第7章 6

 ランスのいただきには、神の御使いたる、鱗煌く漆黒の龍が棲むという。

 古くからエリア各地で囁かれてきたという言い伝えは、ルナンは勿論のこと、フィルナにおいてもよく知られている。その神秘に満ちた伝説の由来とも言われる、皇宮本殿のドーム屋根──正確にはその内部に穿たれた双頭龍の装飾は、今宵もまた堂々たる姿を晒していた。

 ‘闇夜の王クヴェラウス’の象徴たる意匠を彩るのは、精緻を極めるモザイク紋様と浮彫り。赤と黒の二色のみで施された豪奢かつ丹念な細工は、闇夜に煌く鱗の一枚一枚にまで及んでいる。

 夜な夜な絵姿を抜け出し虚空ヴァラルダを翔けるとも噂される見事な仕事は、まさに龍の棲処すみかと呼ぶに相応しい。しかし、その穹窿ヴォールトの下に広がっていたのは、意外にもごく簡素な空間だった。

 黒一色の床や壁には小さな彫刻のひとつもなく、半円の頂に空けられた八角窓から落ちる双月の光だけが、かろうじて室内を装飾している。

 その柔らかな煌を一身に受けていたのは、部屋の中央に堂々と突き立つ、一振りの長剣だった。

 飾りらしい飾りもないごくシンプルな細身は、ともすればそこらの一兵卒が手にしていても何ら変哲のない代物のようにも見える。

 しかし……月光に照らされてぼんやりと輝くその白刃には、言葉では言い表せぬ、何とも異様な凄味があった。

 ひとつの曇りもなく研ぎ上げられた鋼は円かな静寂も寄せ付けぬまま、月光で淡く緩んだ夜気をはねのけ、ただひたすらに鋭利な姿を晒している。

 禍々しい瘴気にも似たその気配に惜しげもなく身を晒したまま、はゆっくりと顔を上げた。

『‘魂喰いヴァン・ガルディア’』

 夜気を裂いた凛とした響きに、細い肩がぴくりと動く。

 その動きを気にすることなく、抑揚のない声は、再び静かに空気を切った。

『‘生ける戎器ヘルファリアム’を鍛えた名工ガルダンの、稀代の遺作。その刃に触れた者の呪力を根こそぎ奪う、‘貴種殺し’とも呼ばれる妖刀』

 あくまで涼やかな口調が内包するのは、白刃のように鋭く冷ややかな棘。

 ようやく振り返った半身を、紅玉ルビーよりもなお深く輝く、唐紅色の双眸が迎えた。

『その安置所に……一体何の御用ですか?』

『……ノックくらい、してよね』

 氷針さながらの視線で己を穿つウォルメントを見返し、ケレスはゆらりと口端を上げた。

『今宵の空は、大層綺麗だ。まさに、儀式の前夜に相応しい。そう、思わない?』

『質問に答えなさい』

 詠うような呟きを言下に切り捨て、麗人は再び言の葉を紡いだ。

『ここは神域です。出入りが許されているのは、特別に勅許を得た者のみのはず。その上で……もう一度聞きます。ここで、何をしているのですか?』

『……相変わらずお固いねぇ』

 愛らしい顔に悪戯な笑みを湛えたまま、少年はふと大きな目を細めた。

『ここのところ、ずいぶん忙しかったからね。特等席で月見としゃれこもうと思ったのさ。ちょっとくらい、大目に見てよ』

『忙しい、ですか』

 恐ろしく平明な科白の響きを知ってか知らでか。いささか芝居がかったため息とともに、ケレスはひょこりと肩を竦めた。

『忙しくて死にそうさ。セレナ姫のご機嫌伺いに、皇宮の警備のお膳立て。それに、明日の準備もろもろ!君にはそっぽ向かれるし、レジェットは役に立たないし……フィリックスと僕ふたりで、全部さばいているんだよ?誰も彼も、本当、人遣い荒過ぎ!過労死したら、化けて出てやるんだから』

『……人遣いが荒いのは、貴方も同じでしょう』

『はぁ?一体、何の……』

 思わず口を尖らせた少年の科白はしかし……次の瞬間、不自然にふつりと途切れた。

水領土イアリンのニケア・トレズ、火領土グラウダのミアーハ・ジェルス。風領土バリンのエン・グレイズ』

 愛らしい微笑の名残を留めたまま凍った貌を、絶対零度の視線が真っ直ぐに射抜く。

 ゆっくりと差し出された麗人の手の上に乗っていたのは……藍緑色の眼を持った、愛らしい一羽の小鳥だった。

『それにマリアン・リーズまで。他にもずいぶん多くの者を補翼しているようですが』

『……何の、ことだい?』

『対象物を呪力で縛り、形容のみを組み替える』

 かすかに細められた唐紅の瞳が、酷薄な翳りを帯びて光った……その瞬間。

 愛らしい野禽の姿は、軋むような音を立てて氷結していた。

『……理論的には、極めて簡単です』

 優美な五指の間から滑り落ちた氷の像は重力に従い、そのまま地へと叩きつけられる。甲高い破砕音の代わりに響き渡ったのはしかし、木枯らしに舞う葉の如く、固く乾いた音だった。

『……使い魔サヴァントの術を一旦解いた上で、内容はすべてあらためました』

 漆黒の床に落ちた紙片にただの一瞥もくれず、麗人は再び口を開いた。

『トレスとジェルスは、既に吐きましたよ。エヴァライムズに協力した事と……それを勧めた人物の名をね』

『…………』

 一言も発さず立つ少年を見据えたまま、ウォルメントは懐から小さな冊子を取り出した。

 一見して上等品と分かる装丁の表紙は、目の覚めるような深い藍色。

 その彩をみとめた幼い瞳に、初めて驚愕の漣が立った。

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