ぶのかを……お前自身の目で、見届けてもらいたいんだ」

「…………」

 驚愕が抜けた白い面はやはり憂いを貼り付けたまま、ただハルの双眸を見上げるのみ。

 彼の真意はおろか、この世の真理すら見通してしまいそうなその眼差しは……次の瞬間、しかし唐突に凍り付いた。

 乱れた翠がはっと映したのは、ドレスの長い袖から伸びた真っ白い右の腕。

 空の手首を見つめたまま、呆然たる面持ちで絶句したセレナを……訝しげな声が追った。

「セレナ………?」

「待って……私……」

 不穏な瞬きとともに顔を上げた乙女が、微かにおののく唇をゆっくりと開く。その内から漏れた声が、冷えた空気を震わせようとした……その刹那。

 ハルの耳朶を打ったのは、炎が爆ぜるかの如く、乾いた音だった。

 頭よりも先に体が動いたのは勘か、それとも僥倖か。驚愕すら乗せられぬまま引き絞られた紅玉の瞳は、首の真横を吹き抜けた疾風はやての刃をただ呆然と見送るほかなかった。

 セレナを抱いて飛び退ったハルの影を、再び生まれた風の刃が追う。その追撃から辛くも逃れた青年の視線の先で、妖にも似た唐突さで現出したのは……宵闇よりもなお深い、漆黒の色だった。

『……ここにおられたか』

「…………!?」

 息呑む音に重なったのは、深く冷たいテノールの響き。

 四阿の暗がりから音も無く滑り出てきた男の姿に、ハルは今度こそ愕然と瞠目した。

 射干玉ぬばたまの黒衣に、漆黒の太刀。そして何より、感情の欠片も宿さず照り映えるあかい瞳。

 己よりなお強烈なコントラストに彩られたその顔貌は、ハルの心に冷ややかな屈辱の記憶を呼び起こした。

『て……めぇ……!!』

『ここは‘冬の庭’。季節に関わらず、夜はひどく冷える。故に……』

 地獄の底で呻くようなハルの声音が聞こえているのか、いないのか。表情のない男が、太刀を持たない左の手をゆっくりと伸ばす。

 その指先は、ハルではなく……彼以上に蒼ざめた、銀の乙女へと向けられていた。

『戻られよ……姫君』

『……ルス……ラン』

 激しい狼狽を含んだ翠緑玉の視線はしかし、黒衣の男の元へは届かなかった。

 息詰まるような緊張の間に割り込んだのは、紫の手甲ガントレットと……光とともに迸った鋭い刃。

 セレナの前に立ちはだかるようにして前に出ながら、ハルは目の前の長身を真っ直ぐに睨み据えた。

『……いつぞや以来だな……クソ野郎』

『…………』

 静かに上がった赫い視線に応じたのは、激昂を抑える最後の余裕か、それともいっそ皮肉めいた開き直りか。我知らず上がった口角を微かに引きつらせながら、ハルは両手に握った両刃の剣をゆっくりと構えた。

『おかげで、ずいぶん手間取らせてもらったぜ。とんでもねぇ目にもあったが……には、何とか間に合った。ギリギリだったがな』

『…………』

 明らかに揶揄を含んだ科白にも、男……ルスランはただ無表情のまま立ち尽くすのみ。

 その様子を知ってか知らでか……彼の目からセレナを隠すようにして下がらせたハルは、再び静かに口を開いた。

『悪いが、今回も急いでいる。お前につき合っている暇も、時間も……』

『……ない』

『…………?』

 己の言に重なった科白に、ハルは胡乱げな表情で眉を上げた。

『……亡霊と話す事など、ないと言った』

 混迷の度を深めた紅玉の前を行き過ぎたのは、夜をも凌駕する真黒の刃。

 隙のない構えで大太刀を振り上げた男の貌は、相も変わらずぞっとする程冷淡だった。

『ハラーレ=ラィル・ヴァイナスは、私が‘入らずの森’で斬った。むくろは淵へ墜ち、水底みなそこへ沈んだ。故に……今私の前の前にいる貴殿は、ではない。否……あるわけが、ない』

『な……!?』

 思わず絶句したハルを、鋭く切れた双眸がひたりと射抜く。不気味な程に澄み切ったその赫色は、まるで唯一神を奉じる狂徒の如く……迷いなき意思の力に彩られていた。

『姫君は、我が君の大切な預かり人。その兄の名を騙る狼藉者を……生かして皇宮ここから出すわけにはいかぬ』

『ルスラン、待って……』

『セレナ……?』

 切迫したセレナの叫びとハルを置き捨て、膨れ上がった不穏な風が夜を揺らす。

 はためく外衣を翼のように従えたまま、ルスランは再び静かに口を開いた。

『其処を、退け。貴殿に、彼女は、渡さぬ』

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