第8章 8

『宿願って……一体、誰の宿願のコト?』

 唖然たる注視を見事に跳ねのけ、よく通る声が再度はっきりと響く。

 周囲の反応に遅れる事ほんの数瞬。思わず後ろを振り返った翠緑玉が映したのは、薄茶色の儀礼装束を纏った少女の姿だった。

『フィルナを支配じゃなくて滅亡に追い込む事が、世界の繁栄と安息にどう結びつくの?殲滅しちゃったら報償も取れないし、こっちのダメージだって計り知れないヨ?そんな、ワタシ達に何の利益ももたらさない侵略を、‘闇夜の王’が本当に喜ぶと思います?』

 くるくるとはねた巻き毛の下、小栗鼠のようなどんぐり眼が輝く顔はまだ幼い。しかし、明らかに場を失した口舌をすらすらと紡ぐその様は、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた老練の遣り手のようにも見えた。

『答えは……否。これは神威しんいを借りた、個人の願望ヨ。玉座そこにいる、ただの愚かな男のね』

『沈黙しろ!貴様、己が何を言っているのか分かっているのか!』

 静寂を掻き裂く怒号とともに、刃のような殺気が冷えた空気を振るわす。

 弾かれたように立ち上がった風の‘支配者’をどこか無感動な目で仰ぎ見ながら、少女はふと長衣の懐に手を入れた。

 薄い絹地の下に沈んだ腕が引き出したのは、冬の湖を封じ込めたような薄水色の輝き。内側に水を満たした無数の玻璃瓶を両の手に戴きながら、巻き毛の少女は滔々と言の葉を継いでみせた。

『皇家の血を先細りさせ、周りの声も聞かずに暴走する。そんな私利私欲にかられたトップの命令なんて、ワタシは絶対に認めない。どうしてもと言うのなら、何としてでも止めてみせる。そう……』

 フィリックスを――正確にはその背後の玉座を捉えた双眸に宿るのは、狂騒にぎらつく高揚と、そして希求にも似た決意。その異様な輝きに、誰もが呆気にとられる中、薄茶色を纏った少女は、鮮やかな笑みとともに気を吐いた。

『この‘光の槍エヴァライムズ’がネ!!』

 甲高い声が紡いだその科白に瞠目した、群衆の誰よりも速く。

 紅蓮の広間を席巻したのは裂帛の叫びと、音よりも速く吹き抜けた疾風の残滓だった。

 はっと振り返ったセレナが気づいた時、傍らにいた戦乙女の姿は既にない。偽翼もなしに一飛びした風の‘支配者’は、文字通り瞬きする間に数十間の距離を踏み抜き、既に少女の眼前へと降り立っていた。

 おそらくは魔道の技術の為せる業か、その手の内に魔法の如く幻出した槍斧ハルバードが、悲鳴のような音とともに振りかぶられる。

 その早すぎる動止と殺気に、少女の両目が思わず大きく見開かれた……その瞬間。

 残像すら引かずに翻った刃は、小さな身体を唐竹の如く断ち切っていた……はずだった。

『…………!?』

 金属の慟哭にも似た音に被さったのは、冬の朝に降りた霜のように清冽な冷気。

 珍しく狼狽の色を露にしたまま、フィリックスは眼前に突如出来したと……それにがっちりと受け止められた己の武器を見つめていた。

 戦乙女の動きにようやく正気付いたのか、鮮やかな衣を翻した幾人かが続けて繰り出した呪法や攻撃もまた、同じく次々に出現した流れる壁に呆気なく阻まれる。その様に思わず一瞬挙動を止めたフィリックスを射たのは……しかし、目の前の少女のそれとは異なる殺気だった。

 咄嗟に返した槍斧の刃が、青い火花を散らして震える。己が得物を受けたのは、薄く煌めく呪力をまとった二振りの太刀。その向こうには……藍緑色ととき色の儀礼装をそれぞれ着込んだ、ふたりの男の姿があった。

『邪魔立てめされるな、支配者殿』

『我等‘光の槍’の……宿願のために!!』

『貴様ら……!!』

 風領土バリンのエン・グレイズと、水領土イアリンのニケア・トレズ。

 かつて配下として指揮した記憶のある高位貴族の姿に、フィリックスは呻くようにそう呟いた。

 隠せぬ狼狽に揺れるその眼前で、張り付いたようなふたつの微笑がゆらりと歪む。振り払う事も、押し切る事も許さない――絶妙なまでの力加減で己の刃を受け止める男達のに気づいた時、戦乙女は髪を振り立てて絶叫していた。

『リーズ公!水を……!?』

 ‘支配者’三人が不在を決め込む中、唯一まともに動ける人物へと向けられたフィリックスの視線は……しかし、そのまま呆然と凍り付いた。

 鼠は、他にも身を潜めていたのだろう。そこかしこで連鎖の如く上がり始めた怒号の中、立ち尽くすセレナを伴に佇むマリアンの貌に浮かんでいたのは……この上なく優雅な、極上の微笑だった。

 思わず言葉を失ったフィリックスをみとめたのか、ゆっくりと細められた瞳が、不意にふと焦点をずらす。その動きが意味するところを、戦乙女が理解したのは、甲走った少女の声が再びこだましたのと、ほぼ同時だった。

『ふたつの月よ、いざ照覧あれ!我等の祈りを、今ここに!!』

 振りかぶられた細い腕から飛び出した玻璃瓶が、甲高い音を立てて敷石に叩き付けられる。墜ちた星の如く砕けた硝子から溢れた液体が、空気中へと飛び出した……その刹那。

 愕然と息を呑んだフィリックスの視界は、耳を引き裂くような爆音と真っ白な粉塵、そして噎せ返るような薫香の嵐に埋め尽くされていた。

 ただひとつ――水に護られた少女の足下に突き立つ、艶やかな扇の残像だけを残して。

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