幕間1 夜想曲

幕間1 

 追われ追いつつ昇り切ったふたつの月が、端然と敷かれた白砂の道を照らす。

 王城の北殿の最奥に置かれた‘うれいの苑’――正確にはそこに置かれた廟堂に通じる小径の途上で、シェザイア・リングルはふと嘆息した。

 道沿いの生垣を覆う蔓薔薇つるばらは、まさに今が盛り。白い花弁から零れる馥郁ふくいくたる香りは、とっぷりと降りた夜の帳を艶やかに彩っている。

 しかし、真っ直ぐに前を向いた大将軍の顔に、その芳香を楽しむだけの余裕はほとんど……否、全くと言っていい程無かった。

 鷹のような鋭さを隠そうともせぬ碧玉ジャスパーの瞳は、薄闇の中に伸びた白路を、そしてその先に茫と霞んだ淡翳をまんじりともせず見つめている。

 不穏な影に沈んだ彼の視線が、僅かながらに緩んだのは……果てた生垣の先に建つ白亜のびょうと、その前に立つ長身の影をみとめたその時だった。

「……お探し申し上げました」

 思いのほか響いたバリトンの声に、大理石の扉の前に佇む男がゆっくりと振り向く。

 深く一礼した大将軍を凛然たる眼差しで見遣りながら、男――コーザは静かに口を開いた。

「……礼はよい。状況は」

「……は」

 素早く顔を上げたシェザイアが、白礼装を着込んだ王を真っ直ぐに見上げた。

「ハルとアースロック――否、王太子殿下は、夜更け前にレアルを離れ、西へ向かった模様。伝令を飛ばし、追尾の兵も出しましたが……おそらくは、もう」

「……‘森’の中であろうな」

 ぽつりと零れたため息のような科白に、銀鎧の大将軍は再び深く頭を垂れた。

「止められなんだは、我が不徳の致す所。この不始末の責、いかようにでも」

「気に病まずともよい。そなたの咎ではないのだから」

 淡々と紡がれたねぎらいの言葉に、シェザイアの瞳が苦しげに歪む。厳しく絞られたその虹彩の内には、黒い岩漿マグマのような無念と疑念が渦巻いていた。

「……ハルの出奔は、まだ納得ができます。が、まさか王太子殿下をかどわかして巻き込むとは……。あれは一体、何を考えているのか」

「……拐かしたわけではなかろう」

「……?」

 不意に空いた疑問の間を埋めるように、コーザは碧味を帯びた緑瞳を細めた。

「ルナンの貴族は、何より誇りを重んじると聞く。その最たる男が育てた者が、そのような卑劣な真似をするはずはない。ハルは、ひとりで行った。その後を、アースロックが追ったのだ」

「な……!?」

 背後で上がった驚きを伴に、コーザは再び廟へと直る。

 かすかに落ちた視線の先にあったのは、扉の前にそっと置かれた、一本の白百合。豊かに開いたその花は、儚げな女の横顔のようにも、あるいは生者を誘う死人の腕のようにも見えた。

「……ここの地下堂には、王妃の――メディーナの墓所がある。出奔前、母に別れを告げに立ち寄ったのであろう。おそらくは……二度と戻らぬ覚悟を決めて」

 狼狽も露に絶句した大将軍の気配をよそに、コーザはただ静かに立ち尽くすのみ。

 その純白の肩がふと竦められたのは……不意に強さを増した夜風が、献花の花弁を大きく揺らした、丁度その時だった。

「……子は親の鏡とは、よく言ったものだ」

「……陛下?」

 皮相的な独白めいた王の言葉に、シェザイアがふと眉をひそめる。

 その表情を知ってか知らでか、伸びた背筋はそのままに、コーザは再び口を開いた。

「……メディーナがアースロックを産み、身罷ってから今の今まで。私はアースロックをこの手に抱いたことはおろか、まともに言葉を交わしたことすらない。が何を求め、何を思って過ごしてきたのか……私は、何も知らぬ。多事にかまけて、知ろうともしなかった。十七年もの間、ただの一度も」

 再び翻された翠緑玉エメラルドの視線が、思わず言葉を詰まらせたシェザイアを見据える。相も変わらず涼やかなその瞳の内には……しかし、暗渠あんきょのように深いもやが掛かっていた。

「昨日のことも同じよ。大広間でアースロックがハルを諌める姿を見るまで、あの二人に交流が――否、自ら後を追う程の濃い絆があるとは、思いもしなかった。それどころか、心の底から驚き……そして呆れた。息子の心中と……それを全く理解せなんだ、己自身に」

「…………」

「……愚かな事よ。これでは、セシリアの二の舞だ」

 ふと零れた王の言葉に、シェザイアは思わずはっと瞠目した。

「姫様が亡くなられたのは、‘断罪の牙’の――反逆者どもの愚かな謀略に依るもの。陛下が気に病まれる事では……」

「同じ事だ」

 急き込むように言葉を連ねた大将軍をやんわりと制し、コーザはするりと瞳を絞った。

「五年前、私はセシリアが――否、ハルとセレナが‘断罪の牙’に狙われている事を知っていた。保護する方法は、いくらでもあったはず。だが、私は何もしなかった。結果、妹は罠にかかり、二人を庇って火に巻かれた。私が、殺したようなものだ」

 あくまで謹厳に引き締まった口元を僅かに侵したのは、微かな苦笑と……そして嘲笑。

 皮肉にもならない微笑を浮かべたまま、コーザはゆっくりと天を仰いだ。

「くそったれた兄貴とは……いささか乱暴な言い方ではあるが、確かに的を得てはいる。セシリアは、根の国で私を嗤っていよう。そして、おそらくは……メディーナも」

「……陛下」

 鷹の目の男が零した気遣わしげな声を伴に、鮮やかな翠緑玉が静かに瞬く。

 翳りを知らぬ月光に照らされた、どこまでも高潔な貌は……今や、ひび割れかけた硝子の仮面の如く、ひどく儚いものに見えた。

 強靭な理性の下に息づくのは、血の通った激情と、そして虚無にも似た諦観。

 賢王と謳われる男が図らずも垣間見せたその業の深さに、シェザイアはただ黙って視線を伏せるしかなかった。

「……無為に長居をしてしまった。許せ」

 一瞬降りた重苦しい沈黙を終わらせたのは、切ないまでに穏やかな……そして冷徹な声だった。

 純白の衣を翻して振り返ったコーザの姿に、シェザイアがはっと顔を上げる。

 未だ動揺の気配が残る彼を穿ったその視線には、一分の隙も……そして、もはやいかなる惑いもなかった。

「執務室に戻る。ますは、伝令より詳しい報告を。その内容を踏まえ、国境付近の警備の見直しをはかる。事情を知る者には、箝口かんこう令を敷かねば。他三国……特に北王国に、此度の事を知られてはならぬ」

「……御意!」

 緊張を漲らせた応答を伴に、コーザが即座に姿勢を正す。

 白砂の路を還り始めた二つの歩みが孕むのは、避けられぬ波乱に挑む闘士の決意か。あるいは、その末路を憂える予言者が紡ぐ虚ろなる哀歌か。

 その答えはただ、置き捨てられた白百合だけが知っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る