第2章 6

『危ないなぁ』

 どこか間延びした科白とともに、無遠慮なくすくす笑いが響く。

 晴れきらぬ硝煙の隙間を縫ったの響きに、ハルは弾かれたように振り返った。

『そんなことされたら、帰れなくなっちゃうじゃないか。穏やかじゃないねぇ』

 ――一体、いつの間に……!?

 その言葉を呆然と飲み込んだハルの背後――即ち虚空の中で飄然と立ち尽くしていたのは……真っ白な短衣を纏った、小柄な少年だった。

 年の頃は十四、五か。大きな杏仁型の瞳にすっきりとした鼻筋、そして赤く小振りな唇。つややかな短髪の下の顔は、まさに‘紅顔の美少年’という表現がしっくりくる程愛らしい。若木のように華奢な手足をぶらつかせ、小首を傾げたその姿は、女神のまわりを飛び回る悪戯な天使の像を彷彿とさせた。

 しかし、彼の身体を飾るのは、女神シュリンガの愛する翠緑玉エメラルドでも、白銀の翼でもない。

 緋色の瞳に、漆黒の髪。ハルと同じコントラストに彩られた少年の背で揺らめいていたのは、陽炎のように不可思議な光輝オーラだった。

 フィルナとルナンの民の決定的な相違――それは、まさに‘翼の有無’の一言に尽きる。

 大地の起伏が激しいエリアにおいて、空を制するということは、即ち世界を制するということ。飛翔の術を持たず、騎獣や飛空挺に頼る他ないルナン人は、当然ながら圧倒的な不利を強いられることになる。しかし、数千数万という年月を重ねた結果……彼らは、全く別の方法でその欠を埋める事に成功した。

『……を見るのは、久しぶりかな?』

 己の背でたなびくものをちらりと見遣り、少年は軽やかに喉を鳴らした。

 驚きの波がようやく引いたハルの脳が、その‘正体’を弾き出す。

 翼を持たぬ‘常夜の徒’の不屈の野心が制空のため開いた最後の活路――‘偽翼ぎよく’と呼ばれる飛翔呪法じゅほうを実際に目にしたのは、青年が思い出せる限りこれで二度目だった。

 太古の昔、エリアを創造した二神が混沌から生み出したという、風火水土の四精霊エレメンタル。彼らに干渉し、その力の一部を利用する能力……即ち‘呪力じゅりょく’によって発動するこの擬似的な翅は、構築と維持とが非常に難しい反面、使いこなせば‘銀翼ウィーラ’に劣らぬ機動力を誇るという。その代表格――‘死神グライヴァ’と呼ばれた男に飛翔のいろはを叩き込まれて育ったハルは、ある意味では誰よりもその威力を理解していた。

 眼前の少年が負った光は、かつて父の背でなびいていたと寸分も変わらぬ輝きを放っている。

 得物を握って身体を引いたハルを面白そうに見つめながら、少年は再び口を開いた。

『僕も、久しぶりだよ。これ程の風の呪法を、間近で目にしたのはね』

 さらりと紡がれたボーイソプラノに、ハルのめじりがつり上がる。

 その虹彩……正確には内で燃える感情を覗き込んだ大きな瞳が、呆れたような吐息とともに揺れた。

『……そんな怖い顔しないでよ。僕、まだ、何なんにも言ってないんだけど?』

『うるせぇ!!』

 怒号とともに武器を構え、ハルは思いきり少年を睨み付けた。

『いきなり火の玉落としといて、今更何ぬかす気だ!?挨拶とかほざきやがったらぶっ殺すぞ!!』

『アレ、僕じゃないもん』

 殺気立った怒りをするりとかわし、悪戯な天使はひょこりと細い首を竦めた。

『アレは、僕の連れのしわざ。手加減してって言ったのに、聞いてくれないんだから。悪いけど、文句ならそっちに言ってくれない?』

『…………!!』

 背筋も凍る程の殺意と憤怒を浴びながらも、幼さが勝る貌はただまろやかな微笑みをたたえるのみ。ぎりぎりと切歯する青年を事も無げに捉えたまま、少年はふと愛らしい口端を上げた。

『…………懐かしいや』

『…………?』

 不意に明度を下げた少年の視線は、怪訝そうに眉を寄せたハルの手元でぴたりと止まっていた。

持ってそういう顔をしてると、ハラーレにそっくり。血は争えないね』

『…………!?』

 苦笑混じりの小さな科白は、しかしハルを瞠目させるのに十分だった。

 先程負った火傷のせいか、あるいはまた別の理由を孕んでか……滑り落ちかけた得物を慌てて握った両手の平に、痺れるような痛みと冷気がじわりと広がる。

 驚きに打たれた青年を映した深紅の瞳が、満足そうにゆっくりと瞬きした。

『……そういえば、自己紹介がまだだったね』

 密やかな含み笑いとともに、少年は芝居がかった仕草で優雅に膝を折った。

『僕はケレス。ケレス・ヒルズ。みんなには、‘悪戯者ウェル・オ・ゾウル’って呼ばれているけれど。とりえずは、はじめまして……かな?ハラーレ=ラィル・殿』

『な…………!?』

 父のなまえで自分を呼んだ少年の科白に、ハルは今度こそ声を上げて後退った。

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