第5章 9

『私の、母は……』

 表情のない仮面にはじめて入った一筋の亀裂を知ってか知らでか。激しく揺らぐ双眸を瞬かせながら、セレナは再び口を開いた。

『私と兄を庇い、の手にかかって死にました。火に撒かれ、灰も残らず焼き尽くされて。その時……私も、思いました。私たちがいなければ、母はまだ生きていられたはず。私たちの存在が、彼女の命を縮めたのだと。でも……それは……違うのです』

 膝上で綺麗に揃えられていた真白い手が、柔らかな絹地の上でぎりと握り締められる。少しだけ赤みの残った目元を刷いたのは、先刻の血しぶくような激情ではなく……ひたすらに澄み切った悟入の光だった。

『私たちを生かしたのは、母の意思。それがどんなに残酷なものでも、彼女がそう望んだ以上、私たちには受け入れることしか出来ない。それを否定し続けることは、郷愁でも……ましてや、愛でもない。独りよがりの、ただの冒涜です。私たちに出来る事は、ただひとつ……生きることだけ。母の名に恥じぬよう、生き続ける事だけです』

 ため息のような呟きを伴に、燐水晶りんずいしょうの煌めきを溶かした髪がさらりと薄い闇を弾く。彫像のように凍りついたままの男をゆっくりと仰ぎながら……乙女は今再び言の葉を紡いだ。

『……兄妹の絆に様々な形があるように、親子の絆にも様々な形がございます。互いに滅ぼし合うことでしか示せぬ情というものも、そのひとつかもしれません。でも……その根本にあるものは、皆同じものではないかと……私は思います』

 やや緩まった語調が、わずかな余韻を残して消える。

 その後に残されたぎこちない静寂の中……セレナは恥入るように長い睫毛を伏せた。

『……訳知り顔で、失礼を申しました。どうぞ、お聞き流し下さい』

『……いや』

 か細い呟きに重なったのは、どこか気の抜けたような嘆息。

 そろりと上がった緑瞳が見出したあかは、先刻と同様、不気味なまでに冷えたまま。

 しかしながら……その視線はひどく穏やかな光を湛えながら、目の前の乙女を見つめていた。

『……言葉の力も、案外侮れぬものやもしれぬな』

『……?』

 不思議そうに瞬きした翠緑玉エメラルドを置き捨て、ルスランは素早く……そして素気なく踵を返す。そのまま長椅子の横をすり抜けようとしたその脚は、しかし次の刹那……不意にぴたりと歩みを止めた。

『……今少し、聞かせてはくれぬだろうか』

 何とも言えぬ微妙な体勢と距離とを保ったまま、男がぽつりと言の葉を零す。思わず振り返ったセレナの視線の先で、ぴんと伸びた広い背中がかすかに揺れたような気がした。

『貴女の言葉は……心地よい。故に……もう少し、聞いてみたい。ふと、そう思った』

 訥々とつとつと……そして幾許いくばくかの逡巡を乗せて放たれた科白に、翠緑玉の瞳がきょとんと見開かれる。

 その呆気にとられたような表情が、さざなみのように出でた微笑の中へと沈むのに……それほど時間はかからなかった。

『勿論……貴女さえよければ、だが。不愉快に思ったなら、聞き捨てられよ』

『……ならば、私からもひとつお願いが』

 詠うように紡がれたソプラノに、今度は男が振り返る。

 無表情の中に仄見える疑問符と困惑を穏やかに見据えたまま、セレナは再び唇を開いた。

『貴男のお話も、聞かせて下さい。私ばかり話すのでは、何やら申し訳ない気がしますもの』

『……話すことなど』

『どんなことでも構わないのです』

 口籠るルスランの科白を継ぎ、乙女は軽やかな仕草で首を傾げてみせた。

『貴男自身のこと、お母上のこと……それこそ、その日に起こった出来事でも。貴男のことを、貴男の言葉で教えてください』

 仮面のような顔の中、目だけを不思議そうに見開いたルスランが、しばしの間を経てこくりと頷く。

 その大真面目でいてどこかコミカルな仕草に、セレナは再びたおやかな笑みを浮かべてみせた。

『……では、何からお話しいたしましょうか』

 長椅子に座す己の隣を示した翠が、落ち着かなげに彷徨う赫をそっと促す。

 淡雪のように踊る光の雨の中、相反する色味を纏った二対の瞳は、同じ温度と……そして安らかな光を乗せて、穏やかに煌いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る