第9章 3
「……つから……」
一瞬の逡巡を経て紡がれたのは複雑なルナン語の韻ではなく……もう一つの聞き慣れた響きだった。
「いつから……気づいていた?」
「……はじめからに、決まっているでしょう?」
伏せられた赤色を真っ直ぐに見つめながら、セレナはゆっくりと首を振った。
「だって……全然、似ていませんもの。顔も、仕草も、笑い方も……一目で違うと分かるのに。どうして見間違う事ができましょう。それに……」
一旦言の葉を切った乙女の頬が、引きつるようにくしゃりと歪む。その拍子に落ちた涙の雫を気にも留めず、セレナは再び掠れた声を零した。
「どんなに願っても……父様には、もう会えない。そのことは……あなたも、よくご存知でしょう……?」
ただ静かに落涙する翠は瞬きもせず、ひたすらに澄んだ光をたたえたまま。
その奥に宿った哀しみと、そしてどうにもならない諦念とを、やるせない思いでみとめながら……ハルは行き場を無くした右の手を崩れるように振り下ろした。
「……悪い」
木々のざわめきに溶けた呟きは、どことなく……否、多分に気まずげな色を帯びていた。
「本当は、こんな
しどろもどろな弁明を中断させたのは、葉擦れにも似た音と……そして微かな風の流れ。
困惑と罪悪感とがない交ぜになった感情を持て余したまま、ハルは腕の中に飛び込んできたセレナの温度を呆然と見下ろすほかなかった。
「セレ……」
「……斬られて、墜ちたと」
掠れかけた驚きの声は、か細い呟きにかき消された。
「酷い深手を負い、淵に……墜ちたと」
震える声を鎧うのは、柳糸のようなしなやかさでも、敵をも欺くしたたかさでもない。
近しい者にすら本心を明かす事のない乙女は今や、そのプライド全てをかなぐり捨て、ハルをただ心のままに抱き潰そうとしていた。
「信じて、いました。それでも……不安で。考えれば考える程、恐ろしくて……」
背に回された腕に込められた力は、言葉の連なりとともにその強さを増していく。その切ないまでの必死さはハルの理性を取り戻すと同時に、その胸の奥を激しく軋ませた。
「父様も母様も、私を置いていってしまいました。あなたまでいなくなってしまったら、私は……私、は……!?」
か細い独語を遮ったのは、驚くような早さと……そして強さで翻された紫の手甲。
その動作に似合わぬ柔らかな気配に、伏せられていたセレナの面がゆっくりと上がる。
美しい細工に覆われたドレスの背を抱き締めながら、ハルはゆっくりと微笑した。
「……約束、しただろう?」
はたと瞬く翠色を覗いた赤は、穏やかな……しかし恐ろしく強い感情にくすんでいた。
「フィルナやルナン……たとえエリアの全部を敵に回したって、俺はお前のそばにいる。それを果たせずに……どこへ行けっていうんだ。そう簡単に、くたばりはしねぇよ」
「…………!!」
「遅くなって……悪かった。もう、大丈夫だ」
密やかに響いたすすり泣きを、
「……セレナ、よく聞いてくれ」
しっとりとした夜気に混ざった冷気に、ハルは妹の背からゆっくりと腕を離した。
「俺達が今いるのは、皇宮の東の大庭園の端だ。このまま突っ切れば、東門を抜けられる。まずは……
「え……!?」
再びはっと
「城壁を越えたところで、迎えが待機している。そいつらと合流して、
「待って……待って下さい。あなたは、まさか……」
「……そうだ」
ようやく口を挟んだセレナの前で、薄い唇がすいと上がる。
それは大いなる悪巧みを抱えた悪童の高揚か、はたまた追いつめられた者が切るやけっぱちの大見得か。引き絞られた紅い瞳に宿っていたのは、妖しい程に一途な光だった。
「……戻るんだ。フィルナ……西王国へ」
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