第8章 双月の幻

第8章 1

 半分ずつに欠けた双月が中天へと昇り始めた、丁度その頃。

 ‘白魔の獄’の中央に佇んだまま、少女はゆっくりと顔を上げた。

 その名の通りどこもかしこもが白く塗られた狭い獄舎は、夜の帳の漆黒に侵され、今やその明るさをすっかり失っている。揺らめく松明の炎が浮かび上がらせるのは、壁一面に散ったどす黒い染みの跡と、そして白い手が握る曲刀から滴る深紅の色のみ。足下にまで伸びたその彩に浸るドレスの裾もそのままに、彼女はただ黙然と前を――正確には、壁に磔にされるようにしてもたれ込んだ男の姿を凝視していた。

 力を無くした長身を包む戦装束は、もはや元の状態が分からぬ程ずたずたに裂かれ、乾ききった血で変色している。比較的新しい傷からどろりと溢れた赤色が、百合と紫丁香花ライラックを織り出した紫の地紋を鮮やかに汚した。

『済んだのかい?』

 背後から唐突にかけられた声に、少女の視線はようやく動く。

 ほんの少しだけ目尻が垂れた大きな瞳が捉えたのは、開け放たれた扉の枠に背を預けた少年の姿。紅顔に薄く張り付いた笑みと鮮やかな緑衣が、薄暗い灯りに炙られ不気味に揺れた。

『……とうに終えたわ。待ちぼうけする程度には前に、の』

 半身だけを振り向かせながら、少女は高飛車にも見える態度で鼻を鳴らす。

 その仕草にひょこりと肩を竦め、少年は、一刻前まで彼女が見ていた存在ものを捉えた。

『それは失礼したけれど……肝心の首は?一体、どこへやったのさ?』

『‘炎の剣スライヴァルアーク’と風の‘支配者’とが持ち去った。化粧けわいして陛下に供じた後、ヴァイナス家の墓所に葬ると申しておったが』

『……いいのかい?』

 刀を振って血を落とした少女の科白に、少年はわざとらしい驚嘆とともに腕を組んだ。

『僕はてっきり、君が最後まで始末をつけるとばかり思っていたのに』

『‘炎の剣’は阿呆じゃが、愚か者ではない。キクスの娘も、あの顔色ではの。おかしな気を起こすどころか、しばらくは立ち上がることも出来ぬわ。首化粧と諸々の手配は、オースの小倅こせがれあたりがうまくやるであろうよ。今更、わらわがしゃしゃり出る事も無かろうて』

『…………』

 分厚い扉が重い音を立てて閉まった拍子に、松明の炎が大きく揺らめく。再度壁へと目線を向けた少女を見つめたまま、少年はあくまで自然に獄舎の中へと滑りこんできた。

『……これで、三人目だっけ』

 断りもなく横に並んだ不躾な気配と科白に、少女はただ沈黙を以って応えた。

『ヴィヴィアナ・イリスにアーザー・レグルス。そして、今度は彼。手塩に掛けた教え子たちを、君が自ら手討ちにしたのは』

 澱みなく流れるボーイソプラノに、色はない。その源に顔向けすることなく零れた声は、まるで無常の風の如く、ただ淡々と言葉だけを紡いだ。

『弟子の底の浅さを見抜けなんだは、師の過ち。始末をつけるは、当然のことであろう』

『そうじゃ、なくてさ』

 さらりと放たれた科白に僅かにたじろぎながらも、少年は薄い唇を尖らせた。

『悔しくないのか、って聞いているの。僕だったら、悔しいよ。悔しくて仕方がない。自分の働きを、に否定されるなんて』

『……青いの』

 刀を鞘へと還しながら、少女は密やかに喉を鳴らした。

『我らは、皇帝が振るう剣。ただの道具に過ぎぬ。斬れねば捨てられ、その身に負うたものごと、空しく野に打ち捨てられるだけよ。百年を経ても、まだそれが分からぬか』

『剣にだって意志はあるよ。それに……ふとした拍子に使い手の指を切る程度の鋭さもね』

 猫撫で声にも似た少年の呟きに、少女は答えをよこさない。

 明滅する光源にうっすらと照らされた下がり眼は、真っ直ぐに前──否、かつての愛弟子の変わり果てた姿を捉えたまま、ただ恬淡たる光を湛えていた。

『……僕のやっている事、知っているんでしょう?』

 室内に漂う血の臭いを絡め取った少年の声は、どことなく奇妙な熱を帯びていた。

『君が本当にただの剣だというのなら、僕は今ここにいない。反乱軍エヴァライムズの頭目として告発されて、ひどい拷問を受けて……彼みたいに、首を刎ねられているはずさ。とっくの昔にね』

『…………』

 薄っぺらな調子の告白から立ち昇る嘲弄の香りに、果たして少女は気がついたのか。

 相も変わらず反応のない横顔に一瞥を投げ、少年は再び薄い肩を竦めた。

『見ないふりをするのは、確かに楽だよ。でもね……それを繰り返し続けると、もうどうにもならなくなるのさ。泥みたいに溜まった不満と恨みは、もう溶かせない。それを与えた本人に、どうにかしてぶつけでもしてやらない限りはね』

『……そなた』

 ようやく反応を示した少女を迎えたのは、いつもの食えない眼差しでも、ましてや先頃僅かに仄めいた揶揄でもない。

 己をしかと見返す少年の双眸に宿っていたのは、暗闇にぽっかりと空いた洞穴よりも暗く深い、底なしのうつろだった。

 少女が見せた動揺を知ってか知らでか、幼さを残した貌がふわりとわらう。

 凍りついた艶やかな美貌を真正面から捉えたまま、ケレス・ヒルズはゆっくりと言の葉を紡いだ。

『君だって、同じじゃないのかい?ねぇ……マリアン・リーズ』

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