第8章 7

 満ちた双月が、ゆっくりと重なり始めたその頃。

 鳴り響いた鐘の音は心臓に差し込まれた刃の如く、紅蓮の広間を凍り付かせた。

 固く鋭い音が数を重ねる中、貴人の群れはさざめきをおさめ、躊躇う事なくその場に平伏していく。そして鐘が八つを数えて途絶えた時……純白の床上は鮮やかな色彩と綺羅、そして水を打ったような沈黙に支配されていた。

 その美しい絵姿の上を流れる空気はしかし、どういう訳かひどく恐々としている。すぐ隣で厳かに、あるいは優雅な仕草で膝を折ったフィリックスとマリアンに倣いながら、セレナは己の感覚がひどく研ぎ澄まされてゆくのを否応なしに感じていた。

 我知らず早鐘を打ち始めた鼓動の音が、重くひずんだ軋み音にゆっくりと重なる。

 漆黒の玉座の背後で開いた大扉から吹き出てきたのは、軽やかな鈴の音と……そして甘くねっとりとけぶるような薫香。振り香炉と儀仗を掲げた美童の群を先導役に、そして鮮血よりもなお深く濃密な深紅を伴い、‘彼’はゆっくりと広間に現出した。

 一気に冷えた空気を駄目押しするかの如く、もう一度しゃらんと鈴が鳴る。

 玉座についた赫色を覆うようにして下ろされた朱の紗幕が、涼やかな音を残しながらさらりと床を流れた。

『……我等が尊き‘闇夜の王クヴェラウス’の子、麗しき剣の徒よ。長の沈黙と忍耐、大儀であった』

 幔幕の横に控えた美童の朗々たる声に、居並ぶ貴人はより一層深く頭を垂れるばかり。その一角に侍る乙女の心中など構いもせず、甘い毒にも似た響きは冷ややかに空気を嬲った。

『今宵、ふたつの月を繋ぐ扉は開いた。汝等、此岸の地に立つ者達よ。彼岸より戻りし同胞に慰めを。そして神界におわす我等が父に、祈りを捧げよ』

 下命には沈黙を以て応えるのがこの国ルナンの美徳であり、いにしえからの風習であるという。

 さらに深化した静寂の中、自動人形オートマタの如き従者の科白は、確かな高揚を増しながらも、どこか奇妙な一本調子を保っていた。

『我等が乞い願うはこの世界エリアの、そしてその主たる御方の繁栄と安息のみ。東に巣食う我らが仇を根の国に沈め、彼岸と此岸の平安をただ平らかに保つ事のみ。その希求を叶えるため、我等が父は、今宵新たなめいをお与えになった』

 打ち鳴らされた儀仗とともに、甲高い鈴の音がセレナの耳を叩く。心の臓をも振るわせるようなその鋭さは、時とともに高まる不安を徒らに増幅させる材料でしかなかった。

『振るうべき刃を、唱えるべき呪を、そして共に在るべき同胞を奪われた屈辱に、我等は耐えてきた。帝国の麗しき剣の徒、色彩持つ忠実な子よ。‘白き女神シュリンガ’の下僕を討つは、まさに今。大望を阻む下郎の首をかの御方の御前に捧げ、我等が宿願を果たすのだ』

 敬虔な信者のように跪く貴人の顔は、皆一様に能面の如く表情を無くしたまま。その中でただひとり青ざめた頬を強張らせながら、セレナは幕を隔てた先に居る男の影を振り仰ぐ事すら出来なかった。

 ともに祖国と仰ぐふたつの国が、いよいよ再び相争おうとしている。

 頭のどこかで覚悟していたその可能性は今や疑いなき現実の刃へと変じ、彼女の胸を情け容赦なく串刺しにしようとしていた。

 微かに震え出した細い肩に気づいてか、真横から投げられたフィリックスの気遣わしげな視線も、今のセレナには届かない。

 手首に伝わる銀輪の温度と、自ら抉った掌の痛みでようやく保たれていた、乙女の理性。

 その細い糸をにわかに、しかもまるで計算し尽くしたかのような鮮やかさですっぱりと切り裂いたのは……しかしながら、彼女が予想だにしなかった一撃だった。

『ちょっと、待ってヨ』

 それは紅と藍と白、そして沈黙に支配された空間に響いた、微かに幼さの残る一声。

 大勢の貴族がひしめく大広間の下座近く――それでも玉座の真正面に当たる場所で突如すくりと立ち上がったのは、まだ未発達のラインを持ったシルエットだった。

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